肆・南祖真人
自分が龍の姿になってしまったことを受け入れるのに、とてつもなく長い時間を要した。その間、リリはかつて村だった湖の底に身を沈め、揺らめく水面を見上げていた。緑色の光が降り注ぎ、その中を魚の群れが渡っていく様子は、わずかながらリリの絶望を忘れさせてくれた。
だが、魚たちはリリの姿に気付くと、怯えて逃げていった。時には、「アイツは村を湖に沈めた龍だ」「氷のように冷たく、残忍な心を持っている化け物だ」と囁き合うのも聞こえた。意地の悪いヤツに至っては、面と向かって「やい化け物! 俺を食ってみろ!」と言って石を投げてきた。
魚たちからそんな扱いを受けるうちに、リリの心から一枚、また一枚と、人間らしい感情が剥がれ落ちていった。化け物なら化け物らしくしてやろうとムキになって、目の前を横切る魚に片っ端から襲いかかっていった。やがて、湖の魚たちはリリに近寄らないようになった。
リリの敵意は、湖のほとりに暮らす生き物たちにも向かった。鹿が水を飲もうと湖面に顔を近づければ、リリはその細い首に噛みついて水中に引きずり込んだ。しかも、すぐに一飲みにするということはなく、振り回して水面に叩きつけてみたり、腹を嚙み裂いて内臓を引きずり出したりと、徹底的に殺しを楽しんだ。
もちろん、相手が人間ならなおさら容赦なく痛めつけて殺した。馬に乗っていた旅人は、その馬の体重で押しつぶした。船で通った人は、船をひっくり返して、必死に岸まで泳ぐのを追いかけた。そうやって、十人、百人、千人の人を殺していった。
だが、ある時通りかかった老爺はそうはいかなかった。リリが彼を殺そうと顔を出すと、雷鳴のような声で叫んだ。
「お前かぁッ! いたずらな殺生を楽しむ化け物はぁッ!」
その声の大きさに一瞬戸惑ったが、リリも声を張り上げる。
「それがどうしたのッ⁉ お説教でもするつもりッ! つーか誰だよ、アンタ⁉」
老爺は白いひげを蓄えた口を二ッとゆがめ、自らの名をリリに告げた。
「ワシは、この湖の上流に住む
「はぁ⁉ なんだよその理屈ッ⁉ この湖は私が作ったんだから、ここで何をしようと私の勝手じゃんッ!」
「つべこべつべこべと言い訳をしよって……何故素直に『ごめんなさい』と言えんのだッ!」
「うっせぇわッ! 死ねよやぁッ!」
リリは咆哮を上げ、南祖真人と名乗った老爺を飲み込もうと口を開けた。しかし、目の前に龍の口が迫っているというのに、南祖真人は全く動じることなく、懐から巻物のようなものを取り出した。
真人がパッとその巻物をリリの前に広げると、そこに書かれた文字の一つ一つが剣となって飛び出した。口を開けていたリリは、舌や頬、喉に剣が刺さり、痛みに絶叫した。
「痛いか、小娘ッ⁉ しかし、お前に殺された人や獣、魚の苦痛はその比ではないッ!」
「このクソジジイッ!」
口の中に自分の血の味を感じながら、リリは尻尾を振るって真人を叩き潰そうとする。だが、真人はそれをひらりと交わし、巻物をリリに投げつけた。巻物は真人の手から離れるなり、九つの頭を持つ大蛇に変わり、それぞれの頭がリリの身体に噛みついた。
「ガアアアアッ!」
「これでもまだ足りんのだッ! お前は今後五千年の間、奪った命に懺悔し、恥辱と苦痛の中で生き続けよッ!」
真人の声を聴きながら、リリは身体が縮んでいくような錯覚に襲われた。それが錯覚ではないことに気付いた時には、リリの目線は真人よりはるか下にあり、彼の顔を地べたから見上げていた。
「虫けらのように殺される者の気持ちが解るまで、地の中で糞を食って生きていろ」
そう言って、真人は去っていった。
リリは首を曲げて、自分の身体を見る。ぬるぬるした粘液に覆われた、ピンク色の柔らかい胴体が目に入った。真人は「虫けら」と言ったが、彼の言葉の通り、リリはミミズに姿を変えられたのだ。
ミミズになったリリは、龍だった頃とは対照的に、あらゆる生き物から命を狙われた。水に入れば魚たちがパクパクと口を開けて追いかけまわし、陸でも小鳥につつかれた。土に潜っても、絶えずモグラに追われ、アリの大群はリリを見るなり毒の唾を浴びせてきた。
こんなに怖い思い、痛い思いをするなら、いっそのこと死んでしまおうとも思った。だが、リリは動物に襲われるたびに、自然と身体が動いて逃げてしまった。いつ終わるかも解らない恐怖に耐えながら、リリは百年、二百年と生き続けた。
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