僕がマリカにしてやれる事
どうしたらいいか考える
成仏
山里の至る所で百合が咲き乱れ、夏休みが近づいていた。
僕は最近、マリカを学校へ連れて行く任務に身が入っていなかった。
何故なら僕の本音は、やっぱり昔からそうしていた様にマリカを避け続たかったし、マリカの視界に入る事も嫌だったからだ。
今、その気持ちが無性に強くなっていた。
だから、夏休みが来る事にホッとしていた。
夏休みならマリカを学校に行かせなくて済む。
つまり、マリカに関わらなくていいのだ。
マリカの姿を探さなくていいし、追いかけなくてもいい。
学校へ行く様に下手に出て会話しなくてもいいし、それをダシに手のひらで踊らされなくてもいい。僕の言う事やる事に、怒ったり笑ったりするマリカの顔を見る事も、ない。
安寧の一か月と少し。その間に勉学に励もう。神社に居候している環の気晴らしもしてやりたい。マリカの入る余地など作るものか。
しかし、僕がそう思っていた事を、先生はお見通しだった様だ。
あと数日で夏休みに入る頃、先生が僕に言った。
「早乙女さん、もうすぐ夏休みですが、気を抜かずに九条さんへ説得してね。夏休みこそ、じっくり説得するチャンスよ」
まるで、受験勉強の話をする様子だった。
そう言われて、僕は初めて先生に反抗的な気持ちを持ってしまった。その位、今僕はマリカと関わりたくなかったのだ。
「でも先生、マリカは卒業なんかどうでもいいという意見なんです。……卒業してもしなくても、アイツは幽霊ですし……先生の責任感は尊敬しますが、もう相手にしなくてもいいのでは?」
僕がそう言うと、先生はグッと肩を張った。
「まぁ、諦めの気持ちに負けるのは良くないわ」
「諦めではなく、もうあんなヤツを先生が気にかけなくてもいいと思ったんです。心残りでしょうが、気に掛ける値の無いヤツもこの世にはいるんですよ」
「早乙女さん……! 何て事を言うの!!」
先生の鋭い声に、僕は身を竦めた。しかしすぐに、言い返してしまった。僕は本当に、もうマリカと関わりたくなかったのだ。
「あんな気ままなクソ女、どうしてそんなに卒業させてやりたいんです? 先生はその想いだけで十分アイツに義理は返せていると思います!」
「雅弥さん……」
「先生はもう十年もアイツを気にかけたでしょう? アイツはそれを無下にしてきた。もう放っておいていいと思います」
僕の訴えに、先生は首を横に振る。重たそうな黒髪が、束で揺れた。そうすると、こけて艶の無い頬がチラリと見えた。―――先生は太れない体質で、痛々しい程痩せている。僕はこんなに細い先生を、守ってあげなくてはという気持ちになる。
先生が僕を見上げた。やせ細って青白い先生の細い目が、少し潤んでいた。
「雅弥さん、違うの。九条さんの卒業を心残りと言ったけれど―――もちろん、心残りではあるのだけど、本当の目的は卒業じゃないの」
「え?」
「私はね、……この村でこんな事を言っていいのかしら……あの、雅弥さん、これから私が言う事がタブーだとしても、怒らず黙っていてくれる?」
「……なんでしょう?」
「お願い、黙っていてくれる?」
先生が妙に念押しをした。僕は訝しりながら、頷いた。
先生の為なら、どんな秘密だろうと黙っていられる自信があった。
先生は僕の目を探る様に覗き込んでから、静かに言った。
「先生はね、九条さんを成仏させてあげたいのよ」
*
マリカが環へ幽霊カミングアウトをしたあの日、僕は家へ帰ろうと門守さんの家を出て、神社の境内を歩いていた。
日の落ちかけた境内は木々が茂っており薄暗く、虫がそこかしこで鳴いていた。
村へ降りる石段へ向かっていると、どこからかすすり泣く声がした。
なんだと思い耳をそばだてると、拝殿の方からだった。
僕の耳は、そのすすり泣きの主がマリカだと察知していた。
少し迷ってから、拝殿へ足を向けた。
環があまりにも驚き悲鳴を上げていたので、実はマリカが傷ついてしまったのではないか、と思ったからだ。
環に悪気が無かった事を、弁解しておいてやらなければ。
しかし、拝殿へ近づいた僕は慌てて木陰に身をひそめた。
確かにマリカはすすり泣いていた。
しかし、僕が慰めるべきマリカはいなかった。
そこには門守さんがいた。
マリカは門守さんの腕の中で、肩を震わせて泣いていたのだ。
門守さんはすすり泣くマリカの髪を撫で、何か優しい声で宥めていた。
――――マリカとジンは高校の頃、良いカンジだったんだぜ。
叔父さんの声が頭で響き、僕は口を押えてその場から足早に離れた。僕の動きは我ながら冷静で静かだったと思う。
しかし、頭の中は喧しかった。
マリカが門守さんに泣きついていただけだ。
門守さんは村の長として、マリカの面倒を見ていただけ。
だけど、門守さんとマリカは同じ年の男女で、昔恋仲で……。
僕は、門守さんの、マリカの髪を撫でる手つき、慰めようと彼女の顔を覗き込む表情を思い返すと、どうにも気に食わなかった。
汚らわしいと思った。それを受け入れているマリカも。
ずんずん歩きながら、知らない内に包みを持つ手に力が入った。すると、中身の温かさが伝わって来た。
うちの夕飯を気にして、澪さんが包んでくれた料理のぬくもりだ。
包みを渡してくれた澪さんの、優しい微笑みが脳裏に浮かんだ。
僕は堪らず草むらに分け入り、膝を突いて吐いた。
僕、なんで吐いてるんだ?
そんな事を思って少し笑った。
マリカならやるんだよ、ああいう男を惑わす事を。清良叔父さんにだって、そうだろ?
そう思ってみたら納得出来ると思ったのだが、全然気持ちが治まらなかった。それどころか、目から勝手に涙が垂れて止まらなかった。これまでマリカと関わった数少ない事柄が腹立たしくて仕方が無くて、それらに感じた感情全てを返して欲しくて堪らなかった。
僕は腕で口を拭って立ち上がると、のろのろと帰路についた。
悪霊め、淫乱め、嘘つきめ、性悪め……心の中でマリカを罵れば罵る程、何故だか惨めで孤独だった。
*
「どうしてこの村の誰も、九条さんを成仏させてあげようとしないのか、不思議なの。この村で希少な存在という事は分かるのだけど……」
先生がヒソヒソと僕に打ち明けている。
僕は上の空で相槌を打っていた。
そうか、成仏。
そうすれば、もうマリカは僕を煩わせない。
先生の事も、門守さんの事も、澪さんも、マリカがいなくなれば元通りだ。
そんな事を思っていた様に思う。
「だからね」
と、先生が言ったので、僕はハッとして先生の顔を見た。
先生は小声で僕へこう言った。
「もしかしたら、卒業ができたら……って思っていたのよ。ごめんなさい、ちゃんと説明していなくて……村人だけのタブーがあるかもしれないと思うと、雅弥さんに言うのを躊躇ってしまって……」
「……いえ、幽霊を成仏させてはいけないという話は聞いた事がありません。しかし、卒業が成仏の鍵になるかどうか……留年を全然気にしていなかったし」
「そうよね……。九条さんは成仏したくないのかしら」
「うーん、無茶苦茶毎日楽しんでますからね」
「……そう。九条さん、毎日楽しそうなの……」
「かなり」
「どうしたら成仏させてあげられるのかしら。卒業は切っ掛けにならないかしら。三年生になって清良さんや門守さんと、卒業を迎える事を楽しみにしていたハズなのよ。春にも伝えたけれど、先生は今年で村を去るから何でもいいから試してみたいの」
僕は先生の誠実さに、心が洗われる様な心地になって微笑んだ。先生は、本当に良い先生だ。
「先生の『なんでもいいから』が『卒業』なのが、先生らしいですね」
「ふふ、だって私は教師だもの。成仏の事を差し置いても、卒業はさせてあげたいわ。ねぇ雅弥さん、夏休みは学校へ誘いつつ九条さんの心残りを聞いてみてくれないかしら?」
先生が懇願する様に両手を合わせて言っている。
僕は「分かりました」と、答えた。
田舎の蛙の鳴き声を知っているか?
ゲコゲコなんてものじゃない。
この世じゃないと錯覚する程の、圧倒的な音の沸き立ちなんだ。大勢の僧侶が一斉にお経を唱えたら、きっと同じ音だろう。
僕はその沸き立つ低音の中、自転車を漕いだ。
――――成仏。そうか、成仏。
頭の中はその二文字で占領させていた。
マリカが成仏。
もしもそうなったなら、僕の心は凪ぐだろう。
なんの悩みも痛みもなくなって、蛙が何匹いようと世界は静かになるだろう。
僕はそう思った。
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