第三膳 シチューと苦手料理(2)

 紅子がシチューを口にする姿を凝視する。こんな風に見られていると食べにくいかもしれないけれど。

 すう、とシチューが彼女の口の中へ入っていく。

 白い喉が微かに動く。

 すると彼女はきょとんとした表情でスプーンを見つめた。


「あらっ、牛乳のにおいはするのですけれども、においがしない、です」


 一瞬、意味が分からなかったが、おそらく「牛乳の匂いはするが臭いがしない」と言いたかったのだろう。


 肩の力がどっと抜ける。今日のシチューのベースはごくベーシックなものなので、「やっぱり牛乳のにおいが駄目です」と言われたらそこでアウトになるところだった。

 一応、ほうれん草とゆで卵、ツナが入ったサラダと、バターライスは作ってある。だがそれだけではあまりにも可哀そうだ。なにしろ今だって、紅子のおなかはぐぅぐぅと鳴り続けているのだから。


「よかった。もし大丈夫そうなら沢山食べてね」


 微笑みながらそう言ってみたが、「沢山食べて下さい」というのが本音だ。

 鍋の中では、大量のシチューがおかわりコールを今か今かと待ち構えている。

 具材として鶏もも肉と厚切りベーコン、先週の野菜三種とブロッコリー、コーン、ぶなしめじ、エリンギを用意したのだが、それらをフリージングなどせず全て使い切ってしまったのだ。

 食べるのは女の子一人なのに。


 


 料理をしている時は、紅子の笑顔を思い浮かべていた。

 それでもふとした時に美奈との思い出が甦る。

 

 ――お料理にベーコン使わないでね。鶏肉はもも肉じゃなくてむね肉がいいの。根菜類は糖質が多いから控えて。


 いつの頃からか、美奈はわたしの作る料理にそういう注文をつけてくるようになった。


 ――もっと痩せて綺麗になりたいの。烈だってモデルみたいに細い私のほうが好きでしょ。だから頑張るんだ。


 わたしは美奈が美奈であれば体形など気にならなかったし、わたしの作ったものを美味しそうに食べる姿が好きだった。

 けれどもわたしの為にとダイエットを頑張る彼女がいとおしくてたまらなくて、出来る限り協力をした。


 その「頑張り」が、わたしの為ではなくもう一人の恋人の為だったと知ったのは、退院後、偶然発見した彼女のSNSでだった。




 玉ねぎとベーコン、鶏肉を炒める。背徳的なまでに香ばしい脂が威勢よく飛び跳ねる。その腕白な香りは、高校時代の空腹で幸福な日々の記憶を呼び覚ます。


 野菜やきのこと一緒に煮込んでいくと、香りは穏やかで複雑な大人の顔へと変貌を遂げる。キッチンいっぱいに広がる香りは、人間の体を作る命の香りだ。


 牛乳が全てを優しく包み込み、どこか懐かしい香りが漂う。低脂肪牛乳ではなく牛乳を買うときに覚えた僅かな罪悪感は、美奈との記憶の断片なのだろう。

 ベーコン、もも肉、バターと小麦粉を練ったブールマニエを使ったシチュー。炭水化物に脂を混ぜたバターライス。ハイカロリー上等、カロリーと書いて旨いと読むのだ。




 などと考えていると、目の前にいる紅子の動きが止まった。皿に目を移すと、なんとシチューだけ完食している。

 頬を紅潮させ目を大きく見開いている。言葉はないが、全身からおかわりコールが溢れている。


「あ、おかわり、いる?」


 わたしの言葉にこくこくと頷いた後、はにかんで俯いた。


「はしたない食べ方をしてしまい、恥ずかしゅうございます。でも、あまりにも美味しくて」


 空になった皿を見つめ、先ほどのテンションから一転してぽつり、ぽつり、と雫を垂らすように言葉を落とす。


「烈様が仰った通り、私はあまり牛乳が得意ではありません。でもこちらのお料理は生臭さが全くなくて、ゆったりとろりと舌を撫でて、牛乳がお肉やお野菜の味と仲良く手を繋いでいて、喉を通ると深い滋味がじわじわと広がって、お腹の中からしっとりと温かくなって……」


 今日は一杯食べ終わった後だからか、独特のワードセンスで食レポをしてくれた。

 冷静なふりをして相槌を打っていたが、ドヤ顔が止まらない。表現が独特でちょっと何言っているのか分からないところもあるが、美味しさを伝えようとしてくれている、その心が嬉しい。


 おかわりをよそい、テーブルに置く。

 紅子を見て、手が止まる。

 彼女は肩を丸め、涙を流していた。

 白いテーブルクロスに、一粒、二粒と涙が吸い込まれていく。


 ああ。

 先週に続き、また涙を流させてしまった。


「紅子さ……」

「……こんなに美味しく牛乳を頂けるお料理が、あっただなんて」

 

 薄い肩が震えている。


「もし、父や、弟が、牛乳を、飲めたら、このお料理が、あったなら、今頃……元気に、生きて……」


 それ以上は口を閉じ、ただ涙を流していた。




 その後、鍋にあったシチューを完食した紅子は、何度もお礼を言った後、また来週お礼に来ると告げて帰っていった。


 彼女の生活環境を想像して胸が痛む。紅子の家は牛乳も飲めないくらい困窮していて、そのせいで父親や弟は命を落としたのか。


 しかし、と立ち止まる。

 紅子はいつも制服姿だ。あの女子高は私立なので、学費の補助とかがあったとしてもそれなりにお金がかかるのではないか。

 そのあたりは何らかの事情があるのかもしれない。けれども紅子はクリームシチューを「食べられなかった」というより「知らなかった」ような口ぶりだった。


 母親がクリームシチューを作らなかったとしても、学校給食で出なかったのか。それとも帰国子女なのか。「女学生」だけど。


 女学生。そういえば、クリームシチューは戦後生まれの料理だ。だから女学生は知らなかったのか、などと思いつき、失礼だと脳内から削除しようとする。


 紅子の制服を思い出す。

 荒れた生地の制服。あれはお下がりかなにかだと思っていたが、荒れている理由は古さだけではない。

 そうだ。あれは生地そのものが、わたしでも分かるくらい明らかに他の生徒と違うではないか。


 同じ学校の生徒で見かけたことのない、古風で堅苦しい佇まい。

 生地が違う制服。

 そして、クリームシチューを知らない。


 頭を振る。

 いやいや、いくらなんでも失礼にもほどがある。制服は指定の店で作れなくて、手持ちの生地を使ったのだろう。

 自分がこんなにファンタジー脳だったなんて知らなかった。Web小説じゃあるまいし、そんなこと、あるわけがない。


 彼女は、過去から……なんて。

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