第七膳 魂を癒すラーメン(2)
いつもなら紅子はラーメン屋が閉まる頃に来るのだが、今日は少し早い時間にドアを叩く音がした。
こん、と小さな音がして、止まる。音が聞こえたのは気のせいだったのかと思いキッチンに戻ろうとすると、また、こん、と音がする。
ドアを開ける。
心臓に集まった血液が、どくり、と塊になって胸を打つ。
そこには紅子が立っていた。寒さに震え、今にも泣きだしそうな目を私に向けて。
彼女の顔から、ラーメン屋の看板の光が透けて見える。
「紅子、さん……」
紅子の体が透けている。それが何を意味しているのかを頭から追いやっているうちに、彼女の体は、ふっ、ともとに戻った。
「ああ、びっくりした。ごめん。今一瞬、紅子さんの体が透けて見えたものだから」
己の愚かさを嘲笑うように大きく笑みを作ってみる。だが紅子はその場に立ったまま、小さく首を横に振った。
「いいえ。見間違いではないかと存じます。私は、今日を最後に旅を終えます」
深々と頭を下げる。
その姿がまた一瞬透ける。
思考が停止する。
紅子の言っていることは理解していたが、それを受け入れるのを脳が拒否した。
「なん、で」
「先週、家に戻った時、神様の声が聞こえたのです」
また元の姿に戻り、顔を上げる。
「神様が仰るには、以前の私は生きる意味も希望も失っていた。しかし今の私なら前を向けるだろう。だから旅を終え、居るべき世界で幸せを掴み取れと」
唇をぎゅっと噛んだ後、言葉を続ける。
「訊きたいことはたくさんありました。どうして私を救ってくださったのか。どうして時を超えてまで烈様と出逢わせてくださったのか、どうして、と。でも、何も訊けませんでした。畏れ多いから、というのもありましたが、その時の私はただ、神様にお願いを聞き入れていただくことで頭がいっぱいだったのです」
潤んだ瞳がわたしの瞳を射抜く。
「最後にもう一度、もう一度だけ、烈様とお会いしたい。そしてお礼をお伝えして、食卓を囲みたい、と」
紅子の黒い瞳にわたしが映っている。
わたしの姿が消え、外の景色が透ける。
「神様は、困っていらっしゃったようでした。もともと神様の力はあまり強くないそうなのです。それでも今日、私の願いを叶えてくださいました」
寒さで赤くなった手を強く握っている。
「そうか……」
言葉が出てこない。なんとか喉を震わせ言葉を吐き出す。
「……では、紅子さんの魂は、救われたんだね」
自らの吐いた言葉に、少しだけ心がやわらかくなる。
一度俯き、顔を上げる。
紅子が作ってくれた前掛けをきゅっと締める。
「さあ、上がって。すぐにラーメンを作るよ」
紅子との時間を長くとれるよう、焼豚や煮卵のほかに、鶏ガラや煮干しで取ったスープも用意してある。紅子に座って待つよう言ったが、わたしのとなりにぴったりとついて鍋を覗き込んでいた。
たっぷりの湯を沸かす間に、焼豚を切る。彼女の希望で厚めに切ると、このまま食べても美味しそうな仕上がりになっていた。
「食事の前につまみ食いしてみる?」
なんとなく躾の厳しい家で育っていそうだが、今日くらいいいだろう。焼豚の端を口元でひらひらさせる。彼女は少し躊躇った後、あーんと口を開けた。
「ほおうっ!」
もぐもぐと口を動かしながら、目を見開き、どたどたと足踏みをする。焼豚を飲み込むと、両足を踏ん張って声を上げた。
「おっ、おいしゅうございます! 少しごつごつした食べ応えなのですが、周りのこの、茶色い所の味が、お肉の隙間という隙間にこれでもかというほど充満していて、お肉の味と一緒に喉へ向かって爆発するのです!」
ただの焼豚の切れ端なのに、なんだか物騒な兵器みたいだ、と思い、手が止まる。
覚悟したはずのことに胸が痛くなる。
紅子は何年か後に、あの戦争を経験することになる。様々な可能性を考えた末、わたしはそのことに触れない、と決めた。
この決断が正しいとは言い切れない。きっとこれからずっと、言わなかったことを後悔するだろう。だが言っても同じように後悔すると思う。
旧正月の夜、餃子に込めた幸せの祈りを思い出す。
湯が沸いたので麺を投入する。元気よく沸騰していた湯は、教師が教室に入ってきた直後みたいに静まり返った。だがすぐに麺も一緒になってぼこぼこと騒ぎ出す。
タレを入れた丼にスープを入れると、コクとキレが一体となった香りが立ち上る。そこに麺を入れると、スープが嬉しそうに麺を抱き込んだ。
焼豚を並べたら、ぐるりと囲むほどの量になった。バランス的に絶対違うが気にしない。
そこへ葱と紅子好みの濃い目に味つけしたメンマ。海苔も添えたが、サイズが小さかったせいで、丼の隅で申し訳なさそうに縮こまっているように見えた。
煮卵は、切った途端に橙色の黄身がとろりと揺れる。最後にそれを乗せて完成だ。
「わあ、美味しそ……」
丼を受け取ろうとした紅子の手が透ける。落としそうになるのをわたしが受け止め、テーブルに置いた。
目頭が熱くなる。喉が詰まる。もうすぐ来る現実を受け入れねばと、努めて穏やかに言った。
声が震えないように。
「召し上がれ。美味しい魔法が、消える前に」
わたしの言葉に、紅子は取り上げかけた箸を置いた。
体が透けたり戻ったりを繰り返している。小さな唇から細い声が零れる。
「私は、烈様と出逢って、とてもとても、魂が救われました」
すうっと透き通り、消えそうになる。そして元に戻る。
「夜中におうちまで連れてきてくださって、お腹の空いた私にお食事を作ってくださって、お料理をさせてくださって、ありがとう存じます。お買い物も、お料理も、いいえ、烈様と一緒に過ごしたひととき全てが、楽しゅうございました。世の中には、こんなにも優しい方がいらっしゃる。世の中には、優しさと楽しさと美味しいものがたくさんある。だから私は、前を向ける。そう、思いました」
そしてまた、「ありがとう存じます」と頭を下げる。
そんな。何を言っているのだ。わたしのしたことなんて、そんな。
「魂が救われたのは、わたしの方だよ」
想いはたくさんある。紅子に出逢えて、どれだけ楽しかったか。失ったものにしか向いていなかった心に、どれだけ光が満ちたことか。
だが、溢れる心を言葉にまとめることができない。
笑顔を作る。
透けていないはずなのに、目の前の紅子がゆらりと潤む。
「紅子さん、ありがとう」
視界が曇ってきたので、唇を強く結んで耐える。
「さ、早く食べないと伸びちゃうよ」
紅子は挨拶の後、豪快に麺をすすった。
はふはふと息を吐きながら、時折体が透けて箸を落としながら、無言で食べ続ける。煮卵やメンマを口にした時、一瞬何かを言いたそうにしていたが、あの、いつものちょっと何言っているのか分からない食レポをせずにひたすら食べ続けた。
具も、麺も、どんどん消えていく。
紅子の体の輪郭が曖昧になっていく。
スープを飲み、箸を置こうとしたとき、手首から先が消え、箸はテーブルの上を転がって床に落ちた。
箸の行き先を目でたどると、紅子の腰から下は完全に消えていた。
「ご馳走さまでした。美味しゅうございました」
紅子の声が響く。それは目の前の紅子から聞こえるのか、どこか遠い所から聞こえているのか分からない。
「烈様。ご恩は一生忘れません」
紅子に手を伸ばす。だがその手は空しく宙を掴んだ。
「ありがとう存じました」
彼女の笑顔が透き通る。
透き通った頬に涙が伝う。
「さようなら、ごきげんよう」
紅子の姿が消える。
再び現れるのを待ち、そのまま立ち尽くす。
ずっと。
けれども戻ってくることはなく、彼女が食べたラーメンの丼は冷え、わずかに残ったスープの脂は白く固まっていった。
その後、冬が過ぎ、桜が散っても、紅子が戻ってくることはなかった。
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