第192話 公務

 ゲス・エストが世界王となってから、しばしの時が流れた。


 ミューイ・シミアンは突如として王女から女王となり、多忙な日々に追われていた。

 王女だったころの彼女はその行動がすべて公務となっていたが、女王となった彼女は受身ではなく自ら公務をおこなわなくてはならなくなった。


 彼女にとって、おそらくいまがいちばん大変な時だろう。

 女王としての仕事を覚え、経験を積み、一人前となれるよう力量を身に着けていかなくてはならない。両親がすべて教えてくれはするものの、物事の決定などはあくまでミューイ自身がしなくてはならない。

 元国王の国政干渉は世界王によって禁じられており、あくまで執政の助言に徹しなければならず、それは常に監視されていた。


 新体制のシミアン王家を監視しているのは一匹のぬいぐるみだった。かつてミューイがヌイと名づけてともに旅をした存在。

 だが、いまはその正体を知っている。それは生物ではなく、ただの操り人形なのだ。それのしゃべることはすべて、操り主たる世界王の言葉。

 ヌイは監視されていることをシミアン王家に自覚させるためのランドマークであり、実際にはヌイの目の届かないところも世界王に筒抜けになっている。

 ちなみに、ヌイに話しかけたら世界王に話しかけることになるので、見た目に惑わされて軽々しい言葉をかけないよう気をつけなければならない。


 一方で、ヌイが動きを止めて、ただの人形になるときもある。さすがに世界王もずっとシミアン王家を監視してはいられないのだろう。

 いまがまさにそうだ。事務作業をするミューイの机の上にチョコンと座ったままピクリとも動かない。


「はぁ……。仕事多いなぁ。ヌイ、代わってよぉ」


 ミューイがヌイの頬をツンと指で突く。少し力が強かったか、ヌイが傾いて倒れそうになる。

 だがヌイが自力で体勢を立て直し、ミューイの方を向いた。


「はわわわわわ! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」


 ミューイは慌てて椅子から立ち上がり、ペコペコと何度も頭を下げた。

 ともに旅をしたころの愛着が抜けきっておらず、ついフレンドリーに話しかけてしまった。


「……ボク、指がないから文字書けないよ」


 ヌイの意外な返しにミューイは固まった。

 思考がめぐり、混乱するが、どうにか状況を飲み込めた。


(世界王様、ノッてくれた……? 意外と優しい……)


 ミューイは彼に対してまだ距離感を掴めていない。

 命を救ってもらった恩義と同じだけ、王国や家族を滅茶苦茶にしたことへの閉口する気持ちもあり、世界王に対して抱く感情は複雑なのだが、相手は絶対的権力者なので考えないようにしている。


 ミューイがヌイに対してどう反応したらよいものか考えあぐねていたところに、執務室の扉をノックする音がした。


「はい、どうぞ!」


 渡りに船という思いですぐさま来訪者を招き入れた。

 書類を手にした壮年の執務官が入室してきて、ミューイのデスクの前で一礼した。


「女王陛下、ご指示いただいていたシミアン王国の世情調査について報告いたします」


「あ、はい。お願いします」


 シミアン王国に限ったことではないだろうが、世界王の誕生によって王国の体制は激変した。

 国民たちは深刻な不安を抱えているはずだ。

 世界王の独裁が始まり、知らずのうちに粗相をして凄惨せいさんな死を与えられるのではないか。

 そうやって怯える日々というのは、ミューイが国民たちに望む安寧あんねいな生活とはかけ離れたものだ。


 だが、執務官の報告内容は朗報といえるものだった。


 世界王誕生直後、シミアン王国は暗い雰囲気に包まれていた。しかし、国民たちは日々生活するにつれて、世界はこれまでとそう変わらないことに気づきはじめた。王国の雰囲気もだんだんと元に戻りつつあるのだという。

 それでいて、法を犯す者はかなり減った。それどころか世界王の存在はそれ以上の効果を生んだ。

 シミアン王国では元々、法には触れない範囲で倫理にもとる行為というものが横行していたが、それすらも減ったのだ。

 見つかった場合に世界王から直接の裁きが下されることを恐れたのだ。何が世界王の逆鱗げきりんに触れ、どんな残虐な刑罰を与えられるか分かったものではない。真っ当に生きてさえいれば、己の平穏は保たれる。

 おかげで、ギルドの手配書版である青ボードは驚くほどスッキリしているという。


 ただ、白ボードでは共通の標的に依頼が殺到していた。

 それは青ボードにも一枚だけ貼り出されている標的でもある。


「例の件はどうなっていますか?」


「ああ、義賊コータの件ですね。相変わらず被害者が増える一方です」


「そうですか……」


 いま、ミューイをいちばん悩ませているのは義賊コータの存在であった。

 本名はアラト・コータというらしい。

 かつて、ミューイ自身も彼の善意の押しつけによって立場を危うくして甚大な迷惑をこうむった。

 その彼がなにやら義賊のようなことをやりだして、いまだに捕まらないのだ。

 彼がいまやっているのは、貴族たちの屋敷に忍び込んで金品を奪い、貧しい者たちにばらくという行為。

 たしかにシミアン王国は貧富の差が激しいのだが、その問題はミューイがいま解決しようと奮闘しているところだ。コータはその邪魔になっている。

 それに元を辿れば、貴族たちは王国に尽くし貢献してきた実績がある。つまり資産が大きいほど相応の責務を与えられているし、王国の発展に尽力し貢献してきた証でもあるのだ。貴族の世代が交代しても形骸化けいがいかすることなく、そのシステムは維持されている。

 そこに登場した義賊など、偽善でしかないし、人の努力を踏みにじる行為でしかない。


「世界王様の基準では、義賊コータは容認できるものなのですか?」


 ミューイはヌイに対して姿勢を正して質問した。

 ミューイは最初こそ世界王を恐れていたが、意外と常識のある独裁者で、話の通じる相手だと分かってきたところだった。


「容認される行為ではない。だが細事だ。雑魚の陳腐な悪事なんぞにいちいち構ってはいられない。王国内で処理することだな。騎士団長をもっと酷使しろ。それにおまえも魔導師のはしくれだろう? あいつのこと嫌いなんだろう? いい機会じゃないか。正当な理由で恨みを晴らせるぞ」


「……分かりました。私も出向きます。もちろん、私情は挟まず公務として」


 ミューイは執務長を呼び、自分の代理を務めるよう言いつけた。

 正直なところ、机にかじりついていて肩が凝っていたところだ。息抜きにもなろう。


 ミューイはさらに騎士団長のメルブラン・エンテルトを呼びつけた。

 いまの彼は女王の護衛隊長でもある。ミューイはたいていの相手には敬意を持って接するが、かつて彼女の命を狙った騎士団長に対しては下僕に接するような態度を取ることが多い。


「メルブラン、私も出ます。ですが、あなたが先行して義賊コータを逮捕してきなさい。もし私の手をわずらわせるような仕事ぶりを見せたら、大幅に減給しますからね」


「承知しました、女王様」


 いまの騎士団長はミューイに対して従順だった。彼は世界王との戦いで自分は誰かに仕えているのが性に合っていると思い直したらしい。

 そんな彼に対し、ミューイも世界王も共通の評価を下していた。

 騎士団長は盲目的な盲信者であり、一つの歯車としては有能だが人の上に立つ器ではない、と。


 ただ、暴走する偽善・義賊コータよりはマシだというのも共通見解だった。

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