第25話 イルの回想③

 あれから一時間ほど歩いたが、いまだにイーターは現れない。


「まあ、こんな日もあるんじゃない?」


 飽きっぽいシトーが、いつもの病気を発症しかけていた。もうじき「帰りたい。帰ろうよ」というつぶやきが止まらなくなる。


「仕方ない。帰るかー」


 スケアは貧乏揺すり代わりに鎌で地面や木を軽く叩きまくっている。明らかに不機嫌だが、シトーが駄々っ子モードに突入すると面倒なのであきらめたようだ。


 やっと帰れる。そのことを内心でいちばん喜んでいるのは間違いなく私だった。

 しかし、希望というものが水晶玉の姿をしているとしたら、私のそれは中が空洞のガラス球でしかなかった。少し転がっただけで、いともたやすく砕け散る。


「出た!」


 それはサズの声だった。いつもの無感情なものではなかった。

 イーターとの邂逅かいこうは皆の念願だったが、サズの声は喜んではいなかった。その逆、絶望のにじむ緊張の声だった。


「なに……これ……」


 想定していたものとはかけ離れた存在が、そこにはあった。

 それは芋虫型の巨大イーターだった。森の木々の高さくらいの太さを持つ胴体、円形の口の内側を無数に埋め尽くす黒光りする牙、その牙から幾筋も垂れているドロドロの粘液。胴体の黄色に映える毒々しい紫色のイボ。


 どう考えても魔導師でない自分たちが勝てる相手ではなかった。


「逃げるよ!」


 スケアの号令と同時に、私たち四人はいっせいに走りだした。

 芋虫型イーターの動きは遅かった。

 ただし、あくまでその巨体にしてはの話だ。巨大生物のわずかな前進は、小さな人間にとっては大きな前進だ。私たちの全力疾走とほぼ同じか、それよりも少し速いくらいのスピードで迫ってくる。

 湿った土と這いまわる木の根のせいで、走るにはあまりにも足場が悪い。それがいっそう焦らせる。


「わっ!」


 サズがこけた。出っ張った木の根を飛び越えた先で、U字形にぶら下がっていたツルに足をとられたようだ。


「サズ、大丈夫? 早く逃げないと!」


 シトーがサズを立ち上がらせようと腕を引く。サズは立ち上がろうとするが、体が持ち上がるより先に顔がゆがむ。


「痛ッ! ごめん。足をくじいたみたい……」


「嘘でしょ! ああ、どうしよう。どうしよう!」


 シトーがサズの腕を掴んで辺りをキョロキョロとする。数秒の間そうした後、ふと首の動きが止まった。彼女の視線の先には巨大イーターが目前に迫っていた。


「サズ、ごめんね。ほんと、ごめんね」


 シトーはサズの腕を離し、背を向け、駆け出した。サズを見捨てて逃げだしたのだ。


「おい、シトー、なにやってんだ! サズを連れてこいよ!」


 わき目も振らず横を走り去ろうとしたシトーの腕を、スケアがガッシリと掴んだ。

 強引に引きとめられてスケアに振り向いたシトーの顔は、スケアが驚嘆しおののくほどに醜悪しゅうあくに歪んでいた。

 スケアがすぐにシトーの腕を離したのは、そうしなければ殺されると直感したからだろう。


「かまわない。逃げろ」


 サズが声を張る。

 サズにはすでに巨大イーターの影が覆いかぶさっている。


 私は走った。シトーとは逆の方向に。サズのいる方向に。イーターのいる方向に。


 助けなきゃ、と思った。命がけでも助けなきゃと思った。


 サズはスケアやシトーなんかとは違う。人格者だ。彼女には人間としての価値がある。彼女が見殺しにされてはならない。

 そんな大そうな言い訳を先に考えてしまう私は、我ながら度し難いと思った。

 本当の理由は何か? シトーやスケアのようなみにくい人間と同じでいたくなかったから? それも違う。本当は、本当の理由は、スケアやシトーの脅威から私を守ってほしくてサズを失いたくなかっただけかもしれない。いや、それがすべてに違いなかった。


「サズ! 私が助けるから!」


 私はサズの腕を自分の肩に回し、彼女の体を引き上げた。普段からスケアたちに荷物を持たされているおかげで、力は人並み以上には自信があった。


「私に構わなくていい。イルも逃げな……」


 目の奥が熱くなる。胸が痛い。

 不純な動機をかなぐりすてて、彼女だけは本気で助けようと決めた。

 私がサズを離さないから、彼女も私のために懸命に脚を動かしてくれている。


「スケア!」


 スケアが私たちの元へ駆けてくる。

 横暴で傍若な彼女でも、活路が見えたことでさすがに手を貸しに来てくれたようだ。


 スケアが私とサズの前に立ち、サズの腕を掴む。

 次の瞬間、私は胸に強い衝撃を受けて転げた。

 何が起きたのか分からず、私は地に腹を着けたまま顔を上げ、顔に張りついていた木の葉を払い落とした。そこにはサズの腕を引くスケアがいて、そして私を冷たく見下ろすスケアがいた。


「違うだろ。おまえはおとりになれよ。おまえが囮になったほうが、あたしらが全員助かる確率が高いだろうが」


「囮? 全員? 何を……言っているの?」


 自分で歩けと言わんばかりにスケアはサズの背を押した。

 代わりにシトーが戻ってきてサズに肩を貸した。シトーはさっきの自分の行為をすっかり忘れてしまったかのように、気後きおくれした様子など微塵みじんも見せなかった。

 スケアは再び害虫を見るような目で私を見下ろした。


「おまえ、馬鹿かよ。何のためにいままで仲良くしてやったと思ってんの? ほんと気が利かねーなぁ! 食われてでも時間を稼げよ。てか、あたしらのために食われろよな」


 どうやらそれが私の存在価値だったらしい。

 私はスケアの言う全員には含まれていなかった。これが自分をだましつづけてきたツケというやつなのだろう。

 返す言葉が見つからない。


 今日何度目になるのか、私は再び涙を流した。

 静かに立ち上がり、スケアに背を向けた。正面には巨大なイーターの口がある。無数の牙が私をいざなっている。

 私は一歩、前に踏み出した。巨大イーターの方へと、一歩だけ近づいた。

 私はうつむいた。怖くてイーターの方を見られない。後方でサズを助けようと息を合わせる声が聞こえる。

 涙が止まらない。それどころか、涙は勢いが増してゆく。

 この世界では、私に生きる価値はない。サズが助かるのなら、これでいいのかもしれない。

 もはや恐ろしくて泣いているのか、悔しくて泣いているのか、それすらも分からなくなっていた。


 うつむいていても視界に入るほどに、イーターは肉薄していた。


 ――そのときだった。


 聞き慣れない声がした。

 木管楽器のような綺麗な声が、誰かに罵声を浴びせた。


「おまえが食われろよ」


 振り向くと、そこにはブロンドの少女がスケアの背後に立っているのが見えた。ブロンドの少女がスケアの首筋に指を這わせ、スケアがブルブルっと大きく震えて倒れこんだ。


「おまえは……ハーティ!」


「お久しぶり、スケアさん」


 ハーティと呼ばれた少女がスケアのえりを掴み、引きずり、私の方へと近づいてくる。そして横を通りすぎた。そしてハーティは、スケアをイーターの眼前に放り投げた。


「てめー! あたしを殺す気か!」


「いいえ、ぜんぜんそんな気はないですよ。ちょっとあなたの体温を上げただけです。あたしがあなたにされたことに比べれば、だいぶ軽いでしょう? それにイーター狩りに来ているスケアさんをイーターの元へ移動してさしあげたんですよ。感謝してくださいね」


「おまえ、さっきあたしに食われろって……。ああ、もういい! そんなことよりシトー、あたしを助けろ! 食われる!」


「え、でも、もう無理かも」


 シトーは眉を八の字に傾けているが、口は少し笑っていた。それは御飯を食べ残すときに見せる軽い断念の表情だった。


「すまない。足が動かない」


 サズが目を逸らしながら告げた。


「おまえら、こんのやろォオオオオオ!」


 重度の風邪を引いたみたいにフラフラになりながら立ち上がったスケアだったが、その上半身をイーターの口が覆った。

 スケアはあっという間に飲み込まれていった。


「あ、やっべー。どうすんだ、これ」


「他人事じゃねーんだよ」


 ハーティはシトーの首筋にも触れ、シトーを失神させた。

 そしてスケアと同じように放り投げてイーターにぜんえた。

 シトーは気を失っている。イーターがスケアを胃まで送り込んだら、次はシトーを捕食するだろう。


「逃げるよ。ほら、行くよ!」


 ハーティが私の腕を引く。私は引かれるままに走った。

 だが彼女の手を振りきるように立ち止まった。私には気がかりがあった。


「おい、どうした!」


「サズが……」


 サズは支え人を失って地に手と膝を着いていた。

 自力ではまったく立てないほどに足が重傷なのだ。


「あいつもスケアの仲間だ。見捨てな。このことを喋られたら、あたしらもタダじゃ済まないんだ。あいつらはイーター狩りに森に入り、はからずも巨大イーターに遭遇して食われてしまった。それが今日の出来事よ。いいわね?」


 私はなかなか決心がつかず、サズと視線がかち合った。

 サズは何も言わなかった。逃げろとも、助けろとも言わない。

 私にはサズの考えていることが分からない。ハーティに強く腕を引かれ、私はそれを振りほどくことをしなかった。初対面の相手だから、これ以上駄々をこねたら次はきっと見捨てられるだろう。私はもう完全にハーティに身をゆだねていた。




 後日、スケア、シトー、サズの三名に関して、遺体がないまま葬儀がおこなわれた。

 ハーティの証言を皆が真実と捉えた。事故として扱われた。

 神父が「いきすぎた趣味は身を滅ぼす」という発言をしてスケアの父に殴り殺されそうになっていたことを覚えている。


 それが昨日のことであるが、いまの私はハーティと友人と呼べる程度には仲を深めていた。

 話を聞くと、ハーティもかつてスケアにさんざんひどい目に遭わされたのだという。

 あるとき、ハーティは精霊と契約して魔導師になったため、魔導学院に転校することになってスケアたちの悪夢から開放された。

 しかしハーティはどうしてもスケアのことが許せず、スケアに復讐する機を陰からずっとうかがっていたらしい。


「ねえ、イル。あんたも魔導学院に来なよ」


「でも、私、魔導師じゃないよ」


「べつに魔導師でなければ通ってはいけないってルールはないわよ。そのうち契約してくれる精霊が現れるって。魔導学院にいたほうがその確率も高いと思うし」


「うーん、それじゃあ、通ってみようかな」


「うんうん。それがいい! あたしたち、同じ苦境を乗り越えた盟友だからね!」

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