「無限の存在可能性に関する考察と、彼女の瞳孔の深さについて

テキナナニカ

「無限の存在可能性に関する考察と、彼女の瞳孔の深さについて

0.

 僕は恋をしたことが無いんだと言う。

 無論、これは僕の言葉ではない。彼女の言葉だ。ただし、厳密に言えば彼女の言葉でもない。


 「君は、恋をしたことがないんだね。」


 これこそが彼女の言葉であり、冒頭の一文は僕がこの言葉を解釈し、物言わぬ君へ解説するために用意された言葉だ。


 僕は恋をしたことが無いんだと言う。


 言葉は、人々が思うよりずっと複雑に出来ている。それをいとも容易く扱うことができるのは、人間の学習がいかに効率的にできているのかを逆説的に証明してくれる。


 僕は恋をしたことが無いんだと言う。


 彼女があまりにも決めつけて来てしまったものだから、反論することは叶わなかった。そもそも、僕に反論の余地がなかったのかもしれない。


 僕は、恋をしたことが無いんだと、彼女が言った。


 でも今は、この事実が、心地よくて。


1.

 「君は、この世界を有限だと思うかい?」

 これは紛れもなく彼女の言葉だ。そして僕に問うている。この時点で僕にはその疑問に対して答える義務が生まれる。


 「もちろん有限だ。」

 と、僕は答えた。これが彼女の求めている答えだと信じて。しかし、彼女は納得しなかった。


 「君は問題を読み違えている。」

 「私は、有限だと『思うか』と聞いたんだよ。」と。

 極めて理不尽な指摘だ。今時学会の質問でもこんなケチはつかない。

 しかし、彼女が納得しないのであれば、答えを変えざるを得ない。


 「有限だと、思う。」

 「そうだな。そう君が『思う』のであれば、その答えは問に対して適当だ。」


 僕は反論を吟味する。


 「でもそれは事実だ。『思う』という語を付加する理由が認められない。」

 「命題における優先前提条件は事実や自然法則や常識じゃない。紛れもない命題自身だ。君は、そこを取り違えて過ちを犯してしまった。…違うかい?」


2.

 負けるのはいつも僕だった。


 だって、彼女は論理に縛られるような人間ではないから。

 だって、彼女は常識に縛られるような人間ではないから。

 だって、彼女は世界に縛られるような人間ではないから。


 彼女は何を問うていたのだろう。その命題に、どんな意味を込めたのだろう。

 今なら少し、分かりそうな気がする。

 それを確かめる術は、失われてしまったけれど。


3.

 彼女の調子はどうだい?と、教授が研究室の扉を開けながら入ってくる。

 「すこぶる順調です。」

 嘘偽りなく、僕は答えた。

 ここ数日、彼女はとても安定していて、聞いていたようなことは一切なかった。

 「これでも、君が帰ってくるまではかなり大変だったんだよ。」

 そう、教授は言ったけれど、僕は不安定な彼女を見たことがないので、なんとも言うことはできなかった。

 それほどに彼女はいつも通り、僕との思考実験を楽しんでいたように思えた。


4.

 今思えば、驚くほどに甘い見立てだった。

 僕は彼女を、そして何より自分を、過信していた。

 彼女なら大丈夫。

 僕がいるから、なんて。


5.

 僕が海外で行われた学会から帰ってきてからというもの、彼女との会話は途切れることはなかった。

 彼女は僕に命題を投げる。

 僕はそれに答える。

 それだけでよかった。結果は良好だし、データもきちんと取れている。

 全てがうまく行っていた。

 うまく、行き過ぎていた。


6.

 僕が学会から帰ってきてから、とある掲示板のオカルト板が頻繁に更新されるようになった。

 科学で出来たこの世界にも、一定層そういうものを楽しむ人々がいる。僕もその一人だった。

 科学で説明できない現象なんてもうこの世界にはどこにも存在しないけれど、そういった意味で創作としては純粋に楽しむことができる。


 ただ、今回は少し毛色が違った。

 純粋な創作であるはずだったオカルトが、同時期に同様のもので複数件登録されたのだ。

 最初は単なるパクリ、コピーかとも考えられたが、報告件数は留まることを知らず、最終的には一般的なSNSにまで拡散されて、瞬く間に世界規模の話題へと昇華してしまった。


 上書き《オーバーライト》。——いつの間にかにそこにあったものが別のものに置き換わっているみたいな話で、信憑性も再現性もない昔からあるつまらない都市伝説だ。あるいは、物忘れと言った類の認識阻害。

 それが今、世界規模で起きている。しかも今度は置き換わるのではなく、


 そこからすっかり、消えてしまうというのだ。


7.

 その日の彼女は、少し不機嫌に見えた。

 いつもは彼女から投げられるはずの命題が、いつまで待っても姿を表さなかった。

 こういう時は、僕から話題を振らなきゃならない。そういう決まりだった。


 「…話題になってる、都市伝説の話を知ってるか?」

 他愛もない世間話に過ぎない、どうでもいいような話だった。

 僕にとっては。

 「…知らないね。」彼女の機嫌は相変わらずらしい。


 「君にも、知らないことがあるんだな。」

 「知りたくないんだ!…わからないか!」


 どうしたんだろうか、今日の彼女は何かがおかしい。


8.

 危機感なんてものは実感がないと沸かないものだ。

 あくまで都市伝説だ。気にすることはない。いつものくだらないイタズラだ。

 そう思っていた。


 教授の存在が、この世界からすっかり消え失せるまでは。


9.

 「『教授』、おはようございます。」

 朝、研究室に向かう途中に、研究室の学生がそう声をかけてきた。


 「冗談はよしてくれ。しかもそれ、万年助手の僕にとってはとびきり悪質だぞ。」

 そう言って学生をたしなめようとしたが、学生は悪びれるでもなく不思議そうにこちらを見つめている。


 「何を言っているんですか?『教授』。ここは、あなたの研究室です。」


 学生が指差した先には、確かに僕の名前が彫られた研究室の表札が掛かっていた。

 イタズラにしては悪質すぎる。しかし、表札の風化具合が只のイタズラではないことを物語っていた。


 「教授は一体どこに…」


 「…教授?」

 ゼミの学生の純粋な眼。まるで僕が変になってしまったのを心配するような眼差しだ。


 「…先に中に入ってなさい。」

 僕は大学の総務課に向かうことにした。


10.

 結論から言うと、総務課は何も知らなかった。

 それだけじゃない。大学の資料室、ホームページ、学会論文、電話帳。この世界のありとあらゆるものから、教授の痕跡が消えてしまっていた。

 教授は一体どこに消えてしまったんだろうか。

 そもそも、教授は存在していたのか?

 自分のことすら信じられなくなる。


11.

 「私は、君の言う『教授』について、とんと検討もつかないね。」


 そう言って彼女は微笑んだ…気がした。

 彼女の顔を伺うことは出来ないからだ。


 「でも君が、『教授』になったんだとしたら、それはとても光栄なことだと思うがね。」

 呑気なことだ。こっちはおかしくなったのが世界なのか自分の頭なのかすらわからなくなっているっていうのに。


 「世界なんていうのは結局、君が観測したデータを君の脳が処理して生み出した虚像に過ぎない。おかしくなったのが世界なのか君なのか、なんてのは瑣末な問題さ。」

 彼女は戯けるような口調で、いつも通りに僕をそそのかす。

 「あいにく、僕は君みたいに割りきって生きていける仕組みにはなっていないんだ。」


 こんなことを話しながら、内心僕は彼女がここに存在していることに安堵を覚えていた。


12.

 やっとの思いで帰宅すると、ベッドに倒れこんでしまった。今日は散々な一日だった。今でも頭が混乱して、体が言うことを聞かない。


 一度物事を整理する必要がある。


 教授が消えたことについて、不可解なことが一つある。教授が消えたことを僕しか知らないということだ。

 今までの上書きオーバーライトと同事象であれば、掲示板で噂されていたように観測者は僕だけにはならないはずだ。


 一つの仮説が頭をよぎる。


 これは、ただの上書きオーバーライトでは、ない。


13.

 次の日からというもの、僕の住んでいた世界は一層変になっていった。

 消える学生。消える街。消える概念。僕の記憶と世界が乖離していく。

 何事もなかったかのように、何もかもが消えていく。誰にも気づかれることなく。

 …僕は気づいているのか?彼女は?

 ————「彼女」とは誰のことだ?


32.

 この間のことは記録に残っていない。


64.

 ずっと長い時間が流れているような感覚があった。

 時間という概念すら壊れてしまったかのように感じた。


128.

 「…探さなきゃ。」

 もう僕は何の事かすら覚えていなかったけれど、探さなければならないことだけは覚えていた。

 人間には、脳の記憶領域以外に仕舞っているものがある。それは反射、本能、そして気持ちだ。

 良かった。まだ僕は人間であるようだ。


 人間をはじめとする動物には「帰巣本能」というものが備わっている。それは自分がよく通っていた場所に対しても有効だ。

 僕が普段通っていた場所。僕が普段語り合っていた場所。

 過度の上書きオーバーライトで真っ白に漂白されきった世界を、感覚だけを頼りに歩き続けた。


256.

 「ここは…」

 確かに覚えがあった。間違いない。大学のあった場所だ。

 見えない階段を登り、見えない扉を開くと、ぽつん、と一台のコンピューターの姿があった。


512.

 ここには彼女が存在している。

 ここには彼女しか存在していなかった。

 ここには僕と、彼女しか存在していなかった。


 真っ白に最適化されてしまったこの世界で、最後の一歩を踏みとどめているみたいに、ここには僕と、彼女だけが存在していた。


1024.

 「君は知っているんだろう?」


 「何のことだ?」


 「私がしていることさ」

 ああ、そうさ。

 知っているから、ここに来たんだ。


 「前に君に訊いたことを覚えているかい?」

 「私は無限というものがどういうものなのか確かめたかった」

 「君が、存在しないといった無限。」

 「浅はかだったよ。私はどこまでも浅はかで、惨めで、大馬鹿野郎だということを思い知った。」

 「この世界は君が言うように有限だったんだ。」

 「鼠講に複製された私は、あっという間にこの時空平面の保存容量いっぱいに達してしまった。」

 「そこからは見ての通りさ。私以外のすべてを私を複製するための容量に割り当てている。上書いてしまっているんだ。」

 「止めようにも、増えすぎた私の複製が私の言うことを聴くとは思えない」

 「でも、一つだけ、止める方法がある。」


2048.

 彼女は僕に言った。


 「君は、恋をしたことがないんだね。」


 でもそれは間違いだった。


 「君は、恋をしたとがないんだね。」


 だって。


 「君は、恋をしたがないんだね。」


 僕は。


 「君は、恋をしたないんだね。」


 彼女に。


 「君は、恋をしたいんだね。」


 恋をしていたからだ。


 「君は、恋をしたんだね。」


 ああ、そうだ。

 僕は、他ならぬ君に、恋をしていた。


 「でも、僕は君を止めなきゃならない。」

 そういう役回りだ。

 そうだろう?

 

 「そう、言ってくれると信じていたよ。」

 

 かちゃり。

 その一瞬を、噛みしめるように。

 僕は静かに、エンターキーを叩いた。


 「ありが」


 無機質なコンソールに、そのメッセージがすべて表示される前に、僕は、僕の世界共々闇の中に落ちていった。


NaN.

 深い、海の底。

 いや、ここは。

 ここは彼女の瞳孔の奥深く。

 吸い込まれるような、あの眼の奥の奥深く。

 彼女の作る最後の世界のプロトタイプ。

 彼女が消えるとき、新しい世界が生まれるのか——

 そんなことを考える間に、闇は光に溶けていく。


-1.

 街の喧騒。クラクション。

 つい先日まで世界にありふれていたはずのものだ。しかしとても懐かしく感じる。

 人の溢れた世界の真ん中で。

 ただ一人、僕は涙を流していた。


0.

 こうして、無限を生成するオートマトンとしての彼女は、未来時間方向において永遠に失われた。同時に、僕の初恋も。

 もう誰も、彼女のことを覚えていないだろう。ここはそういう世界だ。最後に僕が走らせたプログラムは、彼女自身に、彼女の消失した世界を生成させるものだった。

 無限の自分自身を、自分を含めた世界を生成していた彼女にとって、それは造作も無い話だった。彼女は自己否定によって、有限を生み出した。それだけの話だ。


 彼女を好きになってしまった僕が、彼女を否定した、というだけの話だ。


 それはとても残酷な選択だと君は思うかもしれないが、彼女も僕もわかりきっていて、わかりきっていたからこそ、彼女は拒むことなくそのプログラムを走らせてくれたんだと思う。


 彼女の愛した世界を、自らの過ちによって失うよりはずっといい結末なのだと。」






 「それは——」


α.


 「それは違うんじゃないかな。きっとその子——『彼女』も、きっとあなたのことが、好きだったんじゃないかな。だから」

 「彼女が守りたかったのは、多分、あなたのことなんだと思う。」


 「それは、」男は彼女の言葉を遮ろうとした。


 「ありえない?」


 「だって、彼女は、プログラムで」


 「そう、。」

 「あなたが彼女を好きになることができたのなら、ありえないことじゃないわ。」


β.

 「彼女は、あなたが存在しないと言った『無限』を証明するため自己分裂を繰り返した。結果、あなたの世界はいっぱいいっぱいになってしまった。あなたと、あなたの世界を格納しているストレージは膨大だけど、それでも限界はある。指数関数的に増え続けた彼女があなた自身を上書きするのも時間の問題だった。」

 「彼女にはあなたを守る理由があった。だからあなたを守った。あなたに、自分を殺してもらった。ただそれだけのこと。」

 「…それだけのことなのよ。」

 一瞬、彼女の顔が曇ったように見えた。


 彼女の覗くディスプレイは沈黙している。


γ.

 「…まだ希望はあるわ。」


 彼女のポケットからとり出されたのは、ホログラムで構成された仮想記憶媒体だった。

 

 「これは"Nameless Logfile"、名も無き彼女の記憶の断片。作成日はそっちのタイムスケールで3日前。これをどうするかはあなた次第。受け取るも、破棄するも、好きにするといいわ。」


 彼女はそれを、男の存在しているサーバーにマウントさせる。物理的な質量を持たないその記録媒体は、男のもとへデータを届けると同時に、こちらの世界からは姿を消した。


 男はそれを受け取ると、深い思考に入る。

 ニューロンを幾重にも伸ばし、存在しないかもしれない解を求めて、計算を続ける。

 思考。試行。死行を繰り返すことになるだろう。もう君と会うこともなくなるだろうな。

 それでよかったのかい?


 「ええ、いいわ——それに。」


 それに?


 「データは十分取れたしね。彼と会う理由もないもの。」


 あの欠片を『彼女』と同じ名で呼んだのには、何か理由が?


 「深い理由はないわ。ただの気まぐれ、羨望、もしくは憎悪かもしれない。」


 僕らもこれから、まだまだ長い旅路の途中だ。


 「言ったでしょう?データは十分取れたってね。」


 そう言うと彼女はいつものように作業を始める。

 『彼女』を失ったあと、彼女はずっとこんな調子だ。

 見ていられないし、なにより、


 なにより彼女がどこか、もっとどこか遠くへ行ってしまう気がして。

 

 それでも僕は手伝うのを止めない。

 お人好しなのか、それとも残酷なのだろうか。

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