8 同じものに

「おまえの母は、もしや人をあやめたことがあるのではないか?」

「え……?」


 いつものようにシュエシの髪の手入れをしていたヴァイルが、ふと思いついたように問いかけてきた。

 突然の内容に、シュエシは一瞬言葉に詰まった。母からは自分を身ごもっているときに人をあやめたと聞いたが、それをヴァイルに話していいものか迷ったのだ。ヴァイルは人ではないが、人である自分の母親が人殺しというのをどう思うだろうか。


「勘違いするな。珍しい色合いの髪を見ていて、そういえばと思い出したことがあっただけだ」

「思い出したこと、ですか……?」

「あぁ。東の国には夜叉という鬼神がいると聞いたことがある。この夜叉は悪人を殺し食らうという話だが、夜叉の美しい黒髪は罪人の返り血で鮮やかな紅に染まるというのを思い出してな。もしやと思っただけだ」


 ヴァイルの口調は淡々としたもので、人をあやめた是非については関心がないように聞こえる。それならと、シュエシは口を開いた。


「僕の母は、僕を身ごもっているときに……人をあやめたことが、あるそうです」


 ヴァイルに隠し事をする必要はない――そう思ったシュエシは、母親のことを包み隠さず話すことにした。最後までじっと聞いていたヴァイルの口元が、笑むように歪んでいくのが手鏡に映る。


「やはり人というのは化け物だな。腹の子を流してまでも女を手に入れたいなど、獣にも劣る行いだ。なるほど、そのときにおまえの母は夜叉になったのか」

「え……?」

「おまえを守るため、人の業を超えるほど深い憎しみを抱いたのだろう。だからこそ、憎悪の業が腹にいたおまえにも移ったのだ。その証拠がこの美しい黒髪だとすれば、さもありなん。紅をさしたようなこの艶は、まさに返り血を浴びたようではないか?」


 ヴァイルが「ほぅ」とため息を漏らすように微笑んでいる。そういえば執事だったときも、こうして何度も自分の髪の毛をうっとりと眺めていたことを思い出した。


「あの、……気持ち悪くはないですか……?」

「なぜだ?」

「それは……、人殺しの母を持つ証のような髪、だから……」

「それを言うなら、わたしは年に一人とは言え食事として娘をあやめているぞ? あぁ、気持ちが悪いというよりも、人を食らう恐ろしい化け物にしか見えんか」

「そんな……っ、そんなことはないです! ヴァイル様は恐ろしくないですし、……その、とても美しいと思います」

「ふっ、美しい、か。わたしには、この髪のほうがどんな宝石よりも美しく見えるがな」


 そう言って髪の毛を一房手にしたヴァイルが、そっと口づけを落とす。まるで一枚の絵画のように美しい姿に、鏡越しに見ていたシュエシはぼうっと見惚れてしまった。そのまましばらく惚けていたが、髪に口づけたまま自分を見ているヴァイルの視線に気づいて慌てて俯く。


「顔が真っ赤ですよ、奥様?」

「……!」

「くっくっくっ、相変わらず執事のわたしに弱いみたいだな」

「……ヴァイル様……」

「あぁ、これくらいで泣くな。毎晩あれだけ泣いているというのに、よくもまぁそんなに涙が出るものだ」

「ヴァイル様……っ」


 いつものように惚ければ、それがおもしろいのか執事のような口調でからかわれる。それに戸惑えば、今度は夜のことを口にして羞恥心を煽られる。普通の会話すらあまりすることがなかったシュエシは、ヴァイルの言葉に翻弄されてばかりいた。


(恥ずかしい内容じゃなければ、もっと普通に話ができるのに……)


 ヴァイルと話ができるのは嬉しいことだ。しかし、ベッドでの話をされると恥ずかしくて何も言えなくなる。最中は訳がわからなくなってシュエシ自身も厭らしいことを口にしてしまうが、淫らな熱が収まると行為を匂わせる言葉だけで全身がカッと熱くなった。こんな気持ちは当然ヴァイルにも悟られていて、わざと恥ずかしがる言葉を言っているのではと疑ってしまうこともあった。


「そうむくれるな。花嫁がまだ子どもだということを、つい忘れてしまうだけだ」


 別にむくれていたわけではなかったが、「まだ子ども」という言葉に、シュエシの眉がわずかに寄る。


「……もう、子どもじゃありません」

「わたしからすれば、十八歳など赤子に等しいぞ?」

「…………でも、子どもじゃないです」


 ヴァイルは一見すると二十代のようだが、実際は百五十年ほど生きているのだという。そんなヴァイルから見れば、十八年しか生きていないシュエシなど赤子のようなものだろう。

 それでも子ども扱いされることに納得いかない気持ちもあり、つい駄々をこねるような口調で答えてしまう。口にしてから、今度はヴァイルの気分を害したのではないかと心配になり、そっと手鏡越しに視線を向けてしまうのはいつものことだった。


「そうだな、おまえはもう子どもではないのだな。……であれば、正式に我が花嫁となるか?」

「正式に……?」

「我が眷属になるか、という意味だ」

「けんぞく、ですか……?」

「簡単に言えば、わたしと同じ化け物になるかということだ。人に吸血鬼などと呼ばれる化け物にな」


 すぐには理解できず、シュエシは何度か瞬きをした。それからヴァイルの言葉をゆっくりと頭の中でくり返す。


(僕が、ヴァイル様と同じに、なる……?)


 自分がヴァイルと同じ存在になれるのだと理解した途端に、シュエシの中に興奮にも似た感情がわき上がった。


 シュエシは、こんなにも想いを寄せているヴァイルと自分が違う存在だということが、内心ずっと気になっていた。ずっと側にいたいと思っていても、それが叶うのかわからないことに不安を抱いていた。百五十年以上生きているヴァイルがこれだけ若いということは、いずれ自分だけが先に年を取り天に召されるのではないか……。そう考えるだけで胸が苦しくなるほど痛くなった。

 ところが、正式な花嫁になればヴァイルと同じ存在になれるのだという。同じ存在になりずっと一緒にいられるのだと思うだけで、シュエシの心は歓喜に満たされた。


「嬉しいです」

「化け物になるというのに嬉しいと言うか。本当におまえは物好きだな」

「……僕は夜叉の子ですから、きっと生まれたときから人ではなかったんです。だから、ヴァイル様の花嫁になることで化け物になるわけじゃ、ないです」

「おもしろいことを言う。なるほど、夜叉の子ならば我が眷属に相応しい。返り血を浴びたような美しい髪に美酒のごとき血、みだりがましい体、何よりわたしを求める純粋な心を持つおまえは、素晴らしい花嫁になるだろう」

「とても、嬉しいです……」

「……本当に、おまえはよく泣く」


 嬉しくてたまらないのに、どうしてか涙が止まらない。シュエシは慌てて涙を拭おうとしたが、その手をヴァイルに優しく止められた。代わりに冷たい指で目元を撫でられる。たったそれだけのことで、胸が締めつけられるように苦しくなった。


(僕は、ヴァイル様が好きだ)


 苦しいほどの想いが体中を巡り、体の奥深くがじんわりと熱くなる。それはまぎれもなくヴァイルを求める欲が灯す熱で、シュエシにこの淫らな熱を止めることはできなかった。あとはただ、思いのままにヴァイルを見つめることしかできない。


「我が花嫁は、なんとも愛らしい」


 美しく微笑んだヴァイルに手を取られ、ゆっくりと椅子から立ち上がる。そうして正面を向くと、ふわりと抱きかかえられた。すぐ側にある美しい顔にシュエシがぼうっとしている間に寝室へ運び込まれ、大きなベッドに横たえられる。


みだりがましい体も、また可愛いものだ」


 仰向けになると少女が着るような寝衣の裾が敷布の上に広がり、みっともないことになっている下半身もはっきりと見えてしまう。それはたまらなく恥ずかしいことのはずなのに、これから始まる行為にシュエシの体は一層昂ぶった。






「次に目覚めたときは同じものになっている」とヴァイルに言われ、シュエシはそっと目を閉じた。これから自分が変わるのだと思うと、緊張からか体が勝手に強張ってしまう。ヴァイルから「緊張しているのか」と問われて首を横に振ったが、ぎこちない動きが隠せるはずもなく、クスクスと笑われてしまった。


 これではいけないと思い、シュエシは小さく深呼吸をくり返した。フゥと何度目かの息を吐き出したとき、首筋にわずかにチクリとしたものを感じた。続けて皮膚の内側にグッと入り込む存在を感じ、体が少しだけ震える。もう何度も牙を受けているからか痛みを感じることはほとんどなかったが、代わりに牙だと思うだけでシュエシの体は快感を拾うように変化していた。


 そんなシュエシの状態に気がついたのか、一度牙を抜いたヴァイルが首筋に口づけたまま小さく笑う。


「わたしの牙に感じてしまうのは仕方のないことだ、諦めろ。目覚めたら、また慰めてやる」

「……っ!」

「そう恥ずかしがるな。もう一度触れたくなるだろう?」


 驚いて目を開けた先には、まだ情欲を宿した黄金色こがねいろの瞳があった。慌てて目を閉じたものの、そんなシュエシの様子がおかしいのかヴァイルのクスクスという笑い声がしばらく続く。そうして最後にフッと息を吐いたあと、再び牙がシュエシの皮膚を貫いた。


 牙の存在を感じるとどうしようもなく体が疼いたが、シュエシはヴァイルに言われたとおり力を抜き、ただじっとそのときを待った。

 痛みはないが、牙を穿たれたところがジンジンと熱を持ち始める。血を啜られるときとは違う疼きが広がり、次第に手の指先がジワジワと痺れ始めた。痺れは指先から全身へと広がり、膝の裏や足の指先、耳の裏、そうして頭のてっぺんまでを覆い尽くす。そうして全身くまなく痺れが行き渡った瞬間、プツンと何かが途切れたような気がした。




 そのままシュエシは、死んだように眠り続けた。

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