第171話 理由

 一時間ほど待った。陽は落ちかけている。


 エアの体内に入れた空気のリンクだけは残し、彼女を縛る空気はもうない。黒いオーラもすべて引いてしまった。


 エアは断続的に泣きつづけた。泣いて、沈黙して、また泣いて、というのを小一時間も繰り返すと、さすがに疲れたようで、もう泣かなくなった。


 だが、今度はエアの体が震えだした。顔も蒼い。地肌の白さや、一張羅が白のワンピースであることも相まって、いまのエアを夜中に見たら幽霊だと信じるだろう。


「話してくれよ。ほかの人に話すなって言うなら誰にもしゃべらない。俺に相談すれば、案外あっけなく解決するかもしれないだろ」


 そういった俺の言葉にエアが反応するまで五分ほどかかった。

 そこでようやく、エアは俺たちを殺そうとした理由を話してくれた。


「私はエストやほかのみんなに対して恨みや憎しみがあって殺そうとしたわけじゃない。むしろ私が大切な存在だと思う人たちだからこそ、救うために殺そうとした」


「なぜ殺すことが救うことになるんだ?」


 エアの呼吸が荒い。それはまるで、ひと言を発するだけでもかなり精神を消耗しているかのようだ。

 だがそれも無理からぬことだと俺は知る。


「私がエストたちを殺そうとしたのは、エストたちが《そのとき》を迎えないためなの。《その刻》は刻々と近づいてきていて、もうそう遠くないところまで来ている」


「《その刻》とは?」


 エアの説明が少しずつ具体的になるにつれ、彼女の呼吸もより荒くなっていく。

 それは恐怖だろうか。おそらくそうだ。

 彼女の様子を見て、俺はうっすらと理由を察した。


「紅い狂気の覚醒かくせい。私たちがこの話をするだけでも、《その刻》はより近づいてしまう」


 彼女が紅い狂気と呼んだそれを、俺は知っている。

 この世界において、その存在を知る者はごく一部だけだ。


 俺はかつて、精霊エアを介して神らしき存在から忠告を受けた。俺の中に紅い狂気が寄生しており、それを育てるような行動をしてはならないと。

 ときおり、その紅い狂気は俺に存在を知らしめてきた。リーン・リッヒとの戦闘中にも声をかけてきた。

 紅い狂気と会話するだけでも精神がごっそりと削られる。

 紅い狂気が俺の中に寄生している仕組みはよく分からなかったが、とにかく忌々いまいましい存在であり、邪魔な存在だった。


 だが、紅い狂気は俺の中から去った。俺は紅い狂気に見限られた。

 俺がシャイルの故郷を焼いたとき、紅い狂気は俺の中からシャイルへと移った。シャイルに移った紅い狂気は俺の中にいたころとは違い、完全にシャイルを乗っ取ったようだった。

 一つの体に二つの魂。ときおり、紅い狂気が表に出てきてそれを知らしめるかのように、シャイルの目が赤く染まることがあった。

 そして俺を嘲笑あざわらうのだ。


 俺はシャイルの心を過去から解放してやろうとしていたが、悪化して取り返しのつかない状況になってしまった。

 彼女を救える気がしない。

 だがこれは俺の責任だ。俺はシャイルを救わなければならない。


 そしていま、俺が救わなければならないものが増えた。

 エアだ。

 そして世界だ。

 エアとシャイルを救うことは、世界を救うことと同じことだ。


「理由は納得した。だが死ぬつもりはない。エア、紅い狂気は俺が倒す」


「馬鹿なことを言わないで! エスト、あなたがそんなことを簡単に言えるような愚か者だとは思わなかったわ!」


 簡単なわけがない。簡単ではないが言ったのだ、俺は。

 言うだけでも精神を消耗する。紅い狂気はここにはいないはずなのに、そういう言葉を口にするだけで、果てしないプレッシャーがのしかかり、途方もない疲労感に見舞われる。赤々と燃える夕日が彼女を連想させるせいかもしれない。


「俺を愚かだと断じるのは早計だ。俺は、やってみなくちゃ分からない、なんて愚か者の台詞せりふは吐かないぞ。ありふれた物語の安っぽい主人公と一緒にするな。俺は戦う前にしっかり敵の戦力分析をして、きっちり対策を立て、入念に勝つ算段をつけ、確実に勝つ!」


 エアは一瞬沈黙したが、うつむいて首を横に振った。俺の言葉は彼女にはやはり勢いだけに聞こえるようだ。


「アレは規格外だとか、次元が違うとか、そんな優しいものじゃない。ことわりから隔絶された存在。言ったことなかったけれど、私はあなたより多く彼女の狂気に触れているのよ。いつだったか、彼女は凄絶で凄惨な所業を終えた後、私に笑いかけてきたの。空気と同化して存在を察知できるはずがない私によ。感情がほとんどない精霊のころですら、すさまじい恐怖を覚えたわ。もしあれが人成して感情を得た後だったら、私は間違いなく発狂していた。ただの記憶ですら、こんなにも鮮烈なのだから」


 俺はアレと対話したときに圧倒的なプレッシャーと恐怖を感じ、懸命にこらえた。だが、それは紅い爪をちらつかされたにすぎなかった。

 そう、ただ対話をしただけなのだ。

 対して、エアは紅い爪が振り下ろされる光景をの当たりにしている。エアの抱いた恐怖や絶望が俺の比じゃないことは明白だ。


 空気の精霊であるエアは、紅い狂気の活動、その動向を把握していた。

 エアは苦しみながらも彼女が見たものを話してくれた。

 監獄ザメインでキナイ組合長の様子を確認しようとしたとき、神が俺を止めたために俺は踏み込まなかったが、俺がそのときに目撃せずに済んだ光景をエアは知っていた。ほかにも、共和国でシロとミドリが受けた仕打ちも知っていた。

 ほかにもあるようだ。

 そのどれをとっても、俺はいままで知らなかった。エアが聞かせてくれて、いま知ることができた。

 エアがそれを話すことで苦しむのは忍びなかったが、どうしても聞く必要があった。


「紅い狂気の目的は分かるのか?」


「目的なんて、たぶんない。私たちが呼吸するのと同じように彼女は狂気を振りき、私たちが食事するのと同じように彼女は狂気をむさぼる。狂気こそが彼女の性質であり、嗜好しこうなのよ」


「なるほどな。狂気は生活の一部みたいなもので、ただし狂気がなければ生きていけないわけでもない、というところがなんともゲスいな」


 紅い狂気のこれまでの行為が、ほんのたわむれであることもエアは知っていた。

 紅い狂気は人から死を奪って永遠の地獄を与えてしまう。

 だから、紅い狂気により世界が地獄にされる前に、ほかの人間、動物をすべて殺して救おうと考えたのだった。

 殺すにあたり、エアはできるだけ人から恨まれるように振舞った。

 それは俺の感情から裏切りや不信の辛さを学び取っていたからだ。だからお互いにためらいなく戦って殺せるように、憎まれ口を叩いたのだ。


「エア、約束する。必ず守ってやる。俺はどんなに強い相手にだって勝つ。おまえにだって勝っただろ? これが証明だ!」


「それは無意味な約束よ。私はその約束を信じるかどうかの状況にはない。私は敗北して、あなたに世界をゆだねるしかなくなったのだから」


「エア……」


 俺の決意に対する返答は、凍傷になりそうなほど冷たいものだった。

 だがその反面、エアの顔色は生気を取り戻していた。岩石ばりに強張っていた表情も、いまでは流木くらいには柔らかい。


「でも、気は軽くなったわ。私が背負っていたものをあなたが奪い取ってくれたから」


 エアの対面に座っていた俺は、立ち上がって彼女に近づいた。

 彼女も立ち上がって、俺を見上げた。


 俺にはエアに言いたいことがあった。俺はそれを伝えるために、わざわざ魔導師の記憶を消してまでエアに挑んだのだ。

 エアを超えて最強になるという目的はおまけだった。

 エアから世界を救うというのは、さらにそのおまけだった。


「エア、俺はな……」


「極刑でしょ? 本気の殺意は絶対に許さない、だっけ? 私は本気であなたを殺そうとした。覚悟はできているわ」


 そう言ったエアの表情にうれいはなかった。いたって穏やか。狂気からの解放は、死すら幸福にするのだろう。


「いや……。殺さないよ」


「紅い狂気の打倒に私を利用した後に殺すの? それならそれで協力する。その覚悟もできている」


 エアは白いワンピースのすそを両手でギュッと握り締め、俺を見つめる。


「違う。俺はおまえを殺さない。紅い狂気とは一緒に戦ってもらうが、その後にも殺したりしないさ。なあ、エア。俺はおまえに伝えたいことがあって挑んだんだ」


「伝えたいこと?」


 俺は一度、深呼吸を挟んだ。

 気恥ずかしくて視線を逸らしたくなるが、俺はエアの瞳を直視して心を言葉に変えた。


「エア、俺ともう一度、パートナーになってくれないか?」


 俺は覚悟した。紅い狂気に対する覚悟に比べれば軽いものかもしれない。

 だが、この覚悟も十分に重いものだ。勝算も自信もない。そう、玉砕覚悟という奴だ。

 こういうことに関しては圧倒的に経験不足で未熟なのだ。


 対するエアは、どうも真意を理解していないようで、小首をかしげ、キョトンとした。


「私はもう精霊じゃないから契約はできない。魔導師が魔術師の能力を得る方法はない。それに、エストはもう新しい精霊と契約して別の魔法を得ることもできない」


 気恥ずかしくて表現が遠回りになりすぎた。プライドが高すぎるのも俺の弱点だ。

 弱点は克服しなければならない。


「そうじゃねえんだよ。俺は強い奴にしか興味がないって言っただろ? おまえは一度でも俺に勝った。俺にとっては魔導師になって初めての敗北だった。だから、俺は、おまえにれたんだよ! べつに嫌なら断ってくれてもいい。俺が誰かに好かれるなどとは思っていない。断ったからっておまえを極刑に処したりもしない。だから返事をくれ。エア、俺の人生のパートナーになってくれないか?」


「それはつまり、愛の告白ってこと?」


 エアは少し目を丸くしたが、表情はほぼ変わっていない。


「……ああ、そうだ」


 俺は一瞬だけ目を逸らしてしまったが、心に鞭を打って再びエアの目を見た。

 少しの沈黙の後、エアは口を開いた。


「エスト、私はあなたを選んだことを後悔していない。でも、あなたから学んだ感情にはかたよりがあった。私には愛という感情がいまいち分からない」


「……そうか」


 それは自業自得というものだ。いや、俺が悪いわけでもなく、仕方のないことだ。

 エアが愛という感情を知っていたのなら、俺は先にほかの誰かを好きになっていたということなのだから。

 しかし、エアの返事はそれで終わりではなかった。

 肩を落とす俺に、エアが言葉を続けた。


「だから、もう一度パートナーになる。精霊のときと同じように契約して、あなたの隣でその感情を学ぶ。精霊のときみたいに感情を食べることはできないけれど、人の知能と感情を得たいまなら、それを学び取ることはできる。愛の告白の返事は、その後でもいい?」


「……ああ、構わないさ」


 今後の俺しだい、ということか。

 俺がエアの言葉を噛み締めていると、エアが不意に俺の唇に自分の唇をくっつけた。

 油断していた俺は目を丸くしたが、そのときにはすでにエアの顔は離れており、エアはニコリと微笑ほほえんだ。


「契約成立だね」


 おかしな話だが、それは三回目にして初めてのエアとのキスだった。

 いや、ただの契約と考えればキスではないのかもしれないが、精霊だったころとは違い、明確な唇の感触と体温があった。

 俺はこの瞬間をとうといと感じたが、まだエアと恋人になったわけではない。


「ああ……。今度も絶対に後悔させねえよ」

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