降り積もる
雪が降っている。
母親は「あんたたちの受験だから瑞雪なら良いね」などと言っていたが、彼女はあまり迷信やお呪いなどを信じていない。
だからこれはただの綿雪だ。大きな雪片がひらひらと舞い、そうして全てを白く染めていくだけの、ただの雪だ。
しゅんしゅんとストーブにかけたやかんから音が鳴り、襖を閉めていても居間で父親が見ているテレビの音が小さく漏れてくる。その程度の雑音に集中力を乱されるタイプではないが、弟が静かな環境を望むタイプだからこのところ両親は気を遣っている。
過去問の自己採点が終わり、かたんとボールペンを置くと息を吐いて肩の力を抜く。どうも真剣に取り組みすぎたせいで無駄に力が入っていたらしい。首を回してこりをほぐすと、彼女は珍しくもない雪景色の向こうを硝子窓に透かした。
弟のような存在だった。
家々が離れてぽつぽつと点在する田舎のことだ。間に畑を挟んでいてもお隣さんではあるし、近い年齢の子はより一層離れたところにしか住んでいなかった。
だから気づいたら自分と洋介と彼と、いつも三人で遊んでいるのが当たり前であり、三年前までそんな日々がずっと続くのだと根拠もなく思い込んでいた。
当たり前が当たり前でなくなった最初は、彼女が中学に上がった時だったろう。
今までずっと登下校が一緒だった。小学校も小さな規模だったから、授業では別と言ってもほぼ一日中一緒にいるのと変わらない。
けれど彼女が中学に通うようになると、登校時間も違えば吹奏楽部に入った彼女が部活動を終えて帰宅する時間も違う。一日顔を合わせないことがある、というのはあれが初めての一年間だった。
彼が中学に上がってからは再び一緒になったが、高校でまた顔を合わせない一年が始まる。面倒になって部活に入らなかった彼女が中学時代より早く駅に降り立つからだろうか、二学期からは受験で部活動を行わなくなった彼がよく駅の前で待っていた。いや、部活動のない彼とたまたま駅で会っていたと思っていたのだが、今思えばあれは彼が彼女の帰宅時間に合わせてくれていたのだろう。
嫌われてはいないと思っていた。
幼い頃はそれこそ常に後を付いてきて朝から晩まで一緒に過ごして来たし、子供が少なかったから男女が一緒にいてからかわれるような年頃でも、子供染みた仲違いを外部要因で発生させられるようなこともなかった。もしかしたら彼の方は何か言われたことがあるのかも知れない。実の弟である洋介は中学校に上がった辺りから明白に姉を避けるようになっていたから。
それでも彼が自分から離れるとは思わなかったし、そんな関係が永遠に続くような気がしていた。
思えばそれに甘えてしまったのだろう。
彼の傍はとても居心地が良かった。
弟よりも気が利くし、実際彼は年齢に不相応なくらい大人だ。
潔癖症なところがあり、それが行動に表れるとちょっと怖い部分もあるけれど、基本的には穏やかで感情の起伏を他人にぶつけることがない。むしろ、彼女の感情の変化に気づいて細かく対応を変えてくるようなところがある。
彼自身はあまり自己評価が高くないから気づいていないようだが、あんな小さな中学校でもモテていた。ラブレターやバレンタインのチョコレートを頼まれたのも片手で足りるレベルではない。もちろん、自ら行動を起こせない人を好まない彼女は依頼を全て丁重にお断りしていたけれど。
そんな彼だから一緒の高校に来ると聞いた時も、ああまた彼との関係を根掘り葉掘り聞かれたりするんだろうな、とも思ったし、そんなことを思った時点できっと彼女は彼とずっと一緒にいることを受けれていたのだし、それが当たり前だと思っていたのだろう。
実際に中学の時ほどではなくとも数人に関係を尋ねられたこともあった。だから日和から彼のことが気になると言われた時も、最初に感じたのはやっぱりという気持ちだ。
高校から一緒になった日和は明るく誰にでも平等に振る舞える子で、彼女とそう言った面で気があった。それでもやはり都会っ子なのだろう、彼女と比べてもどこか垢抜けた感じがありおそらく高校で一番人気があったのではないだろうか。名は体を表す、その言葉が色々な意味でぴったりな友人だ。
ただ真面目なだけで、小さなコミュニティで幼馴染や弟と過ごす日常に満足しきった彼女とは、そこが違ったのだろうと思う。別にモテたいなどと思っている訳ではないけれども。
彼女が彼にそういう想いを抱いたことに意外性はなかったが、けれどそのことを自分に打ち明けてきたことは意外だった。あけすけで行動力のある人間だから、自分でどうにかするのではないかと思っていたからだ。
そのことを言えば、
『和と付き合ってると思ってたから』
『私が?拓と?ううん、ただの幼馴染だよ』
『うん、それは祭りの時に何となく感じてたけど……川越君はどうなのかなって』
『どう?』
『彼は和のこと好きなんじゃないかな。それっぽいことはなかったの?』
『ええぇ……それっぽい、と言われても。長い付き合いだから割と思ったことは全部言い合ってると思うよ。でも、それっぽいねぇ……うーん』
『あ、別にいいよ無理に思い出さなくても。私もね、自分がこんなに臆病だとは思わなくってさ』
『臆病って、あ、拓の気持ちを確認するのが怖いってことか』
『う、ま、まあね。ほら、だって怖いでしょ、こう、万一ね、何て言うかほら、私が』
『日和が拓に告白したとして』
『そそそ、そう、それ。で、失敗するのはやっぱり怖いじゃない』
『そりゃそうだけど』
『……今まで気になった人なんていなかったから、大して勇気なんて必要ないって思ってたんだ。でも、いざ自分がこうなるとすごくよくわかる。怖いんだよね、失敗することよりもその先を考えちゃって』
『失敗するよりも?』
『うん。仲の良い先輩って位置を失うのが、怖い』
それは彼女にもよく理解できた。
十七年、築いて来た幼馴染という関係が壊れることはどれほどの不安を伴うことか。彼女にとって彼は幼馴染であり弟であり。日和のような気持ちが全くないのかと言われるとわからなくなってしまうが、どれか一つの単語で言い表せるような関係でないことは確かだ。
一緒にいることが当たり前の関係。
そんな彼の存在が、彼女のごく一般的な高校生としての恋愛感情の醸成を妨げたのかも知れない。それなりに人気のある男の子が常に自分といる。今までも、これからも。
きっと安心感だ。一歩進んだ関係に至らなければいなくなってしまうかも知れない、関係が切れてしまうかも知れない、そういった感情に至ることがなかったから焦燥感も身を焦がすような思いも得ることがなかった。だから彼女は大人びて見えてその実、同学年の誰よりも幼いのだろう。
そのことを日和に意識させられた。
『和は甘えてるんだよ』
『そうかな……うん、そうかも』
男子に対するそういった気持ちがよくわからない、と言った時の指摘は納得できるものだった。だから進路を考えている時にふと日和に学部のことを漏らしたら、夏祭りで会った兄への相談を勧められたのだ。
『人畜無害だから、連絡とってみたら?もしかしたら和もそういう気持ちになることがあるかも知れないでしょ』
『どうかなぁ。そもそも社会学について相談するのに、そんな下心を持つのは失礼なんじゃない?』
『だからうちのお兄ちゃんなんじゃない。好きに使っていいんだよ、お兄ちゃんなんか』
『兄妹なのに随分な言い方だね』
『兄妹だからでしょ。日和と川越君との関係とは違うもの』
それは思いの外深く彼女の心に突き刺さった。
弟のように思っていても、弟ではない。彼は洋介ではないのだ。
だからだろうか、日和の兄、裕太に大学の話を聞いていることを彼に知られたくなかった。意識して隠していた訳ではない、けれど彼のことだから気づいてはいただろう。
……いや、誤魔化さずに言えば意識して隠していた。
より正確に言えば、隠していると思う自分の心を偽っていた。彼に対する変な罪悪感を認識するのが怖かったのだろう。
いつものように彼と登校し、いつものように笑い、いつものように一緒に下校しながら、少しずつ少しずつ彼女の心に彼への後ろめたさは降り積もって行った。それなのに、認めようとしなかった。
今年の夏休み、日和が勇気を出して彼を誘い一緒に出かけた時もそれを知りながら「ふぅん、そうなんだ」と思い込もうとしたこともそれと同じだったろう。どこかで認識しているのに、認識していることを誤魔化そうとしている。
どれだけ覆い隠そうとしたところで、剥がされてしまえばそこにあるのは醜い嫉妬なのに。
そう考えて彼女は、はぁ、と深くため息をついた。
ストーブのおかげで予期していたような白い息は出ない。ただただ自分への嫌悪感が透明に吐き出されるだけだ。
そう、嫉妬しているだけなのだ。
今思えば、中学の時に断り続けた架け橋としての役割も「自ら行動できない人が嫌い」だからなんかではない。たぶん。
その気持ちを認めたくなくて別の言い訳を用意するあたり、自分は本当に出来の悪い人間だと落ち込んでしまう。
割り切れない気持ちで庭を眺める。昨夜から降り止まない雪は庭を白く覆い、この窓の先にあるはずの彼の自宅はまったく見えない。
自分で決めた進路だからこんなことで惑わされている場合ではないのに、そう思いながらもなかなか次の過去問に手を伸ばせない。まだあと二ヶ年分が手付かずに残されている。入試に追い立てられているからではなく、幼馴染や友人との関係で追い詰められることになるとは思ってもみなかった。
「拓はなにしてるかな」
つい呟いてしまったのは、秋口から空いてしまった距離を改めて感じてしまったからだ。
今年は彼女と弟の受験が重なるからか、正月の両家の集まりはなくなったらしい。その気遣いは受験勉強とは無関係のところでありがたかった。登下校でもどことなく空回りする会話、無理やり作る笑顔にきっと二人とも疲れてしまっている。
そしてその原因が彼女自身にあることは、誤魔化すこともできず理解してしまっている。
『裕太さんに学部のことは聞いたよ』
そう彼女が言った時の、傷ついた心を無理やり抑え込むような彼の表情が彼女の頭から離れない。
なんでもないはずだった。彼も彼女も。
ただの友人の兄に、たまたま目指す学部が同じだから参考までに話を聞いていうだけだった。いや、そうであるはずだった。彼女の中では。
でもきっと彼にとっては違ったのだ。
いや違う、これも誤魔化しだ。
彼にとってはそんな他愛ないことではないとわかっていたから、彼女はその話題を避けていたのだ。なんでもない話だと思い込みたかったから、敢えてその時口にしたのだ。「なんでもないことだよね」と彼に確認したいがために。
一瞬だけ陰った彼の表情はけれどすぐに戻り、忘れ物をした、と到着した電車に乗って去り、翌日からもいつも通り一緒に登校した。
けれど、お互いのことを理解している幼馴染だからこそ、それが本当に普段通りなのかどうかなんて言うまでもなくわかっていた。
彼にあんな表情をさせてしまったのは自分だ。
でも、だからどうすれば良いのか、どうしたいのか自分の気持ちもわからないままではどうしようもない。だから受験勉強に打ち込んでみた。それがただ、汚い自分を覆い隠すだけであると知りながらも。
雪は止まない。
水を含んだ重い雪が、全てを覆い隠すように降り積もっていく。
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