早乙女清良の手記②
『早乙女清良』の村散文は、メモ十五枚ほどで終わった。
何も無い小さな村の事をよく何ページも書けるものだ、というのが、僕の感想だ。
村を描写し尽くすと、こう結ばれていた。
『俺は身体が弱いから、学校以外の外出はあまりできない。
たくさん歩くと肺が苦しくなるし、目眩がしてしまう。
俺は老人の様にゆっくりとしか歩けない。
通学に幼なじみの自転車の後ろに乗せてもらわなくてはならない、情けない男だ。
もっと自分の生きている世界を知りたい、感じたいと思っているが、こんな小さな村ですら叶わない。
なぁ君、君は黒板の前で挨拶している時、心は死んでいる様だったが、身体は健康そうに見えた。
俺の代わりに感じてきてくれないか。
俺がどんな世界で生きているのか、綺麗なものを見てきてくれないか』
そのページは、一度クシャリと丸めたものを、後から伸ばしたみたいにシワだらけだった。
そして、依頼の様な内容の割に、乱暴に書かれた文字が怒っているのだった。
僕は鮎川先生の言葉を思い出す。
―――清良さんは、身体が弱くて大人しかったのよ。
「嘘だ。酒と煙草をやっている。気に入らない事があると気が済むまで暴れるし、暴力を振るうんだ。肺? 目眩? 嘘だ」
こんなまともそうな人間の訳がない。
そうだとしたら、叔父さんが本当はまともな人間なのだとしたら。
話が通じないから、言っても無駄だからと、諦めて目を閉じていた理不尽に、パッと憎しみの火が点きそうだった。
冊子にはまだ半分程ページがあったので、僕はやけくそでページを捲る。
今度は早乙女家の禁忌と因縁を伝え出した。
環の件がなければ知らなかった因縁について、門守さんから聞かされたままの事が書いてあった。
『早乙女清良』は、読者――おそらくマリカと打ち解けている様子だった。
何故なら、『早乙女清良』とは別の筆跡が、文章に短い返事や質問をしたり、小さく単純なイラストが添えられたりするようになっていた。
それよりも。
「キヨさん、知っていたのか?」
早乙女一行で門守さんから話を聞いた時、叔父さんは狼狽えていたハズだ。
僕だって狼狽えた。
もしも環が「早乙女家のお化け」を見なかったら、ずっと知らないままだったし、それでまかり通って一生を終えていただろうから。
―――あの狼狽はなんだったんだ?
不思議に思いながらも冊子を読み進めると、他の一家についても書かれていた。
『江角家/鏡を見たらたたき割る。そうしないと……』
禁忌とその先を綴る文章をウッカリ目で追ってしまい、ぞわりと心臓に嫌な圧力がかかる。
慌てて冊子を放り出し、早まる動悸を落ち着けようとシャツの胸元を掴んだ。
冊子は最後の方のページを開いて落ちた。
余所の家の禁忌の先など、恐ろしくて読めなかった。
村の外で暮らす何も知らない人が読めば、面白味のある世にも奇妙な話かもしれない。しかし、僕にとってそれらは全て現実の、逃れられない驚異だ。
知った事で飛び火してくるかもしれない。
文字を追ったら何が起こるかわからない。
もしも関わりのなかった怖い事が、こちらへ振り返ったら?
「なんだこれは……」
叔父さんの手作り本を覗いてやろうという悪戯心は、見てはいけない悍ましいものに対する恐怖心に変わっていた。
僕は開いているページを閉じようとして、手を止める。
『九条家』
九条家――――僕は、読まずにはいられなかった。
『九条家/愛してはいけない。言葉は噛み千切れた舌となり、気のある触れあいは守護者が相手の首を飛ばす』
「―――守護者?」
冊子から顔を上げて、僕は首を傾げる。
新聞紙を剥がした窓からさす光の高さが、傾き始めている事に気づきつつ、再度冊子を読んだ。
『守護者の気性は荒く被害妄想気味。不満があると、激昂して夢に出る。朝まで一方的な詰問を激しく続け、心身を消耗させる』
「それって守護者なのか……?」
僕は自分の手が震えている事に気がついた。
「それってまるで……」
「早乙女さん」
「!」
急にかけられた声に、飛び上がりそうなほど驚いた。慌てて冊子をズボンの尻ポケットに突っ込んでしまった。
開けっぱなしにしたドアの入り口に、マリカの母親が立っていた。
*
マリカと母親は本当によく似ている。
一瞬マリカかと思って、ものすごく驚いてしまった。
慌てた様子の僕を、彼女は目に入れていなかった。
「全部取ってしまったの」
マリカの母親は、荒れた部屋を見渡して消え入りそうな声で言った。
責められたりパニックになられたりしてしまうのかと焦ったが、彼女は落ち着いていた。
「これでマリカは家に居てくれるかしら」
「もともと、マリカはこの家にずっと居ますよ。自分の家なんですから。部屋に吊された鈴が彼女を苦しめていた様です。今も苦しんで怯えています。あの鈴はどこから手に入れましたか?」
「鈴?」
マリカの母親は細い首を傾げる。
下ろした長い黒髪が痩せた肩から流れ、サラサラ鳴る様だった。
マリカも髪を下ろしたら、こんな風なんだろうか。
心奪われそうになって、慌てて鈴の話に集中した。
「家畜が……牛が着けている様な鈴でした」
「色々な所から譲ってもらう事に夢中で……よく覚えていないの……あとで月子さんにも聞いてみるわ。あの……これから午後のお茶をするのだけど、あなたも一緒にどうかしら?」
「いいんですか?」
「ええ。月子さんが久しぶりのお客様に張り切っているの」
マリカの母親は微笑んで言った。
インターホンに絶叫する人とは思えない位、普通の人に見えた。
「いただきます」
僕は喉が渇いていたので、九条家の誘いに喜んで頷いた。
気持ちが乱れており、少し落ち着きたかった。
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