第172話 謝罪
シミアン王国の西端の宿で一泊してから、エアとともに空を飛んで公地へ戻った。
俺はまず、自分の記憶を教頭先生に戻してもらった。
その後にいまのエアを紹介し、教頭先生と、魔導学院の生徒会長であるレイジー・デントに話の場を設けてもらった。
俺とエアは紅い狂気の存在と、エアの殺意の真相を話した。
遅めの昼食後、リオン帝国にも足を運び、皇帝のリーン・リッヒにも同じようにエアと紅い狂気の話をした。
エアは終始しおらしくしていたが、エアを
リーン・リッヒは帝国内に、レイジー・デントは学院内に、俺の脅しも含めて情報を伝達した。
紅い狂気と戦うにあたり、盲目のゲンの協力は必須だ。盲目のゲンに対しても紅い狂気の話をした。
エアの暴挙については触れなかった。エアは護神中立国とシミアン王国に対しては手を出していないし交流もないため、俺に説明責任はないと思っている。
だから紅い狂気のことだけを話して聞かせた。
盲目のゲンと話しているとき、テクテクと小さい子供がやってきて話に割って入った。
性別が分からないが少年のようだった。白衣を着ていたが、彼が口を開いて初めて正体が分かった。
その子供はドクター・シータの分裂体だった。
「ドクター・シータ、ずいぶんと早い復活だな。盲目のゲン、こいつはイーターだ。上からくるぞ、気をつけろ」
俺の注意喚起に盲目のゲンは身構える。ドクター・シータという名前からいろいろ察したのだろう。
強者であろうと、正常な人間ならマッドサイエンティストを警戒しないわけがない。
「ゲス・エスト、貴様が私を探さないから、私のほうから探してやったぞ。興味深い話をしているようだが、私にも助力を仰ぎたまえよ。戦力分析にこの私の偉大な力を組み込まないのは、あまりにも愚かなことだ」
背が低くて視点が低いなりに、上体を反らしてふんぞり返った姿勢を見せつける。
俺に負けたくせに、ずいぶんと上から目線の高圧的な態度で助力を進言してきたものだ。
「ほらな、上からきた」
「上からとはそういう意味か」
「ああ、そういう意味だ。こいつはいまや最強のイーターになったが、俺には負けた。だから上からくるのは態度だけで、もう手は出してこないだろう」
俺に負けたと言われ、
さすがに俺より年季は入っているらしく、ドクター・シータはプライドを誇示しないほうが傷は浅いことを知っていた。
「ゲス・エスト。貴様、エアに勝ったらしいな。私は負けてもなお、貴様を見くびっていたようだ。しかし、その貴様が協力を仰ぐほどの敵が存在するというのは冗談としか思えないな。こんなことを言うとハードルが上がりすぎるか?」
「いや、ぜんぜん足りないくらいだ。敵に脅威や刺激を求めるなら、そこは心配しなくていい。むしろ、もっと己の命運を心配したほうがいいぞ」
正直な話、もともと俺はドクター・シータにも協力を仰ぐつもりでいた。そこへ向こうから申し出てきてくれたので手間が省けた。
俺は盲目のゲンとドクター・シータに協力の
次に俺が向かったのは魔導学院の寮、
キーラ、リーズ、マーリンの三人はレイジー・デントからすでに説明を受けているかもしれないが、エアとの親交がある者として直接話をしておきたかった。
紅い狂気が
小卓を挟み、俺とエアがキーラとリーズに対面している。マーリンは俺の右位置、キーラにとっては左位置の席に座っている。
「エアのことは生徒会長から聞いたわよ。紅い狂気のこともね」
窓からは赤い陽が差し込み、俺たちの顔を焼いた。
エアは伏し目がちになるが、しかし顔を逸らさず二人に向き合った。
「キーラ、リーズ。私は自分のおこないを間違っていたとは思っていないし、後悔もしていない。でも、あなたたちの気が治まらないだろうから謝るわ。ごめんなさい」
エアは頭を下げた。小卓に
頭を上げると、こんどはマーリンの方に体の向きを変えた。
「マーリン、直接あなたを攻撃することはなかったけれど、私はあなたのことも殺すつもりだったわ。ごめんね」
マーリンはぶんぶんと首を横に振ってひと言だけ返した。
「平気」
マーリンの表情は柔らかい。エアはマーリンには許された。
だがエアはまだ胸を
先に口を開いたのはキーラだった。
「まずは人成おめでとう、と言っておくわ」
キーラの表情も口調も祝福モードではない。空気が重い。
俺もエアもキーラが言葉を続けるのを待った。
「あなたがあたしたちを襲ったのが、あたしたちのためだということは聞いているわ。そういうことなら許してあげる。相談してほしかったっていうのはあるけれどね。でもまあ、この先エストのことを恨むことになったとしても、あなたを恨むことはないと思うわ」
キーラの表情は硬い。感情的には怒っているが、理性で許したという感じだろうか。キーラらしいといえる。キーラは頑固者のくせに物分かりがいいのだ。
エアの視線はキーラの横へ移り、リーズの口元に注がれる。
リーズは一つ咳払いをしてから答えた。
「わたくしも許しますわ。相談をしてほしかったという気持ちも同じですけれど、水臭い、なんて言える状況ではないことも承知していますの。だから、わたくしからはエアさんを責めることは何もありません。エアさんの行動はみんなに十分な危機感を抱かせる結果となって、むしろよかったとさえ言えるかもしれませんわね」
リーズはわずかに
特に親しかった三人から許しを得られて、ようやくエアは肩の力を抜いた。
「みんな、ありがとう。私は紅い狂気と戦う。だから、私は魔術を使いこなす訓練をするわ」
そうだ。いまの俺たちでは紅い狂気には歯が立たないだろう。
戦わなくても分かる。存在を感じるだけでプレッシャーに押し潰されそうになるのだ。長い時間をかけて決意を極限まで高め、精神力を強くする必要がある。
そして、紅い狂気の戦闘力はあまりにも未知数ゆえ、戦闘技術のほうもやれる限りのことをして磨き上げなければならない。
俺も細剣ムニキスを使いこなすために、ルーレ・リッヒあたりに剣の
それから、魔法を使う技術ももっと鍛錬を積み、魔導師として修行を重ねなければならない。
俺は脳内でやるべきことをリストアップし、優先順位をつけ、未来を設計していく。
そんな俺を尻目に、エアはなおも決意を表明する。
「エストは世界や私のことを守るって言ってくれたけれど、私が甘えてしまったら紅い狂気には絶対に勝てない。だから……」
「え、ちょっと待って!」
エアの言葉の途中で、キーラの手のひらが小卓を叩いた。
「キーラ、どうしたの?」
キーラの
何を怒っているのか、何がひっかかったのか、俺には皆目見当もつかない。
「エストが『守る』なんて言ったの? 高慢ちきのエストが
「ずいぶんな言い様だな。俺は比較的、世界の平和を守ってきたほうだと思うが、それを口にしただけだぞ」
キーラは俺をプライドモンスターだと思っているのか。
実際、そういう一面も否定はできないが、俺はプライドにがんじがらめに縛られてはいない。
「世界はともかく、エアのことよ! 個人に対して面と向かって守るなんて、あのエストが、このエストが言うはずないじゃない!」
「言ったわよ。エストは私に愛の告白をしたの」
「おい!」
会話が突如、激流と化した。さっきの真面目は話以上に多くの言葉と思惑を引き込みながら流れていく。
きっと俺の顔はキーラ以上に赤くなっているだろう。俺は思わずエアの肩を掴んだ。
「エア! わざわざ言う必要ないだろ」
「私に
「そんなこと言ってねーよ。俺が人に惚れたなんて知られるのが恥ずかしいんだよ!」
「でもこれはエストのためでもあるんだよ。複数の相手から好意を寄せられて困らないように予防線を張ったの」
俺のせいで色恋沙汰に
言葉に詰まり、視線をひとしきり泳がせたキーラは、姿勢を正す、茶をすする、咳払いするの三コンボを決めてから、エアにひきつった笑顔を向けた。
「へ、へえ……。あ、エア、けっこう綺麗な髪をしているのね。でもあたしの髪もなかなかでしょ? あ、この髪飾りが気になる? これエストがあたしにプレゼントしてくれたんだよ。そうだよね、エスト?」
キーラはエアに対し、自分の頭に乗っているプリムラの髪飾りをこれ見よがしに見せつけた。
「まあな」
キーラの張り合いに付き合う必要はないと思いつつも、ここで突き放すと後悔すると直感した。
俺は興味がない素振りを見せつつ、キーラのこともエアのことも、肯定も否定もしないよう気を遣った。
「かなり高かったんだよね、これ。ねえ、エスト?」
「ああ、まあな。あ、そういえばおまえ、俺が買ってやるって言ったときに『ぎょえええええ』とか言っていたよな?」
「言ってない!」
エアがクスリと笑った。釣られたか、マーリンもふふっと笑った。
プリムラの髪飾りはたしかに高額だった。たしか七万モネイもした。
花の形にカットされた大きなエメラルドに、花につながる
そこで一つの咳払いを挟み込んできたのはリーズだった。
「わたくしはエストさんからは、ローグ学園の暴漢に襲われていたところを助けていただきましたわ!」
なんとリーズまで張り合いに参加してきた。
だが、この二人を相手に張り合うのは彼女には荷が重い。
「私だって、ムカデ型の巨大イーターに襲われていたところを助けてもらったわ。あれはエストがまだ学院に入る前じゃなかったかしら」
キーラが張り合い、そしてエアが続く。
「私は世界最強のイーターと化したドクター・シータに捕まっていたところを命がけで助け出してもらったわ。多くの人の反対を押し切ってね。知っていると思うけど。あ、それと私の髪飾りもエストからもらったものよ」
リーズの表情はいっそう強張り、キーラの顔もひきつった。
なんだこれ。紅い狂気の話より空気が重いじゃねーか。
「私も助けてもらった。エスト大好き」
その純真無垢な幼い声。カラカラの砂漠に湧き出たオアシスのようにこの重たい空間を
「マーリン、俺も大好きだぞ」
俺がマーリンの頭を撫でていると、ほかの三人の表情も諦めたように緊張を緩めたのだった。
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