第21話 例え狡くても
「橘を嫌ってた女子生徒に聞いた。彼女に橘と俺の密会の話をしたのは君だそうだな。彼女は夜ぐっすり眠っていて、本当は何も見てないらしい。君から、橘が俺に酷く言い寄っていたときいて腹が立ったと言っていたそうだよ」
幸樹の言葉に、奏は否定せず彼を睨みつけていた。正体がバレてしまった以上、取り繕う気はないのだろう。
「君は、もしかして覚えているのかな?」
幸樹からの質問に、奏は敵意を込めた瞳を更に鋭くして彼を睨みつけた。
「ああ、あるさ。お前たちが彼女にした最低の裏切りを、今でもずっと、ずっと覚えてる」
怨嗟のような声で憎々し気に吐き出される言葉には、リリィとグレイに向ける私怨がたっぷり込められているようだった。
「それなのに、彼女は何も覚えておらず、今もお前たちを平気で傍に置いている。だから僕が、僕が彼女の目を覚まさせてあげるんだ!」
両手にもった鞄を地面に落とし、身を乗り出して声を張り上げる奏の姿は、常軌を逸していた。
紗良は自分に向けられる狂気に怯えるように後ろに一歩下がったが、ぎゅっと手を握り絞めると、それ以上後ろには下がらなかった。
「貴方が何を言っているのか私には分からないけれど、由梨さんは私の大切な友人です。これ以上、彼女への不当な嫌がらせは止めてちょうだい。それが、私のためだというなら尚のことよ」
「常葉、コイツに何を言っても無駄だ」
「でも」
「君は騙されているんだ。こいつらは君をいつか必ず裏切る!」
身を乗り出して紗良に訴える奏は、心の底からそう信じているようだった。
「何故そう言いきるの」
「僕は見てきたからさ。君がこいつらに裏切られ、見捨てられて傷つく姿を前世のこの目でしっかりと」
「前世?」
「それなのに、こいつらはあろうことか今、君の傍にのうのうと居座っている。それが何より許せなかった!」
奏は憎々し気な瞳を由梨に向けた。
奏から向けられる許さないという強い視線に、由梨の心は揺れた。
ずっと心にくすぶっている後悔の記憶を衝かれ、あの日から続く後ろめたさと罪悪感が掘り起こされる。
もし紗良が由梨や藤宮のように全てを覚えていたら、今の関係はどうなっていただろうか。後ろめたさに負けて、話しかけることすら躊躇う情けない自分の姿が想像できて、由梨は思わず自嘲した。
(狡いってことは分かってる)
何も覚えていない紗良の傍に自分がいることは、奏から見れば確かにどの面下げて、だろう。
自然と視線が下がっていく由梨だったが、視界の隅に固く握りしめられた拳を見つけて奥歯を噛み締めた。
震えを堪えるように強く握りしめられた拳は、あの日由梨が目を背けた強がりの証だ。怖くても、寂しくても、悲しくても、人前で涙を流さないために心を固く閉じ込めている小さな拳。
(卑怯でも狡くても、覚えているからこそ、きっと同じことを繰り返さないでいられる)
女子生徒から向けられる正体不明の執着に怯えながらも立ち続ける友人に向かって、由梨は一歩踏み出した。
「例えば貴方の話が本当だったとしても。今度は絶対、彼女を独りにしない」
固く震える手を優しく包み、由梨は紗良を庇うように彼女の前に立った。紗良の視界から奏を消すように向かい合い、真っすぐに紗良と視線を合わせる。
「紗良ちゃんに消えろって言われても傍にいるよ」
「それはそれで問題じゃない?」
妹を見守る姉のような瞳で微笑んだ由梨に、紗良はくすぐったそうに笑ってそっと己の拳を見た。固く握り過ぎて自分でも開き方を忘れそうだった拳は、由梨の温かな手に包まれて花の蕾が綻ぶようにそっと開いた。
傍で見守っていた幸樹には、二人に重なるかつての影もまた、共に微笑み合ったように感じられ、どこか羨ましい気持ちで瞳を細めた。
「なんで、分かってくれないんだ……」
不意に、うつむいていた奏がぶるぶると震えながら呟いた。
自分を見ない彼女の姿に、許せないという身勝手な感情が荒れ狂う。奏は幽鬼のようにゆらりと顔をあげると、微笑み合う少女たちに向かって両手を合わせて突き出した。そこにぎらりと光るカッターの刃。
「橘! 常葉!」
幸樹が鋭い声をあげ、立ちふさがるように前に立った。
由梨が紗良を庇うように抱きしめる。
「ダリア様は、僕の」
叫びながら突っ込んでくる奏に、由梨も紗良もぎゅっと目を瞑った。
しかし、ガッと鈍い音がしたと思ったら、ごろごろと何かが転がる音がした。由梨達は恐る恐る顔を上げた。
「サ、サク?」
見慣れた幼馴染の背中を見つけ、由梨はびっくりして声をあげた。
どこから現れたのか、片足を上げたポーズのまま止まっていた咲也は、由梨の声に振り返るとにぱっと向日葵が咲いたような笑みを浮かべた。そして、唖然と固まる幸樹の横をすり抜けて由梨達の元へ歩いてくる。
「由梨ちゃんも紗良ちゃんも大丈夫?」
「え、ええ」
「サクがあれ、やったの?」
由梨が指さした先には、転がったまま気を失っている奏が見て取れて、由梨はぱちぱちと瞬きした。その少し離れたところには、カッターナイフが転がっている。
「由梨ちゃん全然図書室来ないんだもん。探してたらなんか危なそうだったから、足掛けしたら大袈裟に転んじゃった」
盛大に嘯く咲也に、由梨はへぇと返すだけで精一杯だった。
構えた格好のまま驚き固まっている幸樹の目に、フローリアのオーラをまとった咲夜の行動がどう映ったのか聞きたいが、聞いたら悪い気もするなと由梨は思った。
「あ、紗良ちゃん」
ふと、抱きしめていた紗良が、安心したのかふらふらと地面に座り込んだ。
「ごめんなさい、ほっとしたらなんだか力が」
「安心して腰が抜けちゃたかな。ちょっと失礼」
「ちょっ」
力なく微笑んだ紗良を見てふむと考えた咲也が、謝罪と共に紗良に近づくと、躊躇いなくひざ下に腕を入れてひょいと持ち上げた。
所為お姫様抱っこをされた紗良は、瞬時に顔を真っ赤に染めて固まった。
「サク! そんないきなり」
「だって紗良ちゃん動けないでしょ? あのまま地面に座らせてたら服とか汚れちゃうよ」
「それはそうだけど、もっと前もって言わないと」
「ほら、早く保健室行こう」
気にせず笑う咲也に、由梨はもう何も言うまいとため息をついた。
目を凝らすと、咲也たちに重なるようにフローリアがダリアを抱えている姿が見える。
(サクに見せてもらったスチルみたい。踊ってないけど)
紗良が何か言うたびに顔を近づけて囁く咲也の姿は、傍から見れば可愛らしいカップル様に見えるのだろうが、由梨と幸樹の目にはどこか怪しげな雰囲気の二人にすら見える。
不意に咲也の推しがダリアだったことを思い出した。
「……俺はどちらに嫉妬すればいいと思う?」
「さあ?」
ぽつりと落とされた幸樹の呟きに、由梨は諦めたように肩を竦めた。
◇◇◇
「ちょっと、如月くん。もう降ろしてください」
校舎に入ってもいまだ自分を抱えている咲也に、紗良は懇願した。放課後の人気が少ないといってもまだ校舎内に残っている生徒は居る。昇降口を過ぎた辺りから集中している視線にたまらなく恥ずかしいと、紗良はいつもより焦ったようすで咲也を見上げていた。
「でも、せっかくここまできたから、保健室まで連れていくよ」
「い、いいえ。もう歩けるし、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないわ」
「大丈夫、大丈夫」
ここ数日で親交を深めた咲也だが、彼は紗良が今まで出会った人の中でもぶっちぎりで推しの強い人種だ。遠まわしな拒否など彼には絶対通じない。短い時間でもそれが分かった紗良は、親切に対して心苦しいが心を鬼にして毅然な態度で断ろうと顔を上げた。
見上げた先には、蜂蜜を溶かしたような甘い瞳があった。
「多分きついこと言って断ろうとしてるんだろうけど、僕が運びたいからダメ」
今まで見ていた可愛らしい弟の様な顔が消え、どこか艶を含んだ男の顔に、紗良の顔面温度が知らず上昇した。
「ちょっとだけ大人しくしてて」
言葉と共に額に掛かった前髪越しに柔らかな何かを感じ、紗良は声にならない悲鳴をあげた。
(こ、この人は誰!?)
人懐っこい子犬が一瞬にしてしなやかな肢体を持つ豹にでも変わった気分だ。
紗良を抱える腕はしっかりと力強く、一見細身に見えるのに揺らぐことのない体は確かな安心感さえ紗良に与えていた。
ぱくぱくと口を動かし見上げる紗良を他所に、咲也は満足げに微笑むと保健室へ向けてしっかりとした足取りで歩き出した。
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