第9話 図書室での応酬

 当時のリリィ・マンダリンにとって、グレイ王子はまさに雲の上の存在だった。

 同じ学園に在籍していたとはいえ、授業構成は現代の大学に近い体系であったため基礎科目以外は個人の選択によってさまざまだった。特に男女では必要とされる教養が違うため、時間割はわりとはっきり分かれていた。


 昼食は食堂があったが、殿下や側近たちには二階に専用のテラスがあり、王子が自ら下に降りてこない限りは他の生徒が彼らと同じ食卓につくことなどなかった。

ミーハーな生徒たちは、一階からテラス席を見上げては王子たちの会話の内容を想像して楽しんでいた。


 リリィは特に興味はなかったが、周囲から浮きたくない一心で話を合わせていた覚えがある。なかでも王子が編入生であるフローリアをテラスに招待した日は酷い騒ぎだった。表向きはいつも通りの食堂だったが、少し見渡せばそこかしこで噂話するグループがあったものだ。

 そんな浮ついた者たちを黙らせたのは、いつも彼女だけだった。


『低俗な話ばかりおやめなさい。あなた方は由緒ある学園の生徒である自覚を持ってはいないの?』


 ダリア・エヴァーグリーンは凛とした表情で背筋を真っすぐにした立ち、立ち姿だけで高位貴族として相応の迫力を持っていた。


『高貴なる方々の考えを知りたいと思うことは悪いことではないけれど、行き過ぎれば邪推として誤った噂が広がることになります』


 それは誰もが望まないことでしょう?と、噂をする生徒たちを頭から否定するのではなく、あくまで自国の王子を尊ぶものとして忠告したのだ。

 そんな彼女の姿に、ざわめいていた食堂はやがて誰もが恥じるように口を閉ざして静かになった。ダリアはその後、自身も生徒たちと同じように席について昼食をとっていた。噂のもう一人の中心人物が同じ空間にいるのだ、下手に噂を蒸し返す人もおらず、その日の昼食は静かなものになった。


 それを離れた席で見ていたリリィにとって、ダリア・エヴァーグリーンという令嬢はかつての可愛らしい妹分から、己の絶対になれない存在の象徴として強い憧れをも持つようになっていった。

 だからこそ、リリィはその後の己の弱さを死してなお悔いることとなるのだ。




「だから! どういうことか説明しなさいと言ってるの!」

「別に君に説明するような事はないよ」

「私の友人に変なことをしておいて、なんて言い方! 見損ないました」

「はっ、もともと君は私のことなど大して評価していないだろう」


 由梨は言い争う二人の声で目を覚ました。

 見慣れない天井をぼんやりと眺めながら、ここはどこだと辺りへ目を向ける。自分は椅子を並べた上に寝かされているようで、ふかふかとは言い難い学校の備品の上はあまり寝心地は良くなかった。


(なんか、紗良ちゃんの声がしたような……)


 固くなった体を起こしながら、どうしてこんなことになっているのかと頭を回す。

 薄暗い図書室の椅子に寝かされていた由梨は、あっと辺りを見渡した。


(そうだった! 生徒会長!)


 直前までの出来事を思い出して飛び起きると、傍にいた二人もびくっと体を震わせて振り返った。


「あ、え、紗良ちゃん?」

「由梨さん! 目を覚ましたのね。良かった……」


 ほっとした顔で声を掛けてくる紗良に、由梨は曖昧な笑みを浮かべた。


「どこか痛いところはない? 体調は?」

「大丈夫。紗良ちゃんはどうしたの?」

「私は図書室に忘れ物を取りに来たのよ。でも、職員室の鍵は貸出されているのに図書室の鍵は開いてないじゃない。しかたなくスペアキーを借りて開けてみたら貴方がこの人に押し倒されていて、目を疑ったわ」

「お、おしっ!?」

「誤解だよ。彼女が貧血で気を失ったから、取り敢えずそこに寝かせていただけ。大げさなだな」

「ならなんで図書室の鍵を閉めてたのよ。廊下側のカーテンまで閉めきって、その言い分を信じろっていうの?」


 厳しい紗良の叱責が飛び、会長は今にも舌打ちしそうな表情で顔を顰めた。面倒くさいと顔に書いてあるが、それが余計に紗良の機嫌を逆なでしていた。


(うわー、修羅場)


 由梨はその原因が自分であることが居た堪れない。

 色っぽい話では全くないのだが、心配してくれている友人には大変申し訳なかった。


「あ、あの、紗良ちゃん」

「大丈夫よ由梨さん、無理に会長を庇おうとしなくてもいいわ」

「あ、いや」

「貴方の貧血が本当だったとしても、図書室を閉め切って保健医にも連絡しなかったこの人の不適切な行動は言及されるべきよ」

「あ、あー……」


 その点に関しては全くもってフォロー出来ない。

 元はといえば、藤宮が由梨の逃げ場を封じて事情を吐かせようとしたことも原因であるため、由梨には何も弁解出来なかった。

 迫られたときの迫力が怖くなかったと言えば嘘になる。それくらい、藤宮会長もとい元王子様からの尋問は心臓に悪かった。


「大事にする方が悪いと判断したんだよ。彼女だって人目に晒されるのは嫌だったろう?」

「なら保健医に連絡は?」

「この場には俺と彼女しかいなかったんだ。スマホで楓に連絡したが保健医が不在だったから、ここで寝かせて様子を見ていた」

「証拠のない言い分ね」

「楓に聞くといい。君の方こそ、言いがかりに証拠はないだろう?」

「現状証拠ならたくさんあるわよ」

「だが、それを証言出来るのは君一人。ほら、結局は二人で押し問答して終わりだ」

「図書室のスペアキーを借りたわ」

「それが本当に図書室が閉まっていた証拠にはならないだろう?」

「私が嘘をついているっていうの」

「ついていない証明は出来ないだろうと言っているんだ」


 息つく暇なく繰り出される応酬に、由梨は口を挟む暇がなかった。


「彼女はなんて言っているのかな? 当事者を無視しては意味がないよ」


 口が達者な人間が言い合うとこうなるのかと、聞き手に回るだけで精一杯だった由梨は、突然話を振られて肩が跳ねた。


「どうなの、由梨さん」

「あ、えっと…藤宮会長がやってきて文集を探しを頼まれたんだけど、図書室入ってすぐに貧血で気を失ったみたいで、その後のことは何がなんだか」


 つっかえつつも前世云々を抜きにして無難に説明した由梨の言葉に、会長はほら見ろと得意気に紗良を見つめた。


「何がほら見ろよ。別に潔白が証明されたわけじゃないわよ」

「だから、何もしてないって言ってるだろう。君もしつこいな」

「貴方が不審な行動をするからでしょう。文集だって、先日私が渡したばかりじゃない。何を探しに来たって言うのよ」


 どこまでも平行線な二人の問答に、由梨はどうしようと頭を悩ませた。

 そこでふと、藤宮会長の手にあるノートが目に入る。


(あ、ああ!!)


 先ほどまで前世の名前や関係図を書き連ねていたノートが会長の手にあり、由梨は先ほどまでとは別の理由で頭を抱えた。


(見られた! もう誤魔化せないじゃない)


 あれにはばっちり前世と現世の名前をセットで書いてある

 通りで、先ほどからチラチラとこちらを見る会長の視線が痛いはずだと、由梨は納得するとともに全力で現実逃避がしたくなった。


「とにかく、彼女はこのまま保健室へ連れていきます」

「もうすぐ午後の授業が始まるよ」

「ご心配なく、彼女を休ませたらすぐに戻りますから」


 由梨が頭を抱えている間に口喧嘩は一応の決着がついたのか、由梨は紗良に手を取られ、労わるように腕を引かれた。


「荷物は後から私が届けますので、そのままにしてお帰りください」

「分かった。じゃあ図書室の鍵を返しておくよ」

「そうしてくれると助かります」


(ちょっと待って、現在進行形で私のノートを取られてるんですけど)


 しれっと由梨のノートを持ったまま見送る藤宮に、由梨は引きつった表情で振り返るも、紗良の前では下手なことは言えない。

 由梨の発言を機に再び口喧嘩が再発しても困るし、うっかりノートを見られてしまうのも困る。あれには紗良の名前も書いてあるのだ。


 そのまま紗良に連れられて保健室で横になった由梨は、心配してくれる紗良に罪悪感を持ちつつ、藤宮のことが気になってちっとも眠気はこなかった。

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