罪の子②

 その人は毎夜僕の家の方角へ手を合わせ、一生懸命祈っていたそうだ。

 祈りは中々届かなかった。

 しかしその人は根気よく祈った。

 その人の祝詞はこうだった。


「早乙女清良君、早乙女清良君、早乙女清良君、早乙女清良君、早乙女清良君、早乙女清良君、早乙女清良君、早乙女清良君、早乙女清良君、早乙女清良君……」


 そしてそれは今夜聞き届けられた。


* * * * * *


 まだ夜明け前に、女の子の泣き声で目が覚めた。

 かなり取り乱した泣き声だった上に、僕の家の庭から聞こえる事に驚いて飛び起きる。

 急いでカーテンとガラス戸を開けて外を見ると、門近くで環が何かに覆い被さって泣いていた。

 

「環、どうしたんだ?」


 僕は部屋から庭へ出て、環に駆け寄った。

 しかし、環が何に覆い被さっているのか見えて、足を止めた。


「た、環―――、環、それ……」

 

 環が泣き顔でしゃくり上げながら振り返る。

 白い頬には血がベッタリとついていた。

 頬だけじゃない。愛らしいフリルのついた半袖のパジャマから伸びる腕にも、何かに掴まれた様に血がついて垂れているし、ぺたりと座り込んだ膝は、地面に溜った血に漬かっていた。

 その直ぐそばには、顔を滅茶苦茶に壊されて血を流すキヨラ叔父さんが倒れていた。

 

「み、み、ミーちゃん……」


 僕が絶句していると、環が泣き声で僕を呼んだ。

 そして、泣きながら言った。


「あ、アイツ、アイツよ! 早乙女家の、お、お化けが、キヨさんを、連れて行こうと、し、していたの」


 環の震える指先を目で追うと、キヨラ叔父さんの部屋の縁側から、引きずった血の跡が出来ていた。


「私、夢中で止めたの! でも、でも、もう……」


 僕はふらつく足を叱咤して、倒れたキヨラ叔父さんの側へ寄り、かがみ込んだ。ドッと環が僕に抱きついて来る。二人して崩れそうになるのをグッと堪えた。

 キヨラ叔父さんの姿は赤く凄惨で、亡くなっていると一目で分かる状態だった。


「キヨさん……!!」


 やっと会えたのに。

 昨夜の会話が最後と知っていたら、ヤブの身の上話などよりお互いの話をしたのに。

『もう今夜は休んで』 などと良い子ぶらず、もっと話せばよかった。

 

「叔父さん、叔父さん、叔父さん!!」


 僕が叫ぶと、環が「あっ」と声を上げて僕の口を塞いだ。

 もうそんな心配はしなくていいのに。



 慌ただしかった。

 門守さんへ報告をしに行き、不覚にも泣きながらヤブの事を話した。

 門守さんは事情を知っていた様子で、ヤブがキヨラ叔父さんから離れた事に驚いていた。

 しかし、まずは弔いだと急いで葬式の支度を始めてくれた。

 キヨラ叔父さんの葬式は、僕の両親と同じく家の中で行う事となった。

 ただその時と違うのは、村人全員がやって来る事と、惨い遺体の姿をあえてそのまま公開しなければいけないという事、そして遺体の枕元には赤い墨で『犯枯』と書かれた板が立てられるという事だった。

 『枕元』などと言ったが、キヨラ叔父さんは布団の上ではなく、亡くなった時のまま庭に寝かされていた。

 そのため夏の庭は悪臭が漂っていて、ヒカル叔母さんが普通ではない量の線香を焚いていた。


 何故こんな奇妙かというと、キヨラ叔父さんがシキタリ破りの『犯枯』で亡くなったからだ。

 シキタリや風習が守られないとこうなる、という見せしめだ。

 

 葬儀の支度を手伝いに来てくれた門守さんに、キヨラ叔父さんが悪いのではないのにと食い下がってみたが「シキタリだからね」と、申し訳なさそうに言われた。

  

「私もキヨちゃんが悪くないと分かっているし、悔しいよ。早乙女家は名付け以外に、自らシキタリを破り難いしね……誰かがキヨちゃんを男として呼んだんだ。晒されるべきは、その者だ」


 僕は門守さんへ頷いて、唸った。


「一体誰が!」

「分からない。……雅弥、君はキヨちゃんに酷い目に遭わされていたのに、決してその禁を犯さなかったね」


 門守さんの言葉に、僕は泣き出さぬよう歯を食いしばって答えた。


「当たり前です、シキタリなんですから」


 本当は、何度も我慢した夜があった。朝も、昼も、その誘惑に囚われ続けた時があった。だけど、それをしたら自分の人生も終わると分かっていた。

 ここはN村だ。

 風習とシキタリを犯したら、生きていかれないと肌で感じられる村。

 自分の人生をキヨラ叔父さん―――否、ヤブなどに賭けたくなかった。

 戦いたくなかった。


「でも、それで良かったって思えた。だって、本当のキヨさん――叔父さんに会えたから……それなのに、一晩だけしか言葉を交わせなかった。門守さん、僕の我慢は何だったんでしょう? 僕の我慢は、一晩分にしか値しなかったのでしょうか?」

「その一晩が、どの晩よりも貴重な一晩だったのだと思うしかないね」


 門守さんが僕の肩にそっと手を乗せた。


「みんな、キヨちゃんがヤブに取憑かれていた事を知らない。君もそうだった。みんな彼を嫌いだったね。だけど、誰もが早乙女家のシキタリを守ってくれていた。みんな、捨てられないモノがあるからだ。だけど、そうじゃない者が現れた。何を捨てても良いと思った者が」

「キヨ……ヤブは確かに鼻つまみ者にされていましたが、ほとんど家に引きこもっていました。僕以外にそれほどの恨みを買う機会はなかったと思います」

「うん、そうなんだ。恨みじゃないかもしれない」


「恨みじゃない?」そう問い返そうとした時、ヒカル叔母さんが玄関から僕を呼んだ。

 参列者が訪問し始めていた。


「行こう。しっかり喪主を務めてね」


 門守さんが僕を促し、玄関へと歩き出す。

 僕は門守さんの装束の袖を引いた。


「恨みじゃないって?」

「今夜話そう。三人で」


 そう言われて、僕は更に戸惑った。


「三人?」

  

 門守さんと、僕と……あとは誰だ?

 首を傾げた僕に、門守さんが柔和に笑う。

 彼は僕の手を取って、白い小石を握らせた。

 僕はハッとして門守さんを見た。

 門守さんが僕の耳元へ顔を寄せ、囁いた。


「必ず成功する」


 再び、ヒカル叔母さんの声が僕を呼んだ。


「ミヤビさーん、どこにいるの? 皆さんのお出迎えをしてちょうだい」

「急ぎなさい」


 門守さんが僕の背を軽く押し、玄関へと促した。

 玄関ではヒカル叔母さんが既に大勢の村人達を迎えて、頭を下げていた。

 僕のその横に並び、頭を下げた。

 ゾロゾロと大勢の足が僕の家へ入っていく。頭を下げ続けてそれを見つめていると、ヒカル叔母さんが少し身体を寄せて来て囁いた。


『顔が真っ青よ。大丈夫?』


 そう囁くヒカル叔母さんの顔は、何故か少し頬が上気しており、唇の両端が吊り上がりたそうにピクピクしていた。

 叔母さんは、 キヨラ叔父さんを嫌いだったからなぁ。

 僕だって、何も知らなかったら同じだったかもしれない。

 本当はあんなヤツじゃなかったんだと、教えてあげられたら良かったのに。

 だけどもしも。もしも……。

 僕は掌の中の小石のツルリとした感触を確かめる。

 

――――両親の時はダメだった。門守さんは、僕があまりに青い顔をしているから励ましただけだ。きっとそうだ。何も起らない。だって、まだ子供だった僕があれだけ切望したのにダメだったのだから。

――――だけど神様。いまわ様。


 僕はヒカル叔母さんに微かな笑顔で答えた。


『大丈夫です』


 僕は深く頭を下げて、訪問客を迎え続けた。

 もしかしたらこの訪問者達の中に、村人ではない誰かがいても失礼の無いように。

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