第二膳 カレーの冷めない距離(2)

 それにしても、と、鍋を火にかけながら考える。

 どうして「金曜日の夜」なのだろう。


 先週、紅子は深々と頭を下げながら言ったのだ。


「後日改めてお礼に伺いたく存じます。もしご迷惑でなければ、来週の金曜日にお邪魔してもよろしゅうございますか。れ……れつ、様」


 彼女が苗字ではなく名前を教えてくれたので、こちらも名前を教えたのだが、どうもわたしを名前で呼ぶのが恥ずかしいらしい。もじもじする彼女を見て、妙な罪悪感を覚える。


「そんな、お礼なんて気にしなくていいよ。それになあ。金曜日はちょっと」


 吸血鬼となり、太陽を浴びられなくなったわたしは、在宅で動画編集などのこまごまとした仕事を請負っている。基本的に暇だが、たまたま金曜日だけは忙しいのだ。

 だが彼女は、金曜日以外は来られないという。それなら別に礼などいらないと言ったら、今度は物凄く悲しそうな顔をされてしまった。

 わたしはこういう表情に弱い。




 紅子が来た時にカレーを振舞おう、というのは、割と早くに決めていた。だがどんなカレーにしようかで少し悩んだ。


 彼女は「JK」という雰囲気ではない。「女子高生」でも微妙な感じだ。敢えて言うなら「女学生」といった感じ。

 で、「女学生」なら懐かしい雰囲気のカレーがいいかな、という失礼な偏見により、牛すじカレーにすることにした。


 使い込んだ大鍋で、長い時間をかけてじっくり、じっくり牛すじを煮込む。

 硬い牛すじがほろほろに柔らかくなっていく。

 人参と金茶色に炒めた玉ねぎと一緒に赤ワインで更に煮込む。

 懐かしい雰囲気にしたくて入れてみたジャガイモと共にカレーになる頃には、牛すじは輪郭が曖昧になるほどにとろけていた。


 美奈は、こういう変化を一緒に楽しんでくれなかった。

 いや、つき合ってしばらくは楽しんでくれた。けれども彼女はいつの間にかキッチンに立たなくなり、わたしを見ることがなくなり、ずっとLINEで誰かと会話をしているようになった。


 ――ごめんね。烈のことは好きだよ。でもね、これからずっと一緒に太陽を浴びたり、ご飯を食べたりできないのは、つらいの。だから。


 「あの日」の翌日、入院したわたしの枕元で、美奈はそう言って頭を下げた。

 わたしは別れを受け入れた。吸血鬼は世間から見下されることが多い。だから今後結婚するとなったりしたら、苦労するのは美奈の方だ。


 と、いうことにしておいた。

 



 紅子の強烈な視線を受け、現実に引き戻される。

 彼女は椅子にちんまりと座り、ぐぅぐぅとお腹を鳴らしながら、切ないような苦しいような表情でじっとわたしを見つめていた。

 申し訳ないことをした。カレーの匂いが漂う中、空腹な彼女を長時間放置してしまった。これは人間にとっては拷問に等しい。


 大盛りご飯の上にカレーをたっぷりとかける。

 スパイスは強めに効かせてあったが、じっくり煮込んだ牛すじや野菜がスパイスの角を丁度いい塩梅に丸くしている。それでも我先にと広がるスパイスの香りは鼻腔を刺激し、味覚の記憶が舌を痺れさせる。


 思い出す。

 香りとコクが先に来て、ほわりと頬が緩む。その後じわじわと辛さが口の中に広がる。熱と辛味で大変なのに、スプーンを持つ手が止まらない。そんな記憶を。


「あら。烈様は召し上がらないのですか」


 向かいに座ったわたしとテーブルを交互に見て、お下げ髪を揺らして首をかしげた。


「さ、先に食べちゃったんだ。だから気にしないで食べて」


 わたしの言葉に彼女は頷き、ひとくち掬って口に入れた。


「わっ、とろ、って!」


 カレーが口に入った状態で叫び、慌てたように口を押えて頭を下げる。飲み込んだ後、顔を上げてぱあっと笑顔を見せた。


「凄い。お肉がとろぉって溶けちゃうんです! ちょっと辛めなのですけれども、辛味も香りも優しくて、えっと、えっと、どうしましょう。あの、もう、おいしゅうございます!」


 途中から食レポを放棄することにしたらしく、無言ではふはふと食べ続ける。その様子に「カレーは飲み物」という言葉が思い浮かんだ。


 それにしてもよく食べる。

 私のカレーは美味しいと思う。高校生なんておそらく人生で一番お腹が空く頃だ。それにしても。


 古風で堅苦しい雰囲気なのに、週末の夜中に一人で出歩き、見知らぬ男の部屋で食事をする。

 食事の時はいつもがっついている。

 小柄で華奢で、よく見ると顔色も良くない。セーラー服の生地は荒れており、傷んでいるようだ。

 一体、どのような家庭環境で育っているのだろう。




 大盛りカレーをあっという間に完食してスプーンを置いたので、わたしは満面の笑みを向けられることを期待して、紅子を見つめた。

 だが、俯いたまま顔を上げない。

 暫く待っても顔を上げず、何も話さない。

 やがて彼女の小さな肩が小刻みに震えだした。


 すすり上げる音が聞こえ、カレー皿の上に涙がぽとりと落ちる。


「……ごちそう、さまでした。大変、おいしゅう、ございました」


 何が彼女の涙を誘ったのか分からない。そしておそらく、尋ねても答えてはくれない。わたしは彼女の頭にそっと手を置き、ぽん、ぽん、と軽く叩いた。


 鍋に残ったカレーを全部密閉容器に詰める。ついでにご飯もタッパーに詰める。比率的に明らかにカレーの方が多すぎるが、そこは勘弁してもらおう。


「これ、よかったら持ち帰って。あ、ウェルシュ菌が繁殖すると怖いから、カレーは早めに食べてね」

 

 そんな申し訳ない、いや持ち帰ってくれると嬉しい、みたいなやりとりを何度かした後、紅子はカレーの入った紙袋を大事そうに抱え、何度も何度もお礼を言った。


「持ち帰るの重いかな。ねえ紅子さん、おうちって近く? カレーが冷めないくらいの距離かな」


 その問いに彼女は遠くを見つめた後、ぽつりと答えた。


「いいえ。とっても、遠くです」



 

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