神尚想記
橘 泉弥
神尚想記
彼女が嫁に来た時の事を、彼は忘れないだろう。
新緑に映える白無垢姿は浮世絵と見紛う程に美しく、この世にこんな麗しい女性が居るのかと、魅入った事も覚えている。
神と人間にしては珍しく、恋愛の末だった事もあり、お互いに最高の瞬間だった。
だから、わざとらしい言葉は必要ないと、そう思っていた。
「あれ神様、どうしてそんな呆けてるんだい?」
横から声をかけられ、
「なんだ、弥太郎か。何用だ?」
弥太郎はじろじろと志葉を見て、その視線の向いていた先に自分も眼をやる。見ていたものに合点がいくと、得心してにやっと笑った。
「ああ、
「う、うるさい。私の妻だ、別に構わんだろう」
言い訳をする志葉に、弥太郎は笑う。
「そりゃ、自分の嫁は可愛いもんだよな」
捧げもののタラの芽を志葉に渡し、弥太郎はずいと、神に体を寄せる。
「神様もたまには、奥さんに愛の言葉の一つくらい、囁いてやるもんだぜ」
「愛の言葉……?」
志葉には、いまいちピンとこない。
「そんなもの、必要ないだろう」
「いや、それは違うね。嫁ってのはいつでも言ってほしいもんなのさ、『愛してる』とかな」
志葉は目を丸くする。結婚して五年ほど経つが、そんな類の言葉を妻にかけた事など、一度も無かった。
「何事も言わなきゃ伝わらない。そういうもんだぜ」
「うむ……」
弥太郎の言う事も一理ある。思えば確かに、彼と彼の妻は、村民の間でも仲がいいと評判だ。
「嫁に愛を囁けないようじゃ、男が廃るぜ。寧さんに愛想つかされないよう、気を付けるこったな」
弥太郎は志葉の肩を軽く叩くと、鳥居の向こうへ去っていった。
志葉は妻の方を見やる。洗濯物を干す寧は相変わらず美しく、空から降りた天女のようにも見える。
言葉とはそんなに大切なものだろうか。正直よく分からないが、もし彼女に愛想をつかされたら、志葉は悲しみのあまり消失してしまうかもしれない。
寧が縁側に置いてあった布団を持ち上げて、少しよろめく。
「手伝おう」
志葉はすぐさま妻に駆け寄り、重い布団を受け取った。
「ありがとうございます」
寧はにっこり笑う。極上の笑顔を見た志葉は口を開く。
「あ……」
「はい?」
「あ……いや、何でもない」
言えなかった。
夕餉の時にも、志葉はタラの芽の天麩羅を食べながら、寧の様子を窺う。
たった一言、簡単なはずだ。何を緊張する必要があるのだろう。
「し、寧」
「何でしょう?」
「その、あ……」
「?」
「あ……したは多分、晴れるだろう」
「あら、そうですか。お買い物にでも行こうかしら」
嬉しそうな妻を見ると、やはり言葉など必要ない気がしてくる。そこに自明の感情があるのなら、わざわざ言葉にする必要もあるまい。
しかし弥太郎の言うように、何事も言わなければ伝わらない。愛情だって、そういうものなのかもしれない。
それに、たまには寧の喜ぶ事を言ってやっても良いだろう。
そうは思うのだが……。
自分はもちろん妻を愛している。しかし、その想いを口にするのが、これほど難しい事だとは。
昼間陽の下に晒した布団は、冬でも温かい。並べた布団に寝転びながら、志葉は隣の妻を見る。
「どうかなさいましたか?」
視線に気付いた寧が、眼を開けて言う。
「いや、その、あ……あい……」
「何ですか?」
寧は、逡巡する志葉の言葉を待ってくれている。
「あい……藍染の着物が一着、欲しいと思ってな」
「そうですか。では明日、一緒に町へ参りましょう」
暗闇の中、寧の声が弾む。
「二人でお買い物なんて、久し振りです。楽しみですね」
「うむ……」
結局、言えなかった。
うとうとし始める頭で、志葉は自分を鼓舞してみる。
自分は神だ。伴侶に言葉ひとつかけるくらい、造作もないはずだ。今日はきっと調子が良くなかったのだろう。明日ならきっと、言えるはずだ。
そんな事を考えながら寝たからだろうか。その日の眠りは深くなく、翌朝はまだ薄暗い内に目が覚めた。
「おはようございます、志葉様」
「うむ、おはよう」
嫁はもう起きていた。
「志葉様がこんなに早起きなんて、珍しいですね」
「まあ、そういう日もある」
志葉が眼をこする横で、寧は良案を思いつく。
「せっかく二人で早起きしたのですし、ご来光でも見に参りませんか?」
「ご来光?」
「はい。早起きは三文の得と申します。今日の三文は、ご来光がいいかと」
上機嫌な妻の様子を見ていると、この寒空の中、わざわざ山へ登るのも悪くないと思えてくる。
「よし、参ろうか」
身支度を整え庭に出ると、志葉は狼に姿を変える。
「寧、乗りなさい」
「はい。失礼いたします」
妻を背に乗せ、雪景色の中山へ向かう。もう春は遠くないが、まだ雪をかぶった木々もある。
「摑まっておれ」
背中に愛しい温もりを感じながら、雑木林の斜面を駆け上がる。
山頂に着くと、ちょうど太陽が東の空を白く染め始めていた。
「あら、ぴったりですね。嬉しい」
「うむ」
二人で並び、世界がゆっくり朝になっていくのを眺める。
遠くで聞こえる川のせせらぎと、るりびたきの声。つんと張った冬の空は段々と色を移し、心なしか山の空気も優しくなる。
橙に照らされた山々の向こうから太陽が昇り、今日も一日が始まった。
「そろそろ、帰って朝餉にしないか。今日は町へ行くのだろう?」
「ええ、そうですね」
山を下りようとしたその時、二人は地響きが始まるのを感じた。
「地震か?」
かなり大きい。姿勢を低くし止むのを待ったが、やがて地響きとはまた違う、どうぅという音がした。
「雪崩だ!」
志葉が叫ぶ。村が危ない。
「寧、お前はゆっくり下りてきなさい。私は先に戻る!」
村が無事であることを願いながら、志葉は斜面を駆け下りる。村の鎮守でしかない彼には、この雪の波を止める力は無かった。
(頼む、無事であってくれ……!)
早く村に戻らなければ。村民たちは避難しただろうか。女子どもだけでも、安全な場所へ移動できただろうか。
速く。もっと速く走らなければ。
村が見えた。
地響きと共に、雪崩が村へ迫る。
「やめろ!」
志葉が必死に急ぐその眼の前で、村は雪崩にのみ込まれた。
怪我人は十四名、死者は九名だった。
いじけていた鶯が見事に鳴き、草木が茂る。足元には菫が咲いて、おたまじゃくしが池を泳ぐ。
山々が初夏の匂いを帯びる頃、村は落ち着きを取り戻し始めていた。
犠牲者の葬儀は終わり、怪我人たちもほぼ回復した。倒壊した家々の修理も無事に済み、田畑も少しずつ元に戻りつつある。
しかし志葉の心の内は、あの大災害以来、時間が止まっていた。
なぜ自分は村を助けられなかったのか。あの時自分が村に居れば、救えた命もあったはずだ。犠牲者の中には子どもも居た。自分は輝いていたはずの未来を、続くはずだった生活を、奪ったのだ。
襖が開き、寧がそっと顔を出す。
「志葉様、夕餉ができましたよ」
「……要らぬ」
あの日から、志葉は何も口にしていなかった。食べ物が喉を通らないのだ。神であるがゆえ、食事をとらなくても生きてはいける。
寧は毎日、工夫を凝らして食事を用意していたが、どうしても食べられなかった。
「今日は、志葉様のお好きな白菜の浅漬けです。お召し上がりになりませんか」
「……」
毎度毎度、食事を用意してくれる寧には申し訳ないと思っている。しかしどうしても、何かを喉へ通す気にはなれなかった。
自分など、このまま消えてしまえば良いとさえ、思っていた。
そんな志葉の心の内を、どこか察していたのだろう。食事以外でも、寧は夫を案じて声をかける。
「庭の菖蒲が見頃です。一緒に見ませんか」
「……ああ……」
以前は美しいと見とれた花も、今は志葉の心を癒やす事は無い。深い後悔と自己嫌悪だけが、彼を包んでいた。
「志葉様……」
隣に座っていた寧が、遠慮がちに声をかけてくる。
「どうした?」
寧は言葉を選ぶように、ぽつぽつと話し始めた。
「志葉様、私はどうしても、志葉様が悪かったとは、思えないのです」
志葉の脳に緊張が走る。
「あれは、あの自然災害は、志葉様に止められるものではなかったでしょう」
寧に言われ、志葉はぐっと黙り込む。
寧は静かに言葉を続けた。
「だから、御自分を責めないでいただきたいのです。最近の志葉様はおつらそうで……見ていられません」
「……だから何だと言うのだ」
志葉は言葉を絞り出す。
「あの時私が村に居れば、犠牲者はこんなに出なかったはずだ。あの子も……小助も死なずに済んだ。お光も、八郎も、菊丸も、伊代も……皆、私のせいで死んだのだ」
「でも……」
「うるさい! 私なら助けられたはずだ。あの時、山になど登らなければ。あの時、朝日など見に行かなければ……」
その時、志葉ははっとした。
「お前が……お前が、御来光を見に行こうなどと言わなければ……!」
気付かぬうちに、志葉は寧に襲いかかっていた。細い首を掴みあげ、手に力を籠める。苦しむ寧の顔など見えていない。ただ己の力に任せ、ぎりぎりと締め上げる。
「……し、志葉、さ、ま……」
妻の声で我に返り、手を離す。寧は倒れ、苦し気に咳込んだ。
「寧!」
志葉が慌てて手を伸ばすと、寧はびくっと身を縮めた。
「寧……」
妻の怯えた顔を見て、志葉は手を引きうなだれる。
「すまない。私はなんて事を……」
よりによって愛する妻の首を締めるなんて、自分はなんと恐ろしい事をしたのだろう。
「すまない……本当にすまない……」
妻の涙を見て、志葉は取り返しのつかない事をしてしまったのだと思った。
それからというもの、寧は志葉と目を合わせなくなった。口数も減り、必要最低限の会話しかしない。家事をする時も、二人の交流は無くなった。
志葉は、どうすれば良いのか分からなかった。妻を傷つけてしまった自分を許せなかったし、本当に申し訳ないと思っていた。
自分のした事を妻の所為にし、八つ当たりして殺しかけるなんて、なんとおぞましく、身勝手なのだろう。自分はきっと、最低最悪の存在だ。
やがて志葉の心の内に、一つの言葉が浮かぶようになった。
それは何度否定しても消えず、段々と志葉の思考を支配していった。
「……寧」
そしてある日、それは口をついて外へ出た。
冷たい雨の日に、妻が夏服のほつれを直していた時である。
声をかけると、寧は何も言わずに志葉の顔を見た。
「……離縁、しようか」
寧の眼が見開かれる。そこから大粒の涙がこぼれ、白い頬を伝う。
「私のした事は、許されるものではない。神としても、夫としても、最低だ」
幸い、寧の実家はまだ健在だ。自分を傷つけた神の元に居るより、実家に帰った方が、寧もきっとしあわせだろう。
「離縁状を書く。それを持って、実家へ帰りなさい」
そうして寧が居なくなったら、自分はどうしようか。別の神に鎮守を譲り、消失するのも悪くない。いや、そうすべきなのかもしれぬ。
「嫌です!」
寧が泣きながらはっきりと言った。
「嫌です。離縁などしません。絶対に」
涙をほろほろ流しながら、寧は断固とした姿勢をとる。
「しかし寧……」
「嫌です! 私はずっと、志葉様のおそばに居ると決めたのです。実家に帰りなどしません」
「寧……」
「なぜそのように、酷い事をおっしゃるのですか。私が何か粗相をしましたか。離縁は嫌です」
どう言えば納得してくれるだろう。志葉は子どものように泣きじゃくる妻を前に、おろおろする。
「寧、お前も自分を傷つけた者のそばになど居たくないだろう。実家に帰りなさい」
「嫌です!」
志葉が狼狽している内に、寧は少し落ち着いてきた。
泣き濡れた顔でしゃくりあげ、赤くなった眼でじっと志葉を見る。
「……私は志葉様を愛しております」
志葉ははっとする。
「志葉様も、私を愛してくださっていると、そう思っておりました……。違ったのですか……?」
寧は立ち上がり、ぱたぱたと走って部屋を出て行った。
「……」
寧の居なくなった部屋で、志葉はひとり呆然とする。
要らぬ事を口にしてしまった。寧の言葉にはっとした。
自分の方から手を離そうと提案したところで、手離せるものでもないのだ。自分は妻を心から愛している。それは一点の曇りもなく確かな事だ。
「……寧」
志葉は、妻を探すために立ち上がった。部屋を出て、寝室や土間に足を運ぶ。
「寧」
寧は縁側の角に座り、庭を眺めていた。夏にしては冷たい雨が、見頃を終えた菖蒲を濡らす。
「寧、すまなかった。私が間違っていたよ」
声をかけると、寧はゆっくり志葉を振り返った。その眼は赤く腫れ、まだ少しうるんでいる。
「私が悪かった。許してくれ」
寧の隣に座り、志葉は素直に謝罪する。
「……もう二度と、離縁するなんておっしゃらないでください」
「ああ」
「もう二度と、私を手離そうとしないでください」
「ああ」
「私は死ぬまで、志葉様のお傍におりますから」
「分かっているよ」
寧は志葉に体重を預け、彼の肩に頭を載せる。
「約束ですよ」
「ああ、約束しよう」
志葉は、寧の柔らかな黒髪を優しく撫でる。
雨はいつの間にか止み、庭の菖蒲は夕焼けの中、二輪並んで立っていた。
二人でしばらくそうしている内に、日が暮れて辺りが暗くなる。
「寒くないか?」
志葉が妻にそう問うてみるが、返答がない。どうやら眠ってしまったようだ。
「……」
志葉はその寝顔をしばし見つめてから、妻を抱いて立ち上がった。
寝室に連れて行き、布団を敷いてそこに寝かせる。
その隣に自分の布団も敷いて、志葉も布団に横たわる。
「おやすみ、寧」
愛しい人の寝顔を見ながら、志葉は改めて胸をなでおろす。
もしあの時、寧が泣き出さなかったら、自分はいったいどうしていただろう。離縁を承諾されていたら、寧が自分の元から去る事を少しでも望んでいたら、それこそ存在してはいられなかったかもしれない。
寧が泣いて嫌がってくれたから良かったものの、今となっては、離縁なんぞ考えていた自分の精神が恐ろしい。
妻が隣に居てくれるという安堵と共に、志葉は夢路を辿るのだった。
翌朝、まだ暗い中志葉が目を覚ますと、隣で寧が彼を見ていた。
「おはようございます、志葉様」
「お、おはよう」
起きた瞬間眼が合った事に驚いて、志葉はそれを丸くする。
「どうしたのだ?」
志葉が訊くと、寧は横になったまま微笑した。
「いえ、別に。志葉様が居るなぁと、思っていただけです」
その答えに、志葉もつられて微笑む。
「ああ、居るよ」
二人でのんびり言葉を交わしている内に、志葉はふと思いつく。
「そうだ。もし良ければ、山へご来光を見に行かないか」
「……ご来光、ですか」
「ああ。もしお前が良かったら、だが」
寧は少し考えてから、頷いた。
「参りましょう。志葉様がよろしければ」
こうして二人は、布団から出て身支度を整えた。
庭で志葉が狼に姿を変えると、寧がその背中に乗る。
「行くぞ」
「はい」
まだ薄暗い山の中を、志葉は妻を乗せて走る。夏でも夜明け前の山は涼しく、登るのに苦労は無い。
村の見下ろせる高台に来ると、志葉は一旦足を止めた。
もう、あの雪崩から半年近くが経とうとしている。村は落ち着き、元の生活を取り戻していた。家畜の数も増え、田畑もきちんと育っている。あとは天候次第だが、大方問題なく、秋には黄金色の穂が垂れるだろう。
そして志葉は、自分も復興に携わっていた事を思い出す。雪崩を防ぐ事はできなかったが、天災ならば仕方がない。大切なのは、災害を乗り越え、生活を取り戻す事だ。
「寧」
「はい」
「私は、神としてできる事はしたつもりだ」
「ええ」
「あの雪崩の後、家を建てた。死者を弔い、怪我人を治療し、田畑を耕した」
「そうですね」
「だから……」
志葉は自分の統べる村をじっと見る。
「前に、進まなければ」
「……はい」
こぢんまりと、しかし力強く広がる村を改めて眺め、志葉は大きく深呼吸をした。
「よし、山頂へ向かおう」
「はい」
夜明けが近い。急がなければ。
木々をぬって斜面を上がり、頂上めざして歩を進める。
東の空が白む頃、二人は山の天辺に着いた。
「ぴったりですね」
「うむ」
少しだけ言葉を交わし、並んで夜が明けるのを眺める。
「寧」
「なんですか?」
「あの時はすまなかった。私も、お前を愛している」
寧の顔が真っ赤になる。
「ありがとうございます……」
耳まで赤く染め、目をまん丸くする妻を見て、志葉は笑う。
「どうした、頬が真っ赤だぞ」
志葉が茶化すと、寧は両手で顔を覆って下を向く。
「み、見ないでください……」
照れる嫁もかわいいなあと、志葉は満足して空に眼をやる。
遠くで聞こえる滝のとどろきと、山鳩の声。単純で深い夏の空は刻々と色を濃くし、心なしか山の空気も活気を帯びる。
そしてまた、新しい日が始まろうとしていた。
神尚想記 橘 泉弥 @bluespring
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