第204話 記憶の扉②

「…………」


 俺は思わず絶句した。ここは、元の世界だ。俺が異世界転移する前の日本だ。

 俺は自身の体を見渡す。学ランを着ている。

 周りを見ると、舗装された道路にブロック塀、連なる電柱、さびれた駄菓子屋と自動販売機。通学路として見慣れた光景だが、景色が少し高い。

 これは俺の身長が低いのだ。異世界転移したときの俺は高校生だったが、いまの俺は中学生になっている。


 俺はこの景色に見覚えがあるが、それゆえの焦燥感があった。周りに人がいない。このパターンは俺が学校に遅刻しかけているときの光景だ。

 時計を見ると、走らなければ間に合わない時刻を示していた。


 俺は走った。反射的に走っていた。すべて体が覚えている。俺は時間にルーズなほうで、月に一回はこういう状況になっていた。

 しかしルールに対してはルーズではない。俺は全力で走った。


 学校が見えはじめた。民家の向こう側に校舎が顔を出す。

 しかし、ここに鬼門があった。信号の長い交差点だ。そして、運が悪く赤信号になったばかり。

 俺は左右を見て車が来ていないことを確認した。そして横断歩道を渡ろうとしたとき、後ろから走ってきた男に肩を掴まれてグイッと引き倒された。

 俺は尻餅をついて男を見上げる。


「おい、なに渡ろうとしてんだよ。法の番人なら信号くらい守れや」


 男はそう言って、自分だけ赤信号を渡っていった。

 彼は俺の同級生だ。ときどき振り向いて、俺が赤信号を待っていることを確かめてくる。かなり性格が悪い。

 しかし力が強くて逆らえない。いや、そうじゃなかった。たとえ相手の力が弱かったとしても、俺は誰にも逆らえなかった。


 信号はようやく青に変わった。

 俺は急いで走りだすが、先ほどの尻餅で足に痺れが残っていて全力で走れなかった。

 校門には緑色のジャージを着た生活指導の先生が立っている。剣道部の顧問もやっていて、竹刀を持って待ち構えている。漫画みたいな先生がいると地域でも噂になっているのだが、その見た目どおり滅茶苦茶厳しい。

 俺が校門を通った瞬間、竹刀が俺の太腿ふとももに会心の一撃をお見舞いする。


「いっ!!」


 俺は前かがみになって太腿を両手で押さえた。


「遅刻! よりにもよって、おまえが遅刻しちゃイカンだろ」


「なんで僕にだけこんなに厳しいんですか! うちの親が裁判官だからですか!?」


 俺がキレ気味に怒鳴ると、また竹刀が俺の腕を襲った。

 この先生に限った話ではないが、特にこの先生はほかの生徒よりも俺に対して厳しい。


「当然だ! おまえの父親は人を裁く立場の人間だ。当人は当然として、その家族だって人の規範とならなければならん。そうでなければ誰も納得せんだろうが。ルールを守らない人間に裁かれるなんて、こんな理不尽なことがあるか!」


 理不尽はこっちの台詞だ。親が裁判官というだけで、なんで俺だけこんなにがんじがらめにルールを守らされるのだ。ルールを守るべきというのは分かるが、だったら俺以外の人間に対しても同様に対応すべきだろう。

 この先生が竹刀をぶつけるのは剣道部員と俺だけなのだ。


 この先生だけではない。同級生だろうが、ほかの先生だろうが、近所の人だろうが、俺を知る者はみんな俺にだけ厳しい。そして、親も俺に厳しい。


 記憶がどんどんよみがえってくる。

 中学生のころはひたすら耐えた。同級生に、上級生に、先生に、ひたすらいじめられた。

 できるだけ学校にいたくないから家を出る時間はいつもギリギリだった。だからときどき遅刻しそうになるのだ。


 周りの人たちの俺への態度は高校になっても同じだったが、高校のときはひたすら人を避けたので少しマシだった。


「遅刻しておいて、なにのんびりしている! 走って教室へ行け!」


 竹刀が俺の背中を撃った。足の痛みがひどくてまともに歩くこともできなかったが、先生はおかまいなしに竹刀で攻撃してくる。

 ここまでひどい仕打ちは年に二度か三度しかない。特にひどいときの記憶だ。ただ思い出すだけでなく追体験させられている。


 そうだ、これは見せられている記憶だ。過去には現実だったが、いまの現実ではない。

 俺の脳裏に制裁という言葉がよぎった。


 俺は地を這うように前進していたが、振り向いて先生をにらんだ。

 空気を操作して先生を……。


「なに睨んでんだ、おい!」


 竹刀が俺の全身を乱れ打つ。

 魔法が使えなかった。俺の能力もあのころのままだった。

 しかし魔法を使えると思って睨んでしまったばかりに、先生の逆鱗げきりんに触れてしまった。


「くそっ!」


 どうしたら終わるんだ、この記憶の扉ってやつは!

 こんなの偽物の記憶だ。たしかに俺の脳に記憶として残っているものだが、それはすべて神が創りだしたもので、本物の記憶ではない。だからこんなものを思い出したところで精神的なダメージはない。

 こんな記憶、認めない。忘れてやる。自己暗示はオーラの修行のおかげで得意だ。力ずくで忘れてやる!


「ふふふ」


 その声もまた、俺の記憶だった。

 聞くだけで気が触れそうになる狂気の笑い声。

 彼女の言葉が脳裏をよぎる。


「駄目じゃないの。偽物だからって過去を軽視したら」


 紅い狂気がそう言って俺に語ったことは、不覚にも俺を納得させてしまった。

 俺の過去はいまの俺を形成する土台なのだ。たとえそれが偽物であったとしても、本物と変わりなく俺に影響を及ぼす。

 俺の日本での記憶はすべて偽物の記憶。そのはずだったが、紅い狂気の言葉で切り捨てることができなくなった。


 俺が異世界転移する前の記憶。


 そこにはいいことなんて一つもなかった。毎日が窮屈きゅうくつだった。俺に起こるすべてのことが理不尽で不快で苦痛だった。

 俺は鬱屈うっくつし、成長するにつれてどんどんじ曲がっていった。

 俺の過去には、大きな事件に巻き込まれたとか、大切な人が死んだとか、そんなドラマチックな悲劇はいっさいない。ただただ生きることが苦痛だった。

 聞くだけだと大したことないかもしれないが、これが毎日だとひどくこたえる。

 自殺という選択肢を考えたこともあったが、それを選ぼうと思ったことは一度もなかった。あまりにも憎くて、絶対にタダでは死にたくないと思った。

 俺と関わったすべての人間に復讐ふくしゅうしたかった。

 人間というあまりにもみにくい生き物に絶望を振りいてやりたかった。

 人間社会をぶち壊してやらないと死んでも死にきれないと思った。


 俺は本気だった。それを実現するために、まずはさまざまな本を読みあさって知識を身につけようと思った。

 ときどき、息抜きとしてライトノベルにも手を出していた。ライトノベルはライトノベルで人間の欲望を垣間見ることができ、人間の愚かさを再認識できるツールとして役に立っていた。


「オラァ!」


 竹刀がひときわ強く俺の背中を打った。

 魔法が使えなくても一矢報いたい。力が入らなくてもいいから一発だけでも殴ってやりたい。

 しかし、俺はもはや起き上がることもできない。

 視界が白みがかっていく。

 激痛をさんざん味わったせいか、体が麻痺して痛みが消えていく。

 そして意識も消えていく。

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