第七膳 魂を癒すラーメン(1)

🍜お詫び

今回以降のエピソードは、お題のストーリーとは異なってしまいます。

(お題の食べ物と台詞、文章の一部は使わせて頂きます)

また、主人公が食事出来ない、という設定上、今回はエピソードタイトルも変えさせて頂きました。


お題に添いきれず、申し訳ないです。

ご理解いただけましたら幸いに存じます。


🍜


 それは全く突然のことだった。

 そろそろ夜が明けるという頃、紅子は控えめな欠伸をした後テーブルに突っ伏すと、すぐに小さな寝息をたてはじめた。

 彼女は一度寝るとちょっとやそっとの刺激では起きない。仕方ないなと抱きかかえた途端、煙のように姿を消してしまったのだ。


 つい先ほどまで光に満ちていた部屋が、元通りの空虚な空間に戻る。

 わたしの腕だけが抱きかかえる形のまま固まっている。


 まるで白昼夢でも見ているようだった。




 それから一週間は、ずっと心の中に薄雲がかかっている。雲は時折低く垂れこめ、ほろりと頬に雨を降らせた。


「どうしたっていうんだ。独りには慣れているじゃないか」


 気づくと誰にともなく話していた。だが答えが返ってくることはなく、わたしの言葉は日光を完全に遮断した部屋の中に吸い込まれていった。


 紅子の時を超える旅には、終わりがある。

 それは、紅子と、おそらくわたしの魂が救われた時。

 本来なら、とても喜ばしいことが起きた時だ。


 ――おそらく、おめでたい、といいますか、良いことが、近いうちにあると思います。けれどもその時は、お祝いできない気がします。そこで、前もってちらし寿司を、と思いました。


 紅子とちらし寿司を作った時、彼女はそう言っていた。あれはおそらく、このことを指していたのだろう。

 ということは、紅子の魂は、救われているのだろうか。

 もしそうなら嬉しい。紅子が生きることに前向きになってくれたのなら、それは「良いこと」だ。

 紅子の魂が救われた、ということだけに思いを向け、それによって起こるであろうことから目を背ける。


 明日は金曜日。紅子が来る日だ。

 先週、彼女はラーメンを食べたいと言っていた。わたしの家の斜め前にあるラーメン屋が、いつも気になっていたのだという。

 彼女の時代にもいわゆる「ラーメン」はあるそうだが、食べたことはないらしい。初めてのラーメンに何がいいか考えた末、ベーシックな醤油ラーメンに決めた。


 明日のために、焼豚を作った。

 肉を紐で縛り、表面に何か所か穴をあけて焼く。フライパンの上で肉がじゅうじゅうと音を立てながら香ばしい匂いを舞い上がらせる。

 一応、小さめの塊を買ったのだが、某ラーメン店のダブルよりも多い焼豚が出来上がりそうだ。まあいいか。


 綺麗な焼き色のついた豚肉を酒や残り野菜を入れた湯で煮込む。

 さっきフライパンの上で元気に脂を飛び跳ねさせていた豚肉は、野菜や酒になだめられても尚、湯の上にぎらりと脂を浮かべる。

 だが、醤油や砂糖などを加えて何時間も煮込んでいるうちに、こっくりと深みのある佇まいに変貌する。自らの味わいを抱えたまま調味料たちを受け入れ、深く深くしみ込ませている。

 

 窓を少し開ける。すると出来立ての焼豚の香りが、冷たい夜空に向かって勢いよく飛び出していった。

 火を止め、煮汁に茹で卵を入れる。白く初心うぶな姿をした卵は、明日になると芯まで煮汁のしみた褐色の肌に変貌しているだろう。


 紅子は、ラーメンを気に入ってくれるだろうか。

 ああ、早く明日になればいいのに。




 

 金曜日。完全に陽が落ちた頃、小さく腹が鳴った。


「こんな体でもお腹だけは空くんだよな」


 腹に視線を落とす。胃はかつての記憶にすがり、二度と入ってくることのない食物を求めて鳴いているが、今のわたしの体に必要なのは人血だ。紅子が来る前に病院で瀉血しゃけつと輸血をしないと。

 本物の「鬼」にならないように。


 ドアを開ける。

 人口の光を受けて星のまたたきを失った夜空に、白金色の大きな月が浮かんでいた。


「……紅子さん、お腹すかせているかな」


 夜に生きるわたしを静かに照らす月の光に、紅子を重ねる。

 歩き出す。春の訪れを間近に控えたこの時季の風は、どうしてこんなに冷たいのだろう。

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