第178話 孤独な少女

 少女は走っていた。森の中を、美しいブロンドのロングヘアーを振り乱して、全霊をかけて走っていた。

 白いブラウスのフリル袖は、木の枝にひっかかって破けていた。

 下に着ている紺色のノースリーブワンピースは左肩が切れて結びなおしているため、左右で高さがアンバランスになっている。

 その膝丈のスカート部分にはエスニックな白い模様の刺繍ししゅうが入っているが、跳ねた土で汚れ、所々糸がほつれて模様が変わっている。

 金の金具が付いた黒いブーツは泥だらけで、黒いタイツも所々伝線している。


 彼女はイーターに追われていた。

 熊のような褐色の巨体に、ハリネズミのような鋭い体毛、口の上下から飛び出した長く鋭い牙。

 もしも追いつかれたらと、想像するだけで身の毛がよだつ。

 イーターの名はハリグマ。ネームドイーターだった。


 少女は全速力で走りつづけて数分になる。

 もう限界が近い。図体が大きいハリグマは木々を薙ぎ倒しながら追ってきているため、か細い少女の脚でもなんとか追いつかれなかったが、そろそろ限界が近かった。


「ガァアアアアアウゥッ」


 獰猛どうもう咆哮ほうこうが背後から飛んできて、心臓が潰れそうになる。

 少女はブラウスの首元に下がっていた白いリボンを外し、後方へと投げつけた。

 チラと後ろをうかがうと、リボンはハリグマの鼻に覆いかぶさった。

 呼吸を乱されたハリグマは立ち往生してもがいた。


「はぁ……はぁ……ケホッ、ケホッ」


 息を切らす少女はなおも走りつづけた。

 足止めは成功したが、稼げる時間は一瞬だけだ。


 少女は森を抜けた。イーターの進攻をさえぎるものがなくなる。一気に追いつかれるだろう。

 少女は平原を見渡し、身を隠せる場所を探すと、北北東の方角に遺跡らしきものを見つけた。


 少女は走った。ハリグマはすでに追跡に復帰していた。

 遺跡は遠くない。最後の力を振り絞り、少女は走りつづけた。


「ガァアアッ、グガガアアアアッ!」


 少女は咆哮に驚いてつまずいた。派手に地を滑った。

 すぐさま起き上がろうとするが、大きな影に覆いかぶされて、起き上がるより先に後ろを振り返った。

 ハリグマはナイフのような長く鋭い爪を振り上げていた。


 もう無理だ。起き上がる猶予もないし、左右に転がって避けようとしても、ハリグマの太い腕から繰り出される大振りは避けきれない。

 だいいち、身体が硬直してしまって動けない。


「ガァアアアアアアッ! ガァアッ!」


 ハリグマは咆哮するも、腕を振り下ろさない。威嚇いかくしている。


「もしかして、この遺跡は聖域になっている……?」


 少女は二本の石柱の間にいた。柱間の距離は広く、ハリグマが通れないということはない。ただ入ってこないのだ。

 少女は冷静さを取り戻し、おそるおそる立ち上がった。そして、遺跡の奥の廃墟のような外観の洞窟に逃げ込んだ。

 振り返れば、ハリグマはずっと少女を見張っている。


 遺跡からは当分出られそうにないので、少女は仕方なく遺跡の中に入ることにした。ハリグマから身を隠し、あきらめてもらうしかない。


 少女は洞窟のような内部構造の遺跡を進んだ。

 天井には所々穴が開いているが、そこから差し込む光がなければ真っ暗でまったく進めなかっただろう。だが天井の穴は小さく、光が差し込んでいても、おそるおそるゆっくりと進むしかない。


 ある程度の奥まで進むと、もはや天井の穴もなくなり、遺跡内は真っ暗になった。

 非常に都合のいいことに、最後の光に照らされる場所には発火棒が二本落ちていた。前の来訪者が湿気ていたために捨てたようだが、頑張ってこすればまだ使えそうだ。

 少女は松明たいまつを得るべく発火棒を地面に押し当て、何往復もこすりつけた。


「ああ、もう!」


 発火棒がなかなか着火しない。少女は根気よく棒を地面にこすりつづけ、そうして十分くらい格闘したすえに、ようやく遺跡内をか細い灯火で照らすことに成功した。


「はぁ……」


 少女は遺跡を進んだ。暗がりにかがり火一つというのは心もとなく、心細い。それでも少女は進んだ。

 ハリグマの生態はあまり知られていない。もし視覚だけのイーターならもう十分感知されない場所まで来ているはずだが、もし嗅覚の優れたイーターならもっと遠ざかる必要があるだろう。

 あわよくば、裏口のような場所から脱出できれば最高だ。


「ん?」


 少女は何かを踏んだ気がした。床の一部が少し浮いていたようだが、体重をかけて押し込めば、ほかの床と同じ高さまで沈み込んだ。


 刹那、鈍い銀色の光が頭上を横切った。少女は背が低い方だったが、もし成人男性並みの身長があったなら首を跳ねられていた。


「トラップ!?」


 軽い絶望に襲われたが、少女は首を振って、言葉になる直前で弱音を散らした。

 心が折れたら生きては帰れない。強く気を持って、少女は慎重に進むことにした。


 暗い通路を心もとない灯火を頼りに少しずつ歩く。床、壁、天井を照らし、罠の起動装置がないか確認しながらゆっくりと進んでいく。

 ときどき通路をビューッと強めの風が吹く。心細くなって自然と脚の動きが早くなる。


 カチッ。


 何か踏んだ。急いだせいで床のスイッチを見落としてしまったようだ。

 少女はとっさに後ろに飛び退いた。何が起こるかは分からないが、何もしないよりはマシと考え、勘で後ろに飛び退いたのだ。


 その瞬間、天井の穴から大量の水が落ちてきた。水が松明の火を消し、そのまま松明もさらった。

 水は床の石タイルの隙間に染み込んで松明は足元に残ったが、もう使える状態ではなかった。

 幸いなことに発火棒はもう一本持っている。少女は壁を触り、濡れていないことを確認して発火棒をすった。


 今度はさっきより簡単に着火することができた。単純に慣れの問題かもしれない。

 この松明を失えば、遺跡内は完全な闇となり身動きがとれなくなる。これだけは失くすわけにはいかない。


 しばらく歩いているうちに、暗闇の中の細い通路を一人で進むという恐怖に少し、ほんの少しだけ慣れてきていた。

 そんなときだった。


「きゃっ!」


 鼻に来る臭いとともに、少女は松明で照らす先にとんでもないものを見つけてしまった。心臓を鷲掴わしづかみにされ引き千切られる思いで観察する。

 足元に人骨があったのだ。それも一つや二つではない。足場が人骨で埋め尽くされていた。中には腐りかけで肉が残っているものもある。

 これはきっと罠を踏んだ人たちに違いない。とてつもなく殺傷力の高い罠が隠れている。

 しかし、この人骨の山をかき分けて床のスイッチを探さなければならないのか。それは年端としはもいかない少女には酷なことだった。


「ごめんなさい……」


 命には代えられない。さすがに手で触る勇気はなかったので、足でそっと頭骨を手前に転がしてみる。

 だが、道は人骨で埋め尽くされているのだ。こんなやり方ではいつまで経っても前に進めない。


「ああ、もう!」


 その少女の叫びは、半分は苛立ちで、もう半分は自分を鼓舞するためのものだった。

 だがそのとき、遠くで不気味な物音がした。岩が落ちたような、巨大な何かが重い何かに挟まったような、そんな音が少女の不安を駆り立てた。


「え、ちょっと……」


 床が競り上がっている。速くはないが遅くもない。このままいけば、十秒くらいで床が天井に到達して押し潰される。

 前方の人骨たちはみんなこのトラップで圧死した者たちだ。急いで後退しなければ。

 そう思って後ろを向くと、来た道も一様に競り上がっている。こうなったら前に進むしかない。

 少女は焦った。すぐさま駆け出そうとして、先ほど手前に転がした頭骨を踏み、尻餅をついた。


 もうまともに走れる高さが残っていない。天井が迫ってきて、もはや起き上がることもできない。

 少女は死を覚悟した。仰向けになり、天井が眼前に迫るのをただ見つめることしかできない。


 ガリガリガリ。


 天井の接近は止まった。

 どうやら骸骨がいこつたちが挟まって床の上昇を妨げている。

 やがて骨たちのきしむ音はやんだ。

 少女は悟った。床の上昇圧力はそんなに高くはない。もし骨すら砕く力で押し上げられるのなら、頭骨が綺麗な形を保っているはずがないのだ。

 少女は先人たちのしかばねによって生かされた。もしも強引に前へと走っていたら死んでいただろう。それも人骨で串刺しになっていたかもしれない。


 少女は下がりはじめた床を、人骨の上を走った。


「ごめんなさい。ごめんなさい」


 床が下がりきったら、また上がってくるかもしれない。人骨に足を取られつつ、少女は走った。

 一度下がった床はもう上がらなかったが、人骨の道は床が下がりきった後も少し続いた。


 ようやく人骨通路を抜けた先は広大な空間が待っていた。前も右も左も上も、そして下も、松明で照らしても壁が見えない。

 足場が途切れている。行き止まりだった。

 引き返すしかない。

 ドロドロの絶望が体内を血流に乗って巡っているようだ。心が重くなって、体も重くなった。

 生きて戻れる気がしない。


 途方に暮れている少女の肩に何かが触れた。

 ビクッとして振り向くと、後方の壁からウネウネとツルが伸びてきていた。

 見たことのない植物。

 ツルは少女の肩に巻きついた。そしてひっぱる。

 これは植物型のイーターだ。

 少女は松明の炎をツルに押し当て、焼き切った。

 もはやツルに巻き取られて死ぬか、広大な空間に身を投げて死ぬか、どちらかしかない。


 ツルは執拗しつように少女へと伸びてくる。二本、三本、四、五、六とどんどん増えている。

 少女は松明を振りながら後退あとずさりするが、後ろはもう足場がない。

 ツルに絡めとられた後は何をされるか分からない。溶解液でじわじわと生きたまま溶かされるかもしれない。胞子を体内に埋め込まれるかもしれない。恐ろしい未来しか見えない。


 少女は意を決した。


 死に方を選んだ。


 少女は暗闇の中へと身を投じた。


 仰向けに落下する少女の背中に強い衝撃が走る。けっこうな高さだったはずだが、死ななかった。

 何かが自分の体を包み込み、ゴボゴボゴボと音がする。暗闇の下は池だった。

 松明の炎が消えたが、代わりに何かががパッと明るく光った。鉱石か何かだろうか。水の底が青白い光を放っている。

 その光のおかげで空間の状況が少し分かった。

 この空間には陸地がない。代わりに、水中の壁に穴があり、抜け道がある。どれくらいもぐっている必要があるかは分からないが、ここを進む以外の選択肢はない。

 少女は泳げるが、このまま浮きつづけていると泳ぐ体力も尽きると思い、すぐに潜水を開始した。


 体力を使わないようできるだけ激しい動きを避け、しかし急いで進む。

 壁の穴を抜けた先も水中路は光っていた。先の方は少し暗くなっている。しかし光が消えているわけではない。おそらくそこが水中路の終わりだ。そこまで行かなければ呼吸ができない。


「ん?」


 何かが足に触れた。

 少女は足の方を見て、驚きのあまり口に溜めていた空気をすべて吐き出してしまった。

 水中路の壁から緑色に発光するツルが少女を捕らえようと四方から伸びてきていた。

 少女は慌てて手と足をバタつかせる。しかし足首がツルに捕まってしまった。


「んんんんっ! んんんんっ!」


 一所懸命に水をかくが、かいてもかいても前に進まない。むしろ後方へと引きずり戻される。

 少女は気が遠くなりはじめていた。今度こそ終わりかもしれない。いや、終わりだ……。


「ガンバッテ。モウスコシ」


 遠退く意識の中で、声が聞こえた。片言のしゃべり方。

 その声による振動か、水が震えて足首のツルが解けた。

 少女は目を閉じ、残された力をすべて手と足に込めて、前へ前へと泳いだ。

 もう少し、もう少しと唱えながら、少女の意識は途絶えたのだった。

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