落ち葉

 木造の無人駅舎に、覆いかぶさるように立つのは桜と公孫樹。

 砂利の広場を挟んで線路沿いに並ぶ隣の集会所には柿や楓なども植えられているが、樹齢も相応にあるのだろうこの二本は周辺でも一際目立つ存在だ。春と秋を象徴するかのように対となっているそれを彼は嫌いではなかったし、特に紅葉する季節は周辺の木々の色づきと相俟って悪くない景色だと思っている。


「そろそろマフラーも出した方が良さそうだね」

 コートは着ているが、手袋やマフラーを必要とするほどではない。実際、彼は上着の中にセーターを重ねているだけでコートはまだ出していなかった。

「そうかな。まだ百舌鳥も高鳴きしてないよ」

「先週鳴いてなかった?」

「あー。うち、機密性高くしちゃってるから。締め切るとあまり外の音聞こえない。部屋にいる間はヘッドフォンしてるし」

「くっ……拓がまた上から目線で」

「いや何でだよ」

 下らない話をしながらホームに降りると、背後で扉がしまり低い唸りを上げながら下り列車が動き出す。何となくそれが山間に消えていくまで見送っていると、そんな彼を急かすでもなく彼女も黙って付き合った。


 がたんごとんがカタンコトンになり、トトン、トトンと小さくなっていく。線路を伝う車輪の音も消えると、周囲には風が薄を揺らす音とヒタキの鳴き声だけになる。

 何気ない、いつもの下校風景だったが同じ秋の景色の中でも二人の感情は昨年と同じものではなかった。

 ───どうしてこんな気持ちになってしまったのか。

 すっかり消え去った列車の後ろ姿をまぶたから消し去りながら、彼はぼんやりと思う。

 去年は夏祭りの件があったと言え、一年前と同じように彼女と毎日を過ごせることに心は軽かったし薄野原を流れる風は冷たくなかった。他愛ない会話、季節ごとの景色は幼い頃と何も変わらず、今までもこれからも同じように時を過ごせると漫然と思っていた。

 けれど春に日和から聞いた彼女の未来に関する棘を、夏に彼女の口から直接確認してしまったことで変わらない過去はあっても変わらない未来はないのだということを否応なしに認識させられてしまった。

 彼女は先に歩く。

 彼はその後を追っていく。

 子供の頃はそれで十分であっても、大人になるとそれだけでは追いつけないのだと。


「和ちゃんは」

 山から吹く風に頭を押されるように街へ頭を向ける薄を見ながら、呟いた彼女の名前はその実呼びかけではなかった。だから同じように薄を眺めていた彼女の視線に、何と言えば良いか困惑してしまう。

 ただ彼女がそこにいる、それを確認したかっただけなのだ。

 問いかけて来ない彼女に甘え、黙り込んでしまった彼が生み出す沈黙を破ったのは彼女の方で。

「ね、拓。拓は日和と付き合ってるの?」

 その言葉で驚いたように顔を向ける。まさか彼女からそんなことを言い出すとは思わなかった彼は、不意打ちを喰らったまま言葉を作れずまじまじと彼女の横顔を見る。さっきまでの穏やかな表情ではなく、硬く結ばれた唇は彼の言葉を待っているようにも思えた。

「別に……なんでそんな話になるんだよ」

「なんとなく」

 彼女にしては曖昧な表現だが、そうなるのも致し方ないと言えた。


 夏休み、珍しく誘われた彼が一緒に市内に出かけた時の図書館で、告白紛いのことを言われて言葉を失う彼に日和は笑って日常へと戻した。好意があることはわかった。けれどそれがどこまでのものなのか、彼が彼女に抱くそれと同じものであるのかどうかは結局わからず終いで今日まできている。

 あれから夏休み中に会うことはなかったし、二学期が始まり彼女との登下校で出会うことはあっても夏休みの続きが始められることはなかった。だから彼はいったいあれが何を示すものなのか確信を得られないままでいる。友達なのだから、彼女に日和から何らかの話があったのかとも思って期待したが、彼女の反応を見る限りそれはなかったのだろう。

 本人に問いただす。

 そんなことができる訳もない。

 だいいち、何と尋ねるつもりなのか。「俺のことが好きなんですか」だなんて馬鹿らしいにも程があるし、そもそも彼は自分を正確に評価できていると自負している。可もなく不可もなく、何もかもが平均で器用貧乏、彼女一人を十年以上想い続けていることくらいしか取り柄はない。そんな彼だから、いやだからこそ人気のある先輩に妙なことを聞くなんてできる訳がないし、自惚れてもいない。

 あれは誰にでも愛想よく振る舞える先輩の、いつものコミュニケーションのひとつでしかない。

 そう思うことにしていた。

 いや、正確に言えばそう思って現状維持をしつつ踏み込むことを避けていたと言えば良いか。


「何もないよ。ただ……夏休みに図書館に付き合ってもらって、それだけ」

 何がそれだけなのか、自分でもよくわからない言い訳染みた返答になってしまったがそれ以外言いようがなかった。それはそれで事実ではあったが、かと言って完全な事実であるとも言い難かったけれど。

「和ちゃんこそ、どうなんだよ」

 だからつい自分の話題を避け、彼女を責めるような口調になってしまう。

「進路のこと。何で俺には隠してたわけ?」

「別に隠してなんかいないよ。ただ、何となく言うタイミングがなかったって言うか」

 それはそれで彼女なりの事実ではあったろう。けれどそれもまた、完全な事実でもなかった。

「高校の時はさ、洋介とかまで巻き込んで家族包みだったじゃない。だからわざわざ私から拓に伝えるまでもなかったし。でもこうして自分ひとりで考えなきゃならない進路って初めてだったから」

 自分に相談すれば良かったじゃないか、という言葉を辛うじて飲み込む。それを言ってしまえば、より一層彼の知りたくない事実を突きつけられてしまうな気がしたからだ。「拓に大学のこと相談してもわからないでしょ」と。

「それだけじゃないだろ……」

 口をついて出てしまった言葉に悔やむが、一度吐き出したものは戻せない。

 落としていた視線を上げた彼女が、薄野原ではなく彼に目を向ける。正面切ってその目を受け止める自信はなかったが、いやでも視界に入ってきてしまう。長年の付き合いでその視線が何を問うているのかがわかってしまう自分が、誇らしいやらうんざりするやらで忙しい心中の彼を尻目に、

「何のこと?」

 そこは流して欲しかった、そう思う彼だったがきっかけを作ってしまったのは自分だ。決定的な言葉なんてもちろん聞きたくないし、影がちらつくレベルだって嫌だ。不快でしかない。それでも拾われてしまったのでは仕方ないだろう。

「誰かには相談したんだろ、ってこと」

「誰かって……そりゃ、進路相談は受けたし親には受けて良いか確認したけど」

 もうそれで良いか、と思う。

 だが、そう答えた彼女自身が回答に満足していない。それが彼の言葉に対する回答には足りていないことを正確に把握していた。

「拓、何が言いたいの」

「いやだから、他にも情報はあったんだろ」

 妙に曖昧な言い回しに彼女は一瞬だけ不審げな色をその瞳に浮かべたが、薄を揺らす風が頬を撫でた時には思い当たったように頷いた。

「ああ……裕太さんに学部のことは聞いたよ」

 彼女の言葉に、彼は今度こそはっきりと不快と苛立ちの色を表す。彼女が他人の、それも彼が疎んじている名前が出しまうことを許せそうになかった。無論彼がそんな名前を耳にしたのは初めてだったが、それが誰のことを示しているのかなんて明白だったから。

「誰だよ、それ」

 そいつ、と言わなかっただけでも自分を褒めたいくらいだったが、わかっていることを問い返してしまった失点の方が大きく上回る。

 聞くべきではなかった。

 聞きたくない。

 彼の推測を裏付けてしまう事実を彼女の口から聞きたくない。

 だが、彼の望みは叶えられなかった。


「日和のお兄さん。拓も去年の夏祭りで会ったでしょ」






 足元に秋の夕陽が落ちている。

 車窓に流れるいつもの風景をこうして夕陽の中で眺めるのは目新しいはずなのに、彼の心はまったく動いていなかった。

 折良く入線した上り電車に、忘れ物をしたと苦しい言い訳をして逃げるように乗車したことによる無駄な時間を嘆いている訳ではない。いや、それももちろん彼を憂鬱にさせる一端ではあるのだが、そこに至るまでの自分の行動全てが彼を沈鬱な気持ちに落としていた。

 唯一、感情に任せた言葉を彼女に投げなかったことが褒められることだろうか。

 わかってはいるのだ。

 彼女は真面目だから、彼の周囲の友人たちのようにできるだけ長く遊びたいからなんて下らなくもごく一般的な理由で大学を選びたくないだけだ。きちんと将来を見据えて大学や学部を選ぼうとしているのだ、教師や親たちにしてみれば優等生以外の何者でもないだろう。

 だが、そこに男の、それも彼の知らない大人の世界を知っているであろう男の影があることが、何をどう言い繕おうと叫びたくなるような気持ちにさせる。

 そんなことは妄想だ、あり得ない、そう思っても大学生となった彼女が顔も覚えていない先輩の兄に抱かれている想像が振り払えない。不快であり、苦痛。

 あり得ない妄想なのに浮かんでしまうのは、当然のことながら彼自身が彼女を自分のものにしたいと、同じ行動を取ることを願っているからだ。健康な男子高校生だ、性欲がカケラもないなんてあり得ない。同じくらい独占欲だってあるから、彼女の隣に他の男が立つことなど許容できるはずもない。


 はぁ、と大きくついたため息が他の誰かに咎められることもない。

 この時間に市内へ向かう電車に他の乗客があろうはずもなく、二両しかない車両のどこを見渡しても彼しか人影はない。次の駅で幾人かは乗ってくるだろうけれど、今は誰もいない場所で一人で落ち込みたい。

 まだ秋だ。三年が受験休みで登校しなくなるまで期間がある。それまでは彼女と登下校を一緒に過ごせるのだから、こんな想いは早く切り替えたい。

 そのためにも今はどん底まで落ち込んで、明日からはいつも通りに彼女と過ごしたかった。


 カーブを過ぎて加速した直線の先に駅が見える。

 木造でも無人でもない駅舎は、今日に限ってやけに都会的に見えた。もちろん、駅員なんて改札に一人しかいないし乗降客もたかが知れている。駅舎は平家でしかない。彼女が来年使う駅はきっと、これよりも大きくて人もたくさんいるのだろう。そう思うとやり切れなかったが、その気持ちを切り替えるために無駄に電車に乗ったのだ。

「……歩くか」

 40分以上かかるだろけれども、このまま折り返して帰宅する気にもなれない。何もかも気に入らないし、不愉快さはきっとこれからも消えないだろうが、それでも残りわずかな彼女との時間を嫌な想いを抱えたままで過ごしたくはない。

 どうしても彼女は先に行くのだから。

 ならば、彼は追いかけるまで。

 絶対に自分を忘れさせない。思い出になんかさせない。幼馴染のままで終わってなんかたまるか。

 それでも彼女が先に未来へ進むのであれば、今を彼女にも抱え込ませてやるまでだ。

 ならば、こんな気持ちのままで良い訳がない。


 相変わらず煩い停車音を背に、開閉ボタンを押してホームに降りる。

 改札で定期を見せた彼は駅舎を出てロータリーを抜けると片側一車線しかない車道はましだが、歩行者は道端としか言いようのない脇を歩かなければならない。ここから先、最寄駅まではほぼ全てがこんな道でしかないけれど、頭を冷やすにはちょうど良いかも知れない。

 湿った土の上の落ち葉が、足元でくしゃりと鳴った。

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