第7話 少女の後悔

 学園で知る者はほとんどいなかったが、リリィ・マンダリンとダリア・フェブリーは幼馴染だった。


 ダリアの母方の実家はマンダリン家と縁があり、幼少期のダリアは冬になると南にあるマンダリン家の領地へやってきてよく一緒に過ごしていた。

 年が同じということで、ダリアの遊び相手は専らリリィだった。


 マンダリン領は主に柑橘類を特産としている地方であり、リリィの父も領主として領地を管理しつつ己の農園も所持していた。冬になると甘い果物がたくさん実るため、リリィはダリアを連れては家の農園を案内した。農園ばかりの田舎街は、他に案内する場所がなかったとも言える。


 淑女たるものみっともない姿を見せるな、という宰相家の厳しい教育により、ダリアは人前では常に気高く美しかった。しかし、学院の誰に言っても信じないだろうが、昔のダリアはわりと意地っ張りだった。


 果樹園の案内中、ダリアの肩に毛虫が落下したことがあった。

 ダリアはびくりと肩を震わせたものの、悲鳴一つ上げずその場に留まっていたため、傍で見ていたリリィは幼心に感心した。しかし、実際は驚きのあまり硬直していて、悲鳴もあげられないほどの恐慌状態にあっただけだった。


 リリィが声を掛けても反応がなく、肩に毛虫をつけたまま固まってぷるぷると震えていたから分かった。目が合っても助けを求める言葉一つ言わない彼女に、リリィは少し心配になった。両手を強く握りしめ、涙を滲ませながらも決して零さないように目を大きく見開いて瞬きさえ堪えてる姿は、幼いながらに痛々しくも感じたのだ。


 果樹園を庭として育ったリリィには虫など全く怖くない。だから、震えるダリアの肩に乗った毛虫を慣れた様にヒョイと摘まんで、道の脇に放ってやった。

 毛虫がいなくなると、ダリアは深呼吸して、努めて平静を装っていた。

 大丈夫かと心配して問うリリィに、何のことだと惚けたダリアは、その後も本当に何もなかったかのように、涙などなかったかのように振舞った。

 この言動に、傲慢だと怒る子供も多いだろう。しかし、このときリリィの胸に感じたのは、強い庇護欲だった。


 まだ田舎のだだっ広い農園だけが己の世界だった当時のリリィは、肩の力を抜くのが苦手で、真面目過ぎるとても不器用な性格の少女に、自分が助けてあげなくてはという細やかな使命感を持った。


 それからのリリィは、学院の小学部に入学するまでの僅かな間、お姉さん風を吹かせてダリアのフォローに回るようになっていた。


 都会育ちで昆虫類が大の苦手なダリアのために毛虫や羽虫を追い払い、綺麗な洋服が汚れないように、でこぼこの田舎道は自らが先に歩いてならした。不器用な言動で誤解を招きそうになると、わざと間に入って言葉の齟齬を訂正した。

 幼いながらにまるで姉の様に振る舞い、さりげなく自分を助けてくれるリリィに次第にダリアも心をひらき、二人の子供はあっという間に仲良くなった。


 しかし、それも二人が学園に入学するまでのことだった。

 貴族の子供は一定の年齢に達すると貴族社会の在り方を学ぶために学園に入学する。そこで基本的な教養、芸術を学びつつ、真の意味で貴族社会とは何たるかを身をもって学んでいくのだ。

 そこで、リリィはマンダリン家とエヴァーグリーン家の格の違いを思い知った。

 毎年冬になると遊びにきていた不器用で可愛らしい妹分は、学園の頂点に君臨する未来の王妃様だった。


 学園へ入学すると同時に公表された王太子殿下との婚約もあり、学園でのダリアの地位はまさに雲の上だった。


 入学式で見かけて話しかけようと近づくも、周囲にひしめく上位貴族の御令嬢たちの視線にリリィは足を止めてしまった。大自然のなかで天敵もなくのびのびと育てられてきたリリィにとって、嫉妬と羨望が渦巻く王都で育ってきた歴戦の御令嬢たちの視線は、それだけで研ぎ澄まされた槍のように鋭い威力があった。


 その中央で堂々とした表情で背筋を伸ばして座っているダリアは、リリィの知らない人物だった。すでに始まっていたという王妃教育の賜物か、その佇まいには畏怖さえ感じ、小学部に入学したばかりの幼子でありながら既に周囲の者をひれ伏す威厳さえあった。


「まあ、リリィ! 久しぶりね!」

「ダ、ダリア、様……お久しぶりでございます」


 だから、不意に人ごみの中から視線が合った瞬間、ダリアの表情が花開くように綻んだときは、リリィの胸はどきりと音をたてた。それが喜びからなのか、気まずさからなのか、リリィには判断がつかなった。


 自然と頭が下がり、領地では呼び捨てにしていた名前には敬称と敬語がついた。

 気まずげに視線を逸らすリリィに、ダリアは困惑の表情を浮かべたが、直ぐに何か察したのか、一瞬だけ悲し気な表情を浮かべると、次の瞬間には見たことのない綺麗な笑顔を浮かべた。


 対応を間違えたのだとリリィにも分かったが、分かってもどうすることも出来なかった。

 その日が、リリィの姉貴分としての役割が終わった日だった。


 それ以降、リリィは母方の縁を使ってダリアに取り入った御令嬢の一人となり、彼女を中心とした令嬢グループの一番外にくっついていた。そんなリリィのことをダリアがどう思っていたのかは分からないが、リリィが彼女から完全に離れられなかったのは、リリィの中に残ったほんの僅かな姉としての心配のせいだろう。


 いつだって未来の王妃として相応しくあろうと気を張り続けている彼女が心配で、でも昔のように声を大にして守ってあげる力も勇気もなくて、リリィは令嬢たちの視線と権力に屈してただひたすらに大人しく追随するようになった。


 事実、歴戦の令嬢たちは恐ろしかった。堂々と騎士のように剣を振るうわけではなく、言葉だけで逆らう人間を地の底に落としていく。彼女たちが笑い合うお茶会のその裏で、どんな謀略が張り巡らされているのかリリィには想像もつかない。

 言葉一つ、命令一つで人を破滅させられる彼女たちが、心底恐ろしかった。


 ダリアもまた、謀略渦巻く上位貴族の一員であり、人に命令することに慣れた人間だった。貴族といえど、リリィは彼女らに命じられる側の人間だ。

しかし、ダリアの言葉はいつも真っすぐで、苛烈さの中に真面目な不器用さが見えた。

 清濁併せ呑む度量がなければ国を治めることなど出来ない、という父の言葉を思い出して、リリィはダリアの傍にいた。


 しかし、リリィが最後に彼女に与えられたのは決定的な裏切りだけだった。

 婚約破棄の夜、最後に縋るように向けられたダリアの視線から、リリィは逃げるように顔を背けたのだから。


(裏切者のリリィ・マンダリン、か。この手紙の差出人は、そのことも知ってるってことよね)


 由梨は口の中で手紙の文面を見返しながら、胸に鉛を飲み込んだような息苦しさを感じていた。唾を飲み込む度に、胸に重苦しい何かがつかえて苦しくて仕方がない。

 それは恐らく後悔や後ろめたさ、そして恐怖なのだろうと、由梨は手紙を自室の机に置いた。


 今まで、由梨は己と同じ記憶を持ったものに出会ったことはなかった。それを寂しく思いながらも、記憶の地盤が曖昧なことを言い訳に、己の後悔さえもなかったこととして紗良や咲也と接してたところがあった。そのことに、どこか安堵さえしている部分があったことは否めない。


 そんな由梨のずるい部分を、この手紙で指摘されたようだった。


(でも……)


 重苦しい鉛をまた一つ飲み込んで、由梨は顔をあげた。


(誰だか知らないけど、ここで逃げたら同じことの繰り返しになる)


 あの日の後悔を清算する機会はもう二度とない。

 一度裏切った事実はリリィの中から消えることなく由梨に引き継がれ、あの日のダリアに謝ることも、彼女の負った汚名を晴らす術も由梨には永遠にない。


 それでも、この現代で同じことを繰り返すつもりは毛頭なかった。

 由梨の中には、あの日のダリアの、傷ついた表情が強く残っている。最後の最後で信じて頼った幼馴染にさえ目を逸らされて、それでも背筋を伸ばし続けた瞳の奥、深く傷ついた彼女の顔を。


(あの顔を覚えているからこそ、同じことを絶対に繰り返したりはしない)


 それが、由梨の出来る精一杯の贖罪であった。


「Aria…アリア……藤アリア」


 封筒に小さく記載された文字を指でなぞり、由梨は瞳を閉じた。

 つい最近見たことのある文字に、由梨はようやく納得した気持ちで己のスマートフォンを起動すると、藤の花をモチーフにしたアイコンを見た。

 それはウィステリア王国の紋章だった。


 学校での、咲也との会話を思い出す。

 決してありふれたペンネームではないそれは、今日聞いたばかりということもあって、由梨の脳裏には強く残っていた。


(サクの言ってた安直な噂が本当だったなんて)


 花恋のシナリオを書いた人間は、由梨と同じ学校に居る。

 それが生徒なのか教師なのか、はたまた学校関係者なのかは分からないが、その人物は由梨が紗良の傍にいることが気に食わないらしい。

 花恋のリリィ・マンダリンが悪役令嬢にされていることも、恐らくそこに起因しているのだろう。


(誰だか知らないけど、影でこそこそと余計なことしてくれたおかけで、弊害が出来たじゃない)


 リリィを貶めたかったのか、ダリアの汚名を雪ぎたかったのか知らないが、『藤アリア』の行った改竄は藤宮会長の不信感を大いに煽った。


 元グレイ王子である藤宮会長と元ダリアの紗良が同じ年で同じ学校、同じ生徒会に所属したことは誰にも予想出来なかった恐ろしい偶然だろうが、双方ではなく藤宮会長にのみ前世の記憶があることはこの状況では二人の間に深い溝を作ってしまった。


 ダリアがかつての己の罪、これもほとんどがただの勘違いで冤罪しかないが、を全てリリィに被せていると勘違いした藤宮会長により、二人の間には一方的な確執が出来てしまっている。

 日々生徒会で顔を合わせる度に会長から冷たく当たられる紗良を知っている身とすれば、その原因を作った人間に文句も言いたくなる。


(ゲーム程度なら気にしないって思ってたけど、そういうわけにはいかなくなったわ)


 勘違いしている藤宮会長の誤解を解くためには、当の『藤アリア』を見つけることが一番手っ取り早いだろう。

 アリア探しが、由梨の中で決まった。

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