第五膳 おでかけとちらし寿司(2)
わたしは部屋に戻ってすぐ準備を始めた。
「出来上がるまでちょっと時間かかるよ。お腹空いているところ申し訳ないんだけど、そこで待っていてくれるかな。あ、YouTubeでも見る?」
「えっと、おそれいりますが、私も一緒に作らせていただけますか」
それならと先週も使ったエプロンを手渡すと、ぱあっと笑顔になっていそいそと身に着けた。
だが、なぜかキッチンではなく鏡に向かう。
そして鏡の前で首を傾げたりエプロンをつまんだりしてポーズをつけ始めた。
どうも手伝いではなくエプロンが目的だったらしい。しばらくは自分の世界にひたらせてあげようと思い、黙って蓮根を取り出した。
薄く切った花蓮根を茹で、甘酢に漬ける。本当はじっくり漬け込みたいところだが、今日はそうも言っていられない。
干し椎茸を戻すのは、電子レンジをフル活用だ。
紅子は濃い目の味を好むように思う。だから人参や椎茸にはしっかりと味を煮含めた。
鍋がことことと歌い始めると、キッチンに甘じょっぱい香りが漂う。振り返ると、紅子がうっとりと宙を見つめていた。
「ああ、いい香りです」
わかる。帰宅した時、玄関にこの香りが漂っていたら、それだけで嬉しくなってしまうものだった。食べることが出来なくなった今でも、あの感覚は鮮明に呼び覚ますことが出来る。
ご飯が炊きあがったので、寿司桶に移して寿司酢を回しかける。白いご飯に淡い黄金色の寿司酢がしゅうっと吸い込まれ、酢の香りが湯気を抱いて立ちのぼる。
「紅子さん、酢飯を仰いでくれるかな」
団扇を手渡す。今まで気にしたこともなかったが、団扇にでかでかと「第〇〇回花火大会」と書いてあることに今更ながら気づき、ちょっと恥ずかしくなる。
紅子が仰いでいる間、酢飯を混ぜる。さくさくという音とともにご飯が
かくっ、と紅子の手元が揺れた。彼女の顔を見ると、目が半分閉じかかって今にも眠りそうだった。
「眠い? 疲れたのかな」
「あ……。申し訳ないことでございます。最近少し、寝不足で」
「勉強とか家事が忙しいの? もしそうなら今日のところはもう帰ったほうがいいのかな」
「いえ、夜明け前には、帰れますので」
夜明け前って、そんな時間まで家に帰らないつもりなのか。
いつもは、わたしと別れるのは夜中の十二時前後だ。わたしが家まで送ると言っても拒否されていたが、今までそれで問題が起きたことはなかった。
だが今日、帰るのが夜明け前、というのなら、さすがに問題だ。
「そんな。早く帰らないと危ないし、お母さんも心配するでしょ」
「いえ、母は既に床に就いておりましたし、大丈夫。大丈夫……です」
有無を言わさぬ強さでそう言われ、一旦話を引っ込めることにした。食後のお茶の時にでも再度話そう。
「母は」
仰ぎ終わった後、団扇を持ったままぽつりと言葉を零す。
「お祝い事の時、よくちらし寿司を作ってくれました。父がいなくなった後も、お野菜と錦糸卵のちらし寿司を作ってくれたのです。私にとって、ちらし寿司は特別な、おめでたいもので」
俯き、言葉を切る。
「じゃあ、今日は何かおめでたいことがあったのかな」
「いいえ。今日はまだだと思います。でも先週、気づいたのです。確実に、ではないのですけれども」
歯切れの悪い言葉は何かを隠しているようにも、不確実な何かを話そうとしているようにも聞こえる。
「おそらく、おめでたい、といいますか、良いことが、近いうちにあると思います。けれどもその時は、お祝いできない気がします。そこで、前もってちらし寿司を、と思いました」
わたしを見つめ、悲しそうな眼をする。
「私も分からないのです。どうしてこうなったのか。本当にこれでよいのか。でも今日はお話ししようと思っております。考えをまとめますので、お食事の後、お時間を頂いてもよろしゅうございますか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます