第五膳 おでかけとちらし寿司(1)
美奈は、同じ朝を迎えて『おはよう』のあいさつをした、初めての恋人だった。
朝ごはんを家族以外の人のために作ったのも初めて。
今日の晩御飯はなに? なんて聞かれたのも初めて。
なにが食べたい? そう聞くのも初めてだった。
そして答えを聞いた後、こう言ったものだ。
「よし、一緒に買い物に行こうか!」
世界で一番愛する人と手を繋いで買い物に行き、食材を選び、一緒に食べる。
こんな幸せがこの世にあるのかと思った。そしてこの手を一生離したくないと思った。
いつの頃からか、美奈のもう一つの手は、他の男と繋がれていたというのに。
紅子と餃子で幸せを分けた夜から一週間後の金曜日。
病院の帰り道、今夜のメニューはどうしようかと考えながらスーパーに向かっていると、駅前の広場に見慣れたセーラー服姿があった。
お下げ髪の古風な佇まいは、間違いようがない。紅子だ。
「烈様、ごきげんようー!」
わたしの姿を認めた紅子は、満面の笑みを浮かべてこちらに走ってきた。
その元気で明るい姿は、初めて会った時とはずいぶん違う。おそらく、これが紅子本来の姿なのだろう。
「こんばんは。今日は随分と早い時間に会えたね」
「はい。今日は何故か早い時間に来てしまったようなのです」
自分でここに来たというのに、どこか他人事のような言い方をする。小さな違和感を覚えていると、紅子はいつもの布で出来たポーチをわたしに差し出した。
「袋物ばかりで申し訳ない事でございます。どうぞ煙草入れなどにお使いください」
「いつもありがとう。却って気を遣わせてしまっているならごめんね」
この布、結構良いもののようなのだが、いいんだろうか、といつも思う。
「ただ、わたし、煙草って吸ったことないんだよね」
「えっ!」
今まで何度か部屋に来ていたのに、気がつかなかったのだろうか。というか、そんなに驚くことだろうか。まあいい。
「でもこれ、USBケーブルやモバイルバッテリーを入れるのに丁度よさそうだよ。ありがとう」
「ゆーえす?」
「え、ゆーえす?」
わたしの聞き返しには答えず、曖昧な笑みを浮かべている。「USBケーブル」が聞き取れなかったようだが、わたしは滑舌が悪いと言われたことはない。
前々からの疑念が頭をもたげてくる。
もしかして、聞き取れなかったのではなくて「USBケーブル」を知らなかったのではないか。
と、いうことは。
しかし訊けない。どうしても訊けない。これは性分でもある。
「さ、さて。今夜のメニューなんだけど、まだ決まっていないんだよね。せっかくだから紅子さんの要望に応えたいんだけど」
自分の作ったもので「美味しい」と言ってもらいたい、とは言っても、今まではほぼわたしの押しつけだった。それってどうなのだろうと思っていたので、スーパーへ行く前に会えて丁度よかったとも言える。
彼女は腕を組んでしばらく考えた後、おずおずとした上目遣いでわたしを見た。
「あの……。もしご迷惑でなければ」
そして遠慮がちに返ってきた答えに思わず固まってしまった。
「ちらし寿司を、お願いしてもよろしゅうございますか」
ち、ちらし寿司、か。
なかなか渋いリクエストだ。
寿司よりはハードルが低いだろうか。いや、むしろ高い、だろうか。
どの程度本格的に作るかにもよる。
そもそもちらし寿司にはいろいろ種類があり過ぎる。
そんなわたしの胸中を紅子は知るはずもない。わたしにリクエストを伝えられて吹っ切れたのか、期待に目を輝かせて見上げてくる。
その様子からして、ちらし寿司には何やら思い入れがありそうな様子だった。
ちらし寿司を作るのは何年ぶりだろう。そもそも具材は何を入れていたっけ。これだけ頭を使う料理も珍しい。
そうだ。
それをいっぺんに解決する方法があった。
スーパーを指さす。
「よし、今日は一緒に買い物に行こうか!」
野菜売り場に設置された「呼び込み君」から流れる、「ポポーポポポポ」の軽快な音楽を聴くと、「ああ、スーパーに入ったな」と思う。
紅子は何かに怯えたような様子で、わたしの背後で縮こまっている。それでは会話ができないので、そっと肩を叩いて売り場を指さした。
「ところで紅子さんの言う『ちらし寿司』は、江戸前ちらしのことかな。それとも五目ちらしの方かな」
「錦糸卵が乗っていて、酢飯に椎茸のお煮しめが入っている方、です。えっと、あの、それで、あの、できましたら、お刺身がちょっとだけあれば……なんて」
「了解」
遅い時間なので、魚売り場の商品はまばらだ。これではバラエティ豊かな江戸前ちらしを作るのは難しい。だが五目ちらしに乗せるのに丁度いいくらいの刺身は残っていた。
「マグロとサーモンのハーフ&ハーフ2」と書かれた、小ぶりの柵が入ったもの。近くに店員の気配を感じたので、敢えて少し離れて様子を見る。すると店員はそれに半額シールを貼った。思惑通りだ。
使う具を何にするか、紅子の意見に合わせて買い物を進める。彼女は最初遠慮していたが、そのうち色々考えるのが楽しくなったのか、跳ねるように売り場を巡っていた。
くるくると表情を変える紅子を見て笑みが零れる。
そういえば、最後に美奈と買い物をしたのは、いつだっただろう。
初めて美奈と一緒にこのスーパーへ来た時、私の心は嬉しさと幸せが溢れすぎて、苦しいほどに高揚していた。
今、紅子と買い物をしていても、嬉しさと幸せが溢れている。だがそれは決して苦しいものではない。
わたしは紅子に恋愛のような感情は抱いていない。だから感じ方が違うのは当然なのだが。
なんと表現したらよいのだろう。言い方は変かもしれないが。
紅子といると、大きな羽に包まれ守られているような、限りない安心感を覚えるのだ。
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