第31話 深淵への第一歩

 突如グラマーな体つきへと変化したセナの艶姿に、俺は心を奪われてしまった。その後数時間ほど、俺はセナの体を貪った。何度も精を吐き出して疲労困憊し、そのまま眠ってしまったようだ。


 突き刺さるような空腹感に気づいて目を開ける。セナは俺の隣、ベッドの中にはいなかった。


「お目覚めね。気分はどう?」


 俺が上半身を起こしたその時、セナに声をかけられた。

 

 声がした方向を見るのだが誰もいない。その、何もない空間からセナの姿が浮かんできた。


「君は……何者なんだ?」

「驚かせちゃってごめんなさい。私はアルジラ・セナ。アルジラが姓でセナが名前よ」

「本名なのか」

「嘘はつかない。諜報活動をするときは変装するし別名義になってるから大丈夫よ。仮に出会っても私とは絶対に気づかない」

「変装って、さっきみたいに……できるのか? 体形だけじゃなく顔や肌の色まで?」

「本当は秘密だけど、さっき見せちゃったからね。体形と肌の色、髪の色、瞳の色、顔の形、全て変えられるわ」


 怪しく笑うセナだった。しかし、元のパーカーを身に着けていた彼女の胸は豊かで、ポツンと乳首が浮き出ていた。


「その……あれだ。変装した場合、体は元に戻らないのか? 胸元はそのままなようだが」

「うふふ。変装した場合は24時間そのままよ。戻そうにも戻せない」

「そうなのか。何でもかんでも変装したり元に戻ったりはできないんだな」

「そう、案外不便なの。でも、あなたの好きな巨乳のままだから嬉しいでしょ」

「うっ」


 返事に困ってしまう。今回の件で自覚してしまったのだが、俺はどちらかと言えば巨乳趣味であったようだ。


「もう一回さわってみる? 今、ノーブラだけど」

「いい。それよりも腹が減ったんだが」

「サンドイッチとおにぎりが届いてるわ。これでいい?」

「ああ。問題ない」


 俺は手早く衣類を身に着けてからソファーに座る。セナは俺の向いに座った。テーブルの上にはサンドイッチとおにぎりが盛られた大皿と、オードブルが盛られた大皿が並べてあった。


「コーヒーでいい?」

「ああ。その前に水をくれ」


 セナがコップに水を注ぐ。金属製のピッチャーは表面が結露しており、中の水の温度は相当低い事が伺える。一杯を一気に飲み干したのだが、やはり冷たく、腹の中が一気に冷えてしまう。


「さあ、食べましょ」

「そうだな」


 俺はとりあえず、小ぶりなおにぎりを一つ口に放り込み、また冷水を飲み干した。空腹感は消えないが色々な疑問はある。姿を消したり体形を変化させるセナの事だ。


「喉が渇いてたの」

「そう。一杯飲んだら落ち着いたよ。それはそうと、君は本当に人間なのか? 体形は変えられるし姿を消すこともできる。さっきは裏宇宙から来たと言っていたが」

「その事ね。あなたが望むなら話してあげる。でも、覚悟が必要よ」

「覚悟? 何の事だ」

「そのままの意味よ」

「誰かに狙われるという話か?」

「秘密を知ればね」


 まさか。

 この、まるでゲームみたいな異界アルスの秘密に迫ろうというのか?


 マリカもそのようなニュアンスの事を話していたが、詳細はまるで分らないとも言っていた。


「秘密……君の秘密か。それを知る事がアルスの秘密を知る事につながる。そういう話なのか?」

「結果的には」

「結果的?」

「そう。結果的。何故ならば、私がアルスの秘密を暴く者だからよ」

「そのための諜報員なのか?」

「そう考えてもらって構わない」


 ここは慎重になるべきだ。理性的に判断するならそう考えるのが当たり前だ。どこの諜報員だかわからない怪しい女の口車に乗って良い事などあろうはずがない。しかし、俺の直感は彼女に乗れと囁いている。


「わかった。覚悟を決めよう。まず、君の事から教えてくれ」

「いいのね。後戻りはできないわ」

「ああ」


 セナの話が始まった。

 彼女は俺たちの言う裏宇宙から来た。ヤブサカも一緒だという。


 裏宇宙とは言っても、SF的なパラレルワールドではない。同じ星があり同じ人物が存在している等の考え方は単なるフィクションだという。また、反物質や反素粒子といった概念とも違う。次元構造上、二つの宇宙が重なり合っている状態らしい。


「ここまでは理解できる?」

「ああ、一応な。ただし、正確に理解したかどうかは自信がない。そもそも俺は、宇宙誕生のビックバン理論でさえ上っ面の知識しか持っていないからな」

「誰もがそんなものよ。一部の天才が解き明かした真理を他の人が応用しているに過ぎない。そして、その真理は全て解き明かされている訳じゃないって事」

「そうだな」


 過去において、人々は大地が平面ではなく球形である事に気づいたわけだが、それでも地球の自転や公転にまで思考が届くのに相応の時間を要した。ビッグバンから始まる一つの宇宙から、この複雑な次元構造へと認識の転換ができるのは後何年必要なのか。俺にとってそれは途方もない時間ではないかと思える。


「ところでセナ。君は人間だと言ったな。それは俺たちと同じような肉体だという事か」

「そうよ。遺伝子情報としては非常に似通っている。だから、妊娠だって可能だわ。さっきは避妊具を使ってなかったでしょ。できちゃったかもね」

「何だと?」

「責任取ってくれるんでしょ。ね、ブラッディオスカーさん」


 妊娠するなど考えてもみなかった。

 これは……セナが仕掛けたハニートラップなのか。しかし、俺なんぞ一介のパイロットにそのような手間をかけるとは信じられない。


「顔面蒼白。わかりやすい人ね」

「悪かったな。もし妊娠していたなら責任は取るよ」

「結婚してくれるの」

「そうは言っていない。だが、それも含めて真剣に検討する」

「嬉しいわ。でもあなた、鈴野川女史に殺されちゃうかもね」


 さらりと恐ろしい事をいう女だ。しかし、こうなっては言いなりにならざるを得ない。


「ふふ。やっぱり面白いわ」

「何がだ」

「あなたのその、純情で馬鹿正直なところ」

「悪かったな」

「でも安心して。ここでは妊娠は有り得ない」

「何だと? そんな事があるのか」

「あるのよ。だって、あなたはこの世界で妊婦さんを見た事があるの。ベビーカーを押して散歩してる母親を見た事があるの。赤ちゃんを見た事があるの。無いでしょ」


 言われてみればその通りだ。妊娠出産という人がいれば当たり前の日常を、俺は見た事がない。そんな基本的な事実に気づいていなかった自分に愕然としてしまった。

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