第3話 基地司令ニルヴァーナ
司令室の前に立ちドアをノックする。
「香月か? 入れ」
あの女は、部屋に誰が来ているのか100パーセントわかるらしい。今まで自分が名乗った事はなく、司令が間違えたことも無い。
ドアを開けて中へと入る。中央に大ぶりなデスクが据えてあり、右側には豪奢な応接セットが据えてある。ソファーは革張りだし、テーブルもどこぞの高級な木材を使っている。
応接セットの奥側に座っている女が俺たちのボス、基地司令のニルヴァーナだ。空軍の青い軍服姿の彼女は黒髪ショート。恐らく日本人だ。小柄で華奢な体形をしているのだが、その双眸に宿る光は鋭い。歴戦の勇士といった風情をもつ女傑だ。ニルヴァーナとは勿論コードであり本名ではない。彼女の本名を俺が知っているはずもない。
この、命のやり取りをしている前線基地の司令官が女性ってのも驚きだが、そのコードネームがニルヴァーナだってのにも驚いてしまう。戦争とは真逆の言葉だからだ。仏教的な悟りの境地を意味していたと思う。そのニルヴァーナが口を開いた。
「ボーっと突っ立ってないでそこへ座れ。紅茶でいいか?」
「はい」
俺は下座の側の三人掛けのソファーの真ん中に座った。
テーブルには紅茶用の大ぶりな陶器ポットが用意してあり、彼女はそのポットからマグカップへドボドボと紅茶を注ぐ。深紅の鮮やかな紅茶が大ぶりなマグカップを満たした。漂う香りもなんだか高級品のようだ。一応、紅茶通として知られるニルヴァーナだが、作法としては結構ずさんだったりする。しかし、彼女の淹れる紅茶は文句なしに旨い。
「さて香月君。君はいつまでランク2の機体で頑張るつもりなのかね?」
やはり来た。機種改変の話だ。
「俺はこのまま一式で戦います」
「なるほど。低高度での格闘戦が性に合うと?」
「はい。そうです」
俺は角砂糖を一個マグカップに放り込み、スプーンでカチャカチャと混ぜる。そして一口、紅茶を口に含む。得も言われぬ香りが鼻腔をくすぐる。この人の淹れる紅茶は本当に旨い。それなのに何故、情緒もへったくれも無いマグカップを使っているのか理解に苦しむ。
「君には期待している。我が陣営の、本物のエースパイロットになって欲しいと思っている」
「原則、使用する機体は自分で選べる。そして、参加する任務も自由に選べる。そういう決まりですよね」
「そうだが」
「ならば、貴方にとやかく言われる筋合いではない。俺は俺のやりたいようにやる」
ニルヴァーナは俯き加減にため息をつく。そして、自分が入れた紅を一口飲んだ。
「明日から、君の機体には高オクタンの航空ガソリンを支給する。そして、現在搭載してある水エタノール噴射装置を取り外そう」
「え? そんな事が可能なのですか?」
「〝当時そのままの装備での空戦〟が大原則なんだがな。これは、連合軍に鹵獲された戦闘機を再利用するという名目でなら十分に可能だよ」
「なるほど」
「機体が若干軽量化されるし、エンジン出力も上昇する。最高速度は約25キロメートルほど向上するはずだ」
つまり、最高速度は時速560キロから585キロへと向上する。それでも最高速度が700キロメートル前後の2000馬力級とやり合うのは困難であるが、低高度域に限定するならかなりのアドバンテージを得ることになる。
「この件に同意するかね」
「はい。同意します」
何か裏があると思いつつ、俺は即答していた。
そもそも、同じ基地より発着する航空機の燃料に差異がある事の方が奇妙なのだ。理由は先ほど司令が言った〝当時そのままの装備での空戦〟の原則なのだが、何故こうなのかは知らないし教えてもらえない。
「それと、もしよければの話になるが、エンジン換装はしないかね?」
「換装ですか?」
「ああ、そうだ。現在は正規のエンジン〝ハ115(栄)〟だが、これを〝ハ45(誉)〟もしくは〝ハ112(金星)〟に換装する案だよ。排気タービンを装着してもいい」
これは大きく出て来た。
俺の機体を高性能化し、より高空での作戦に参加させようとの意図が見え見えだ。つまり、ランクの高い機体を相手にしろという意味になる。もちろん、その方が報酬は高い。しかし、俺はまだここで稼ぐ意味を見出していない。
つまり、俺は何のためにここで命を懸けて戦っているのか、知らないのだ。
「魅力的な提案ですが、少し考えさせてください」
「わかった。機種改変も相談に乗るよ。君ならランク3やランク4の機体も用意できる」
ランク3は三式戦闘機〝飛燕〟となり、ランク4は四式戦闘機〝疾風〟になる。勿論、他の機種も選べるのだが、俺は旧日本軍以外の機体を扱う気は無い。
「整備班長にこの書類を渡してくれ。明日からは高オクタン燃料で飛べる」
「わかりました」
俺はニルヴァーナから書類のファイルを受け取って、司令室を後にした。とりあえず整備班長の所へと行かなくてはいけない。俺は階段を降り、詰所から出ていく。そして滑走路脇にある整備工場へと向かった。
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