第118話 臭いものには蓋をしろ
大司教公国を恐怖のるつぼに陥れたとも知らず、魔王はカイザーの背に乗ってトワを探して飛び回っていた。
広大な人間の国の版図を何日もかけて飛び回るカイザードラゴンの背には、アスタリスも乗っていたが、彼は自分の能力の限界を感じたと魔王に直訴した。
もしトワが変装させられたり、樽や木箱などに押し込められて運ばれたりしていたら、見つける自信がないと云ったのだ。
魔王は一理ある、と考えてそれならばと魔力を視られるサレオスを前線基地まで迎えに行くことにした。
その際に、大司教公国の上空をたまたま飛んだに過ぎなかったのだ。
前線基地で合流したサレオスは事情を聞き、魔王に進言した。
「魔王様。闇雲に駆け回るよりも、一度グリンブルに戻ってみてはいかがでしょうか。何か情報があるかもしれません」
魔王は一理あると、それに従うことにした。
彼らが空間転移でグリンブルの治安維持機構本部に戻ると、なにやら騒動が起こっていた。
「何事だ」
魔王が職員に尋ねると、たった今、来客があったと云って取り乱していた。
事務長らしき魔族が部下たちに指示している声が聞こえた。
「とにかく、女性体は全員避難させろ!」
「奴の目を見るな!」
「絶対に触れるな!」
何があったのかと魔王が首を傾げていると、サレオスが「なるほど」と唸っていた。
その理由を魔王は、正面から歩いてきた人物を見て理解した。
治安維持機構本部の廊下を悠々と歩いて来たのは魔公爵ザグレムだった。
彼の後ろには取り巻きの2人の女がいた。
その取り巻きの女たちが左右の手でそれぞれ引きずっていたのは、地下の留置場にいたはずのマリエルだった。
「あ、あれがマリエル…?」
アスタリスは目を疑った。
その容姿があまりにも彼の知っているものと違っていたからだった。
その体は丸々と膨れ上がり、もはや自力で歩くことができないほどに肥満していたのだ。
そしてその顔は毒を食らったようにドス黒くなっていて、顔中の血管が浮き上がって、さながらゾンビイのような容貌になっていた。
目は白く濁って血走り、どこを見ているのか、何を見ているのかもわからない。
着る物がなかったのか、おおざっぱにカットされたノースリーブの前開きワンピースをまるで浴衣のようにざっくりと着せられていた。
マリエルは引きずられながらもグルル…と獣のような唸り声を上げて、自分を連れ出した女たちに怒っていた。
驚いたことに、あれほど執着していたザグレムを前にしても、まったく彼に反応せず、彼女はひたすら食べ物に心を奪われていたのだ。
マリエルを拷問していたユリウスが、一体どんな手段で彼女をこんな風にしてしまったのかと考えると、アスタリスは恐ろしくなった。
なまじ優し気な彼を知っているだけに、ユリウスの知られざる一面をみた気がした。
一度ザグレムの魅了の洗礼を受けた者は、その呪縛から逃れることはできないという通説を、ユリウスはマリエルの色欲を食欲で上書きすることによって覆したのだ。
そのことに気付いた魔王は、「あやつ、なかなかやるではないか」と口を歪めて笑った。
ザグレムが魔王に気付くと、彼は華麗に会釈をした。
「これは魔王様。このような場所でお目にかかれるとは。本当に復活なされたのですね。おめでとうございます」
「見え透いた世辞はいらぬ。ここへ何をしに来た?」
「私の愛人の1人がなにやらおイタをしたらしく、こちらに囚われているとの報告を受けましたので、引き取りに参ったのです」
「それが、おまえの愛人?」
「…ええ、一応、愛人だった者です」
ザグレムは云い直した。
「そいつは貴様の命令で動いていたのか?」
「とんでもありません。私の愛人たちは、私への愛が深すぎて、時々暴走してしまうのです。もちろん私は命令なぞ一切しておりません」
「その者は我を欺き、我の大切な者をも裏切ったのだ。貴様に責任がないとは言わせぬぞ」
「おお、そのようなとんでもないことをしでかしたとは存じませんでした!私の監督が行き届かず、大変申し訳ありません。この私が引き取り、処罰しておきますのでどうかご容赦を」
ザグレムは芝居がかった様子で、取り巻きの女たちに合図をした。
すると後ろの女たちは、短剣を取り出した。
「やめろ。この場を血で汚すつもりか。その汚物は持ち帰って処分しろ」
「おおせのままに」
ザグレムは女たちに合図し、短剣を収めさせた。
「ザグレム」
「はい」
「貴様のために言っておく。欲はかくな」
「…胸に刻んでおきましょう」
「次は容赦はせぬ」
「…寛大な仰せ、痛み入ります」
ザグレムはそれまで浮かべていた薄笑いを止め、通路を外へと歩いて行った。
マリエルの巨体を引きずった女たちもそれに続いた。
魔王はそれを黙って見送った。
ザグレムはムスッとしたままスレイプニールの馬車に乗り込んだ。
女たちはマリエルの巨体を馬車に押し込もうとした。
「そんな臭いものを乗せないでおくれ」
唸り声を上げ続けるマリエルの頬には、既に3本の傷が付けられていた。
女たちは馬車の後ろに縄をひっかけてマリエルの巨体を縛り、引きずって行くことにした。
馬車が走りだすと、マリエルはまるでゴムボールのように弾んで引きずられた。
市内ではスピードが出せないため、その度に馬車に振動が走る。
「なんという醜さだ…。末席とはいえ一度でも私の愛を受けた者を放ってはおけないと迎えに来ては見たものの、このような汚物に成り下がっているとは。街の外に出たらなんとかしておくれ」
「まあ、ザグレム様、おいたわしい…」
「ザグレム様の愛を、このような仕打ちで返すとは万死に値しますわ。街を出たらすぐに処理致します。今しばらく我慢なさってくださいませ」
ザグレムはショックを受けていた。
マリエルの変貌ぶりにではない。
彼女の自分への愛が、食欲に負けたことにである。
「あんな臭いものを取りに来るんじゃなかった。気分転換に美しいものを見たい」
「お可哀想なザグレム様。でしたらペルケレ共和国のゴラクドールで舞台などはいかがでしょう。美しい歌と踊りできっと癒されますわ」
「確かあそこは人間の客しか受け入れていないはずではなかったかな?」
「ザグレム様の入国を阻む国などありませんわ」
「そうですとも。私たちにお任せください」
それから数日後、マリエルらしき肉塊がグリンブル近郊で発見されたが、そのほとんどは魔物に食われてしまっていて、もはやそれが人だったとは誰も思わなかった。頬の肉片に3本の傷が確認されたために、マリエルではないかと治安維持機構へ報告されたのだった。
魔王が部屋に戻ると、イドラを尾行していたテスカが戻って来ていた。
彼は大司教公国で起こった惨劇について報告した。
「そうか、大司教は死んだか」
「はい。皆の前で正体が暴かれ、人間共に討伐されました」
「やはりタロスだったのだな」
「はい、そのようです」
「エウリノームはいたか?」
「わかりませんが、その場には仮面を着けた女の魔族がいました」
テスカの報告に、魔王はそれが誰だかすぐにわかった。
「ああ、それはカラヴィアだ」
「え!?あ…そうでしたか」
「まあ、いろいろあってな。放っておいて構わん。ご苦労だったな。騎士団に合流するが良い」
「トワ様の行方も気になるのですが、お許しいただければ、この後も引き続きエウリノームの行方を追いたいと思います。それにトワ様が気にかけていた勇者候補たちのことも」
テスカはイドラの行動を追っていくうち、大司教公国の地下には多くの魔族がいることを突き止め、その魔族たちの動向も見ておきたいと云った。
「良かろう。思う通りに動いてみよ。人手がいるなら誰か連れて行っても構わん」
「ありがとうございます」
「連絡用の魔鳥を遣わす故、定期連絡を入れよ。トワが戻ってきたら顔を見せてやれ」
「はい!」
魔王の言葉に、テスカは笑顔を見せた。
そこへジュスターが慌てて入室してきた。
「魔王様、トワ様らしき方を見つけたとの報告がありました」
「トワらしき…?」
そのはっきりしない報告に、魔王は眉をひそめた。
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