伍・出会い

 リリがミミズになった後、主がいなくなった湖はどんどん浅くなっていった。人間も少しずつ戻ってきて、蘭泰の街が出来上がった。蘭泰は水上輸送路の要衝として栄え、西から来た金色の髪の人々も住むようになった。


 他の生き物と同様、人間たちもリリを見ると、すぐに殺そうとした。それも、食べるのではなく、ただ気持ち悪いという理由で踏みつぶそうとするのだ。


 リリが花壇の土の中で休んでいると、上から強い光が差した。誰かが土を掘り返したのだ。眩しさに眼を細めながら見上げると、小学生くらいの少女が怯えた眼を向けていた。


「キャーッ! ミミズッ!」


 少女は悲鳴を上げて、周りの少年に「早く殺してッ!」と言った。


「うわ、ホントだ! 気持ち悪いッ!」

「おしっこでもかけようぜ!」


 怯える少女とは対照的に、少年たちは残忍な笑みを浮かべて花壇に近付いてくる。リリは土の下へ逃げようとするが、誰かが埋めた石が回りを囲んでいた。リリは必死に石の下に頭を突っ込むが、少年たちの足音はすぐそこまで迫っていた。


 花壇の外で、カチャカチャとベルトのバックルを外す音が聴こえる。小便をかけるつもりだ……リリはブルリと身体を震わせる。


 もう嫌だ……死にたい……リリがそう思って少年の方を見た時、彼の肩を白く小さな手が掴んだ。


「止めなよ!」


 さっき悲鳴を上げたのとは違う少女の声が聴こえる。


「ミミズは土を柔らかくしてくれる、良い虫なんだよ。だから殺しちゃダメ!」


 少年は「ちぇっ」と舌打ちして、引き下がる。


 フッと影が差し、リリの下の土が盛り上がる。少女が土ごとリリをすくい上げたのだ。リリは頭をもたげ、命の恩人の顔を見る。


 少女の顔を見た瞬間、リリはハッと息を呑んだ。リリの命を救ったのは、小学生の頃のリリだった。


「ミミズさんゴメンね、びっくりさせちゃって……」


 そう言って、小学生の姿のリリは、ミミズの姿のリリを花壇の隅にそっと置いた。


 その時初めて、リリは自分が華瑠の記憶を追体験しているのだと理解した。小学生の頃に花壇で助けたあのミミズは、仙人の呪いで姿を変えられた華瑠だったのだ……



 その日の夜、華瑠は月を見上げて、自分を助けてくれた少女のことを思った。彼女は手が汚れることも気にせず、土に手を突っ込み、華瑠を優しくすくってくれた……


 それに比べて自分は、今まで随分と惨いことをしてきた。あの少年たちと同じく、面白半分に生き物から命を奪い、その身体を引き裂いて笑っていた。


 今なら、何故南祖真人が怒り、自分をミミズの姿に変えたのかが解る。彼はきっと、川の流域に住む全ての生き物を愛していたのだ。鳥や獣、魚、人間、そして小さな虫に至るまで……それを無意味に殺していた華瑠を、彼は許せなかったのだ。


 ごめんなさい、ごめんなさい……華瑠は声を出せない代わりに、心の中で何度も謝った。南祖真人だけでなく、今まで殺してきた全ての命に……


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……もう、十分解りました……だからどうか、この声で、命の恩人に感謝の言葉を伝えさせてください。一度でいいのです、一度だけあの心優しい少女と、言葉を交わしたいのです……


 もちろん、そんな願いが受け入れられるとは思っていなかった。だが、あの少女に「ありがとう」と伝えることが出来たら、その次の日にはモグラに食われても構わないと思った。


「あなたは、本当にあの少女の恩に報いたいと思うのですか?」


 突然、後ろから女性の声がする。華瑠が咄嗟に振り返ると、背中に大きな剣を背負った若い女性が立っていた。不思議な事に、彼女の肌は月よりも明るく輝いている。


「私は月麗公主げつれいこうしゅ……この街の裏山に住む天女です」


 公主は身を屈め、華瑠に顔を近づける。


「あなたが、真にあの少女の幸せを願うと言うなら、私はあなたを人の姿に戻してあげましょう」


 本当ですか⁉ 華瑠は思わず公主に詰め寄る。公主はゆっくりと頷くと、少し厳しい口調で「ただし」と付け加える。


「あなたの龍の姿は、多くの命を殺めた罪の証です。毎月、待宵まつよいの月の晩に、あなたは龍の姿に戻りなさい」


「それでもかまいません!」


 公主の言葉に答えた時、華瑠の口から少女の声が出た。長らく聞いていなかった、自分自身の声だ。


 気が付くと、華瑠は元の人間の姿に戻っていた。


「も、戻った……私の、私の身体だ……」


 熱いものが胸を満たし、華瑠は自分の身体を抱きしめる。


「公主様! ありがとうございます!」


 公主は「礼には及びません」と首を横に振る。


「その言葉は、あの少女に言ってやりなさい。そして、彼女があなたに施した恩を忘れることなく、彼女に尽くして生きなさい」


 そう言うと、公主は一際強い光を放って消えた。華瑠は改めて月を見上げる。待宵の月……満月に至る前の中途半端に欠けた月が、街を照らしていた。

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