9 変様

 ゾワリと何かが近づいて来る気配がする。

 それ・・はドロリとしているような、それでいて霧のような不確かなものだった。ただ、それ・・が黒く淀んだ色をしていることだけはわかる。

 少しずつ近づいてくるそれ・・の気配に、シュエシはブルリと震えた。得体の知れないそれ・・が、どうしてかものすごく恐ろしかったのだ。じわり、じわりと近づいてくるそれ・・から逃げたいのに、足が動かない。足どころか手も、首も、体のどこも動こうとしなかった。

 逃げなければと焦れば焦るほど体は固まったように動かず、ゆっくりと近づいてくるそれ・・の気配に体が震え出す。どうしようもないほど強く感じる恐怖は、きっと本能から来るものだ――這い寄るそれ・・から逃れようと、震えながらも必死に足を動かそうとした。それでも動かないことに焦り、必死に力を込めた瞬間、ストンと闇の中へ体が落ちていくのを感じた。






「……!!」


 ハッと目を見開いたシュエシの視界に映ったのは、見慣れた天井だった。あぁ、ここは屋敷だ……、そう安堵した瞬間、ゾワリと嫌な気配を感じてビクッと震えた。あれは夢じゃなかったのかと嫌な汗が額に浮かぶ。


「おまえも感じるようになったか」


 すぐ近くから聞き馴染んだ声がした。ゆっくりと視線を動かせば、美しいヴァイルの顔がある。


「……ヴァイ、ル、さま」

それ・・は土地の者の気配だ。正確には人の邪念といったところだが」

「じゃ、ねん?」

「土地の者たちは欲を持って屋敷に近づいて来る。そのほとんどは歪んで醜いものばかりだから、邪念と表現して間違いないだろう。しかし、よりによっていま来るとはな。我が花嫁の目覚めには相応しくないというのに、とんだ邪魔をしてくれたものだ」


 そう言ってヴァイルの美しい顔が近づいて来た。ぼうっと見惚れているうちに唇を優しく塞がれる。いつもなら冷たく感じるそれは不思議と少しだけ温かく、口内に侵入してきた肉厚な舌も熱く感じられた。それを不思議に思いながらも、シュエシの頭はじんわりと痺れるような快感を拾い、ますますぼんやりとしてしまう。


「どうした? わたしと同じものになって、嬉しくないのか?」

「…………え?」

「まだ記憶が不確かか」

「ぼく、は……」

「おまえは正式に我が花嫁となった。永い生をともに歩み、死してもなお離れることができない存在として生まれ変わったのだ」


 ヴァイルの言葉がゆっくりと頭に入ってくる。「同じもの」という言葉が、じわりと体に広がっていく。そうして隅々まで行き渡ったとき、シュエシは初めて自分がヴァイルと同じ化け物になったのだと理解した。

 どこがどう変わったのか実感はまったくないが、ヴァイルと同じ存在になったということに心が震えるほどの喜びがわき上がる。


「……嬉し、です」


 そう答えると、ヴァイルが美しく微笑んだ。美しい顔を見ながら、シュエシの目尻からすぅっと涙が一筋こぼれ落ちた。



  ※



 しばらく頭がぼんやりして体に力が入らなかったシュエシだったが、数日後にはベッドから出て歩けるまでに回復した。

 動けるようになったシュエシは、寝衣を脱いで普段の服に着替えた。そのとき胸や腹、背中を見てみたが、とくに変わったところはないように見える。床を踏みしめる足にもおかしなところはない。手鏡で顔や髪を見てみたが、やはり変わったところはないように思えた。

 シュエシは、目覚めた翌日もその次の日も、同じように自分の体を観察した。手足が動く様をじっと眺め、手鏡で直接見えない部分を見たりもした。その様子をおもしろそうに見ていたヴァイルに「喉は渇かないか?」と訊ねられ、シュエシは初めて空腹を感じていないことに気がついた。


「そういえば、起きてから一度も食事をしていません」

「我らは人のような食事を必要としないのだ」

「そうなのですか?」

「飲み食いはするが、嗜好として楽しむ程度だな」


 ほかにも年を取るのが人より格段に遅くなることや、嗅覚が鋭くなることなども教えてもらった。その中でシュエシが一番驚いたのは、陽の光に当たっても平気だということだった。

 シュエシが知っている吸血鬼という化け物は、陽の光を極端に嫌い、神の印や聖なるものに近づけない存在だ。土地の者たちも同じような話をしていたし、読んだことのある西の国の物語にもそう書かれていた。


「おまえが見聞きした話は、人が勝手に思い描いた虚像に過ぎない。我らは陽を浴びても問題ないし、神の屋敷で神の像を眺めることも聖歌を歌うこともできる。ただの装飾品に過ぎない聖なる印のどこが恐ろしいのか、さっぱりわからん」


 その言葉に、執事だったときのヴァイルが窓越しに陽の光を浴び、庭を歩いていた姿を思い出す。


「そうなんですね……」

「恐ろしいものから身を守るため、人が必死に考え出したのだろう。我らは無駄に人と接触したりはしないし、無駄な殺しもしない。ただ生きるためにわずかばかり食事をするだけで、それも殺さぬ程度がほとんどだ。人のように欲望のままに大量にあやめたり、財産を奪うためにあやめたりなどしないと言うのに」


 わずかに呆れを含んだようなヴァイルの眼差しは冷たいものだった。

 シュエシは幼い頃に見聞きしたことを思い出し、たしかにヴァイルの言うとおりかもしれないと思った。どの土地にも恐ろしい存在の伝承や物語はたくさんあったが、思い出の中で一番恐ろしいのは、やはり人だったからだ。


「人にとって人こそもっとも警戒すべき化け物だということに、いつになったら気づくのやら」


 そう告げるヴァイルの美しさは変わらないものの、恐ろしく冷たい気配を漂わせていた。そんな姿でさえシュエシには美しく感じられ、ぼうっと見惚れてしまう。そんなシュエシに気づいたヴァイルが、微笑みながら口づけを落とすのも日常になりつつあった。


「……んっ、……あの、」


 柔らかく唇を噛まれたシュエシは、うなじが快感に痺れるのを感じながらヴァイルを見た。


「どうした?」

「ヴァイル様を温かく感じるのは、どうしてだろうと思って」

「あぁ、我らは人より体温が低いからな。同じものになったいまでは、人同士と変わらぬ熱を感じるだろう?」

「温かいです……」


 それを不思議に思って自分の体のあちこちに触れていると、またもやクスクスと笑われてしまう。


「おまえは化け物になっても何も変わらんな」

「おかしいですか……?」

「いや、そんなところもおまえらしくてよいのではないか?」

「僕らしい……」


 ヴァイルに褒められたような気がしたシュエシは、頬をわずかに赤く染めた。

 正式な花嫁になって以来、シュエシは以前よりもヴァイルを身近に感じるようになった。これが同じ存在になったからなのかはわからないが、ヴァイルの黄金色こがねいろの瞳が自分を見る回数は格段に増えたような気がする。

 美しい瞳に自分が映るのはたまらなく嬉しい。それなのに、見られているのだと思うとなぜか恥ずかしさを感じてしまう。


(見られて恥ずかしいとか、……もっと恥ずかしいことも、してるのに……)


 恥ずかしい行為のことを思い出したシュエシの頬が、さらに赤く変わった。


「恥ずかしがる花嫁というのは、なかなか初々しくていいものだな」

「ヴァイル様……」


 もしかして厭らしい奴だと思われたのだろうかと思い、誤魔化すように頬を擦る。


「赤く熟れた肌はわたし好みだから、そのままでいい。さて、わたしは少し用事を済ませてくるとしようか」


 そう言ってソファから立ち上がるのを見たシュエシは、「ヴァイル様」と声をかけた。頬を擦っていた右手を下ろし、少し迷うように視線を動かしてから口を開く。


「あの、庭に出てもいいですか?」

「庭に?」

「はい」


 シュエシは陽の光を浴びてみたいと思っていた。外で陽の光を浴びても変わらなければ、また一歩ヴァイルに近づけるのではないかと思ったからだ。


「あの、駄目ですか……?」


 少し考えるような仕草を見せるヴァイルを窺うように見つめる。


「……まぁ、大丈夫だろう。ただし、庭から外へは決して出るな」

「わかりました。じゃあ、着替えてきます」

「なぜ着替える?」

「え?」


 なぜと問われて、シュエシは困ってしまった。いま自分が着ているのはドレスで、このまま外にでるのはさすがにためらわれる。せめてもう少しひらひらしていないものに着替えようと思っていたのだが、駄目だっただろうか。


「ドレスのままというのは、ちょっと……」

「奥方なのだから、ドレスでかまわないだろう?」


 そうなのだろうか。よくわからないシュエシは、それでもと思って言葉を紡いだ。


「でも、外に出たら汚してしまうかもしれないので……」

「かまわん。何着でも用意してやる」


 すでに着尽くせないほどのドレスが並ぶクローゼットを思い出したシュエシは、慌てて「大丈夫です」と答えた。

 ヴァイルはシュエシが男だとわかってからも、男物の服を用意することはなかった。それどころか、既に何着もあったドレスが倍に増えてしまった。いまも、派手さはないものの土地の娘たちなら手を叩いて喜びそうなドレスを着ているが、これは今朝ヴァイルが選んだものだ。


(ヴァイル様は、ドレスが好きなんだろうか)


 よくわからないが、ヴァイルの着替える必要はないと言われてしまえばそうせざるを得ない。


「じゃあ、このままで……」

「そうするといい。あぁ、先ほども言ったように、庭の外には絶対に出るな」


 大きく頷いたシュエシは、ヴァイルを見送ってから庭へと向かった。


 ひらひらと動く長い裾に注意しながら、ゆっくりと足を踏み出す。靴も少女が喜びそうな作りだったが、上質なものだからか元々自分が履いていたものより随分と歩きやすかった。


(ヴァイル様は、僕がこういう格好をするのが好きなのかな……)


 ドレスが好きなのかドレス姿が好きなのかはわからなかいが、ヴァイルが喜ぶことはシュエシにとっても嬉しいことだ。それなら多少恥ずかしくても受け入れよう、そんなことを考えながら、柔らかい草と土を踏みしめる。


「陽の光は暖かい……。花の匂いは、ちょっときついかな。……うん、匂いがよくわかるようになった気がする」


 もっと大きく変わったかもしれないと身構えていたが、驚くほどは変わっていないようだ。この程度ならいままでどおり生活できそうだと思いながら、庭の端に近づいたときだった。

 ゾワリとした気配を感じて体が一瞬すくんだ。ハッとして振り返ると、そこには見たことのある男が立っていた。


(あの人はたしか……。そうだ、パン屋のおじさんだ)


 庭の端に立っていたのは、シュエシが育ての親に言われてたまに買いに行っていたパン屋の主人だった。土地の者たちは滅多なことでは屋敷に近づかないと聞いていたのに、どうしてここにいるのだろうと思っていると、男が目を見開いた。


「おまえ……、生きてるじゃないか」


 ひどく驚いている様子に、シュエシのほうが驚いた。言葉の意味がよくわからずに立ち尽くしていると、男が大股で近づいてきた。


「花嫁はみんな売り飛ばされるか、殺されるんじゃなかったのか……? 生きてるってことは、あの子も、俺の娘も生きてるのか!? 二年前にこの屋敷に来たんだ、見かけてないか!? おまえも知ってるだろ、ほら、いつもおまえにパンを渡してた、あの子だ!」

「ええと、あの……」

「どこにいる!? おまえが生きてるってことは、あの子も生きてるんだろう!? 一目でいいんだ、あの子に、娘に会わせてくれ……!」

「……っ」


 肩を掴む男の指が肌に食い込んで、ビリッとした痛みが走る。ものすごい形相をした男の様子から、どれほど必死かシュエシにもよくわかった。

 それでも答えることはできなかった。二年前ということは、すでにヴァイルが領主になった後だ。ということは娘は食事として求められたわけだから、もう生きてはいない。それを男に告げることはシュエシにはできなかった。


「おまえがこうしてここにいるってことは、娘もいるんだろう!? 頼むから、会わせてくれ! 取り戻そうなんて思っちゃいない! ちょっとだけでいい、頼むから……!」


 男の悲痛な声にギュッと目を瞑った。答えられないシュエシには、ただじっと男の言葉を聞くことしかできない。


「……なんで何も言わないんだ? これだけ頼んでるのに、無視するのか? ……どれだけ俺たちがおまえの世話をしてやったと思っているんだ。それなのに、ちょっとした頼みすら聞けねぇって言うのか? ……まさか、あの子はもう、……そうなのか?」


 男の気持ちを考えると、それが真実だとはどうしても言えなかった。


「……どうして、おまえはここにいるんだ?」

「ぇ……?」

「あの子はいないのに、おまえが、どうして生きてるんだ?」


 言葉と一緒に、ゾワリ、ゾワリとした得体の知れない気配を感じる。


「どうしておまえなんかが生きていて、あの子がいないんだ……? おまえみたいな土地の者でもない奴が、どうして生きてるんだ……?」


 ゆっくりと目を開ければ、男の体からモヤモヤとした霧のようなものが立ち上っているのが見えた。薄灰色のそれは徐々に黒く濁っていき、ユラユラと漂う霧のように見えるのに、なぜかドロリと濁った雨水のようにも見える。


「売られるしか価値のない奴がなんで生きてるんだ……! いままで生かしておいた意味がねぇだろうが!」


 男の鋭い声に、シュエシはビクッと体を震わせた。痛いほどに肩を掴まれ、ガクガクと揺さぶられるまま男の言葉を聞き続ける。


「どうして土地の娘たちは殺され、おまえは生きてるんだ!? 代わりにおまえが死ねばいいんだ!」


(ヴァイル様の、言ったとおりだった)


 悲しいことではあったが、それ以上に男が恐ろしくてシュエシは動けなかった。男の周りに漂うドロリとしたものがますます色を濃くし、霧の端がユラユラと揺れながらシュエシに近づこうとしている。ゾワリとしたものが近づく気配に、少しずつ呼吸が苦しくなる。


「おまえこそ殺されてしまえばいいんだ! おまえなんか生きてる価値はな――」


 突然、男の言葉がプツリと途切れた。男の手が肩から離れ、そのままダラリと腕が垂れ下がる。ギラギラとしていた男の目は虚ろな様子に変わり、どこを見ているのかわからない状態だった。男の周りに漂っていた得体の知れないゾワリとした黒いものも、少しずつ薄まっていく。

 震えながらもどうしたのだろうと思っていると、シュエシの背後から薔薇のような甘く濃密な香りがふわりと漂ってきた。


「人というのは、とことん愚かだな」

「ヴァイル様……」


 現れたのは、美しい顔に呆れた表情を浮かべるヴァイルだった。


「これでわかっただろう? おまえは善意で生かされていたわけではない。土地の者たちにとっては、ただの物にしか見えていなかったのだよ」

「……はい」

「煩わしいことに関わりたくないからこそ税をなくして屋敷にこもっているというのに、こう何度も来られてはたまらんな」

「何度も、ですか……?」

「このところ、やけに回数が多い。おまえが目覚めたときにも何人か来ていたし、眠っている間にも来ていた。敷地の外をうろつくだけなら構わんが、こうして庭にまで入り込んでくるとなると、何か考えざるを得ないが……」


 そう言ってヴァイルの白い指が男の眉間あたりに触れる。すると、男はひと言も声を出すことなく動き出した。自力で歩いてはいるものの、男の目は虚ろなままで明らかに様子がおかしい。

 それがどうしてか尋ねようとヴァイルを見たシュエシは、ヴァイルの瞳も変わっていることに気がついた。


「ヴァイル様、目が……」

「あぁ、少しばかり力を使ったからな。あれで男はここに来たことも、おまえがこうして元気でいることも覚えていない」


 わずかに微笑むヴァイルの瞳は、いつもの黄金色こがねいろではなく朱色に輝いていた。それはまるで鮮やかな血の色にも見えて、ゾクリとするとともにあまりの美しさに目が離せなくなった。


「さて、もういいだろう。部屋に戻るぞ」


 横を向いたヴァイルの瞳は、いつもの優しい黄金色こがねいろに戻っていた。それを見たシュエシは、自分は思ったよりも大変なものに変わったのかもしれないと、ほんの少し思った。

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