第111話 ホリーとノーマン
一方、こちらはアトルヘイム帝国、帝都トルマ。
ホリー・バーンズは朝から、大きな溜息をついていた。
軍の宿舎の彼女の部屋に、早朝使いの者がやってきて、これからアトルヘイム軍基地本部にある情報局長マニエルの執務室に来るよう呼び出されたのだ。
「マニエルから呼び出しだって?」
ベッドの上でそう暢気に云うのはノーマン・ワイヤーという男だ。
彼は
ノーマンは小さな地方領主の次男だったが、帝国大学に進学してその頭角を現し、戦場でいくつもの功績をあげて出世してきた。ついには皇帝の側近である帝国円卓騎士の1人であるエイヴァン将軍に気に入られ、その娘を妻とした。妻は帝都から離れたエイヴァンの領地に豪華な邸宅を構えて住んでいるが、彼自身は任務のため、帝都に宿舎を借りて住んでいる。
ホリーはそんな彼と初めて遠征で一緒になり、戦場という特異な環境の中ということもあり、徐々に親しくなっていった。そしてその関係は、彼女が帝都に戻って来てからも続いていた。
「帝国の英雄を寝取ったことを追求されるのかしら」
「まさか」
「奥様とお義父様への言い訳を考えておいた方がよいかもよ?」
「おいおい、興ざめすることを言わないでくれよ」
「あなた、こんなことをいつまでも続けられるってまさか思っていないわよね?」
「少しくらい夢を見させてくれよ…」
「何にせよ、出かけるわ。あなたも人に見られないうちにお帰りになって」
ちっとも悪びれない不倫男を、ホリーは憐れむように見た。
彼女はノーマンを置いてさっさと着替えを済ませて出かけて行った。
帝国軍基地本部の情報局長マニエルの元を訪れたホリーは、彼の両脇に衛兵が2人立っていることを訝しんだ。
マニエルは情報局長として、帝国内の
ホリーは覚悟を決めた。
「早朝からお呼び立てして申し訳ないね」
「いえ。何の御用でしょうか」
マニエルは自分の椅子に腰かけて、前に立つホリーを見た。
「先日の遠征でも大活躍だったようだね」
「…自分の仕事をしただけです」
「単刀直入に言おう。
「情報局長ともあろうお方が下士官のするような噂を信じますの?」
「ノーマンは国民からも人気がある男なのでね。軍としてもそのような噂はなるべく抑えたいところなのだが、兵士たちの噂話が外部に漏れてしまう前に」
「…単なる噂ですわ」
「ノーマンの妻は円卓会議のエイヴァン将軍の娘だ。子供もいる。こんな噂が将軍の耳にでも入ればノーマンも君もただでは済まない」
「私にどうしろと?」
ホリーは溜息をつきながら、マニエルをキツイ目で睨んだ。
「…まあ、それはまだいい。問題はサラ・リアーヌ皇女殿下誘拐事件の件だ。先日大司教から皇女殿下を誘拐した旨、脅迫状が届いたのだよ。皇女の命と引き換えに、大司教公国の独立を認めろとね」
ホリーの表情が硬くなった。
「…それは存じませんでした」
「表沙汰にはなっていないからね」
マニエルはじっとホリーの表情を見ている。
「マルティスという便利屋を知っているかね?」
「…いいえ。初めて聞く名です」
「そうかね」
「私は先日まで『大布教礼拝』に参加していたのですよ?国内で何が起こったか知りませんが、私には関係のないことです」
「その便利屋が言うには、君から良からぬ頼まれ事があったというんだが」
「身に覚えがありません」
「あくまでシラをきるというのかね」
「私は知りません」
ホリーはもう表情を変えることはなかった。
「そうかね?」
「国民的英雄でもあるノーマン隊長と交際しているのを快く思わない者が、皇女誘拐犯にでっちあげて私を粛正しようと企んでいるのではありませんか?」
「なるほど、そういう考え方もあるね」
マニエルの目は鋭くホリーの表情を読み取ろうとしていた。
「そもそも君は大司教公国から無期限で出向ということになっていたね。それは事実上の追放とも取れる。君ほどの実力者が、おかしな話だ」
「…何がおっしゃりたいの?」
「君はあの国で、大司教の不興を買うような失態を犯したんじゃないのかね?」
「おっしゃる意味がわかりませんが」
「皇帝陛下がサラ・リアーヌ皇女殿下を目に入れても痛くない程可愛がっておられるのは知っているね?」
「ええ。お年を召してから生まれた末の姫だと伺っています」
「その皇女殿下が攫われたとなれば、皇帝陛下は大司教公国へ軍を派遣することも辞さない。君はあの国に恨みがあって、皇女殿下を誘拐し、大司教の仕業に見せかけて2つの国を戦わせようとしていたのではないかね?」
「情報局長は、なかなか空想力がおありですね」
揺さぶりをかけても表情を変えないホリーに、マニエルは少々苛立ちを覚えた。
「私の空想なら良かったのだがね。よく考えてごらん。我が国と自治を認めている大司教公国の関係は良好だ。大司教公国が、独立するメリットなどあるはずがないのだよ。ましてや皇女殿下を誘拐するなんてありえない」
「私にはメリットがあるとでも?」
「…君が買収した侍女は逃げる直前に拘束したよ」
ホリーは、はーっ、と大きく溜息をつき、語りだした。
「なんだ。もう証拠を押さえてるってわけね。最初からそう言えばいいのに」
「認めるんだね?」
「白状しますわ。確かに皇女を城から連れ出すように侍女を買収したのは私だけど、元々この話を持ってきたのは大司教公国の従者よ。私はお金を出しただけ。アトルヘイムの軍が大司教公国を攻めたら、あのいけ好かない大司教に復讐できるって思ったのよ」
「いけ好かない、ねえ…。あなたともあろう方が、そんなことをして無事で済むと思ってたんですか?」
「死刑にでも何でもすればいいわ。どのみち私にはもう未来なんてないんだから」
「あなたにこの話を持ってきた者に心当たりは?」
「よく知らないけど、たぶん大司教に不満を持つ人間よ」
「なるほど」
「で、私をどうするの?」
「君は主犯ではないが皇女殿下誘拐は大罪だ。だが君ほどの優秀な者が、このような私怨で処罰されるのはもったいないと思う。皇帝陛下からの裁定が下るまでしばらく身柄を拘束させてもらう」
「ご自由にどうぞ」
この件について、帝国は情報局長マニエルの名で、何度か大司教公国に宛てて皇女の状況を確認する内容の文書を送っていた。
だが、この文書は大司教公国の城門ですべて回収されていて、大司教の元へ届くことはなかった。
城門に詰める兵士の中に、計画した一味の手の者が数名混じっていたのである。
アトルヘイム皇帝は返事がないことに激怒し、ついに軍を派遣するという強硬手段に出たのだった。
マニエルの指令通り、ホリーはしばらく軟禁されていた。
だが間もなく解放された。
大司教公国へ皇女奪還のための部隊が派遣されることが決定し、彼女はそれに回復士として同行することになったからだ。
その指揮を執るのは皇帝の信頼も厚い
彼のたっての願いで、ホリーを道案内として同行させることになったのだ。
当然マニエルはいい顔はしなかったが、ノーマンが自分が責任を取る、というので仕方なく折れる形となった。
いずれにせよ、皇女が無事に戻りさえすれば良いのだ。
軟禁を解かれたホリーは、ノーマンの宿舎に保護される形になったが、ノーマンから叱責を受けることになった。
「なんてことに加担したんだ、君は!俺が引き受けなかったらどんな処罰を受けることになったか…」
「私に恩を売るつもりならお門違いよ。助けてなんて頼んでないわ」
「意地っ張りなところも君の魅力ではある。だがどうか今は素直になって欲しい」
「…そんな優しさ、残酷なだけよ」
「ホリー…」
「マニエルから、大司教公国へ行ったら、そのまま向こうに残れと言われているわ。つまり、国外追放という処分よ。だけど大司教がいる限り、私は戻れない。事実上両国から追放されたことになるわけよ」
ノーマンはホリーを抱き寄せた。
「それでも、焼きゴテを当てられて強制労働所送りになるよりはずっといい」
「…私、あなたが思うような女じゃないわ。この国で、あなたを踏み台にしてのし上がろうと考えていたのよ」
「そんなことは一目見た時からわかってたさ」
「あなたのことなんか、私、本気じゃないのよ?」
「誘ったのは俺だ。君を守る責任がある」
「不実よ。あなた」
「わかってる。俺には家庭があって、そんなことをいう資格はないってことも。それでも君に対する責任を果たさせて欲しいんだ」
「…バカね、本当に」
ホリーはノーマンの背に手をまわして、その胸に体を預けた。
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