着到

着到・朱顔拓

 その夜、ソレがお囃子を聞いたのは久しぶりの事だった。

 ソレはなんらかの忌まわしい力で耳を塞がれていたが、このお囃子だけは無視できないほどにソレの中で鳴り響くのだ。

 ひとたび聞こえてくると、ソレは居ても立ってもいられなくなってしまう。

 高く伸びやかな笛の音に誘われ、太鼓の拍子に急かされ辿り付いた先は、4畳半程の畳の間であった。

 ソレは目も潰されていたので知る由もないが、襖の隙間から光を細く細切れに漏らしている隣の座敷からは、家主が会食でも行っているのだろうか、明るい声が飛び交っている。

 襖一枚隔たれた先に人がいようがいまいが、ソレにはどうでもよい事だった。お囃子の元はソレの足元に転がっていた。

 お囃子の元へ向かい、ソレは殊勝な妻の様に三つ指ついて頭を下げた。

 柔らかな乳の匂いを微かに感じながら、ソレは泣いた。

――――どうして分かってくださらないのですか。

――――まただれかのモノになるおつもりですか。

――――あなたが絶えてくださらなければ、わたしも絶える事ができません。

――――ああ、あなたのお顔、なんて柔らかで甘い……小さな唇、歯の無い歯茎、喉の奥のなんと温かいこと。

――――声も出ませんか。わたしもです。さあ、行きましょうね、絶えましょう。

 ソレの中で拍子木の二度打つ音が響いた。

 途端、お囃子の元が冷たくなって、聞こえなくなってしまった。

 無情にも打ち出しの太鼓が鳴り始めて、ソレは慌てた。

――――どうしたんですか。

――――どうしたんですか。

――――どうしたんですか。

――――帰りませんよ。

 お囃子の元だったモノを、縦にも横にも振ってみる。それでも音が鳴らないので絶望して地べたに押し付け覆いかぶさると、小さな丸い部分を鷲掴み、どうして、どうして、と、狂ったように頬ずりをした。

 ずり、ずり、ずり、ずりずりずり。

 お囃子は再開しない。

 わなわな震えて持ち上げると、唯一潰された目でも視覚出来る血が見えた。

――――どうして!

 怒りに任せて鷲掴んでいるモノを、足元に叩きつけた。

 ぺたん。

 ソレの視界に、小さな赤い顔が浮かび上がった。

 その時のソレの、嬉しかったことといったら。

 


 ドドン、と、大きな太鼓の音がして、私は飛び起きた。

 まだ真夜中だった。太鼓の音なんてまったく鳴っていなかった様で、部屋の中はとても静かだった。

 けれど、私の胸はドキドキしていて、もしかしてコレが太鼓の音に聞こえたのかなぁと思った。

 なんだか怖くて、私は『杏珠、杏珠』ってお守りみたいに名前を呼んだの。

 そしたらね、私の顔の真上の天井に、ペタン、て何か赤いものがついたの。

 思わずよく見ると、それは小さな顔の跡だった。

 表情は判らないけれど、口をぽっかりいびつに開けてるのが判った。

「ひっ」

 と、声を上げた私の頬に、顔の跡からツー……と血が垂れて来た。

 私は驚きすぎて声を出せなくて、やっぱり必死に『杏珠、杏珠』って名前を呼んだ。

 でも、杏珠の名前を呼ぶたびに顔の跡が増えるの。

 私は堪らず布団から飛び出して、ぶつかりながら出入り口の襖を開けた。

 そしたら廊下に出るハズなのに、そこは小さな和室だった。

 呆気にとられる私の目の前には、早乙女家のお化けがうずくまっていた。

「……え、え?」

 私は戸惑って、元居た部屋へ後退った。

 早乙女家のお化けは、いつもなら私がいると逃げ出しちゃうのに、今は全く私に気付いていなかった。

 何かに夢中みたいで、畳にうずくまってゆっくり円を描く様に動いてたの。何かを畳に擦り付けている様子に見えた。

 静かな部屋に、ずりずり、っていう微かな音だけがしてた。

 目が離せずにいると、ゆらゆら揺れて、むっくりと起き上がった。

 手に何か掴んでる。

 顔の皮が剥けて血だらけの小さな赤ちゃんだった。

「ひ」

 私は足の力が抜けて、へたり込んじゃった。

 早乙女家のお化けは、私に全然気づいていなかった。

 彼女は突然赤ちゃんを顔から畳に打ち付けた。動きになんの迷いもなかった。

「やめて!!」

 赤ちゃんが持ち上げられる。ぶらん、と小さな頭が揺れる動きに合わせて、捲れた顔の皮も揺れてた。

「やめてったら!!」

 ぺたん。

 赤ちゃんの顔が畳に押し付けられて、私は手で目を覆う。

 畳にべっとりと小さな朱い丸が付いた。

「いや!!」

 ぺたん、ぺたん、ぺたん。

 何度もやる度に、小さな朱い丸に目鼻が見えてきた。

「やめてよ!!」

 早乙女家のお化けは笑ってた。ううん、笑ってたっていう言い方が合っているのかわからない。見開いた目からは、涙を零していたから。でも、口は笑っているんだよね、シューシュー息を吐いてた。とても苦しそうなのに、気持ちよさそうなのも分かっちゃって、私はものすごく腹が立った。

 怖さよりも怒りが勝って、ひっつかんで止めさせようとした途端、私の部屋の襖がパシンと閉じてしまった。

 襖が閉まるわずかな間にも、早乙女家のお化けは夢中で赤ちゃんの顔を畳にぺたんぺたんとやり続けていた。

 私は急いで襖を開けた。

 あの小さな和室へ、あの後誰が来るのか分かったから。

 もう、どうしようもないのは分かっていたけれど。

 だけど、勢いよく開けた襖の向こうは、いつもの廊下だった。

 

 *


 許せない。

 あんな事!!

 許さないから!!

 同情してた分だけ、許せなかった。

「うううぅあぁ!!」

 唸って飛び起きると、再び静かな部屋の中だった。

 襖もピタリと閉められている。

 私は息を切らして、天井を見つめた。

 血糊―――あれは血だ、絶対―――の顔を探したけれど、どこにもなかった。

 ドン、ドン、ドン、と心臓が鳴った。

 気持ちが高ぶってしかたがなかった。

 頭に血がのぼるってこういう事をいうのかな。

「あんな事、許さない……」

――――どこにいる。どこだ。

 荒々しく怒ってそう思った。 

 私の怒りに応えるみたいに、ピー、と細い笛の音が聞こえて来た。

 カン、カン、カン、と木板を打ち合わせる様な音もする。

 私は布団から踏み出して、庭へ続くガラス戸を開けた。

 微かに力強くなった笛の音が、夜風と共に私を誘った。

 私は裸足で庭へ出た。

 太鼓の音も小刻みに聞こえ出す。

 ああ、あの大きな太鼓の音は、やっぱり現実でも鳴ってたんだなって、そんな事を思った。

 私は音のする方へ駆けた。

 音は和風の曲だ。すごく聞き覚えがある。ええとね、お祭りで鳴っているのと同じ様な曲。お囃子っていうんだっけ?

 村でお祭りでも始まった?

 こんな夜更けに?

 不思議に思ったけれど、私はお囃子に誘われて、神社のお山を駆け降りて行った。



 お囃子に誘われて辿り着いた場所は、ミーちゃんのお家だった。

 だけど、ミーちゃんのお家は明かりなんてついていないし、周りももちろん真っ暗。それでも、私は不思議と目が見えた。

 お囃子はやっぱり真っ暗なミーちゃんの家の中から聞こえてくる。

 玄関は戸締りがされていて、戸を開ける事が出来なかった。

 だけど、私はお囃子の誘いをどうしても我慢できなかった。

 庭に周り込むと、キヨラさんの部屋の縁側のカーテンが、開けられたガラス戸の隙間からはみ出てヒラヒラ揺れていた。強くなるお囃子に合わせて誰かが手招きしているみたいに見えたけれど、私は怖くなかった。だって、怒っていたからさ。

 キヨラさんの部屋へ飛び込むと、お囃子がヒュッと高い笛の音を立てて急に止んだ。

 虫の音だけが騒めいている中、目の前に、早乙女家のお化けがいた。

 早乙女家のお化けは、キヨラさんの顔を覗き込んで、今にも身体に手を触れそうだった。

 私はそれより早く、早乙女家のお化けに飛び掛かった。

 早乙女家のお化けは私に気づくと空洞の目を見開いて、逃げ出すしぐさをした。

 だけど、私はそれを許さなかった。

 彼女の長い髪を掴んで、引いた。

 彼女はあっけなく床に倒れた。

 私は憎しみを籠めて彼女を見下ろした。

――――杏珠、杏珠……私の兄さん。

「お前か、お前なんだな」

 私はそう言って、彼女へ腕を振り上げた。

 身の程知らずが、と、思った。

 だって、私の方が強いって門守さんも言ってたでしょ?

 こんなお化け、私がやっつけてやる。

 私は自分の顔が、笑っているのを感じた。

 なんだか楽しくて仕方が無かった。復讐って楽しいでしょ?

 だけど、いざ、彼女目掛けて拳を振り下ろした時、私の腕がピタリと止まった。

――――違う。私のは、コレではない。

 心の中でそう言う自分がいた。

 私は自分の心の中の声なのに、物凄く心外に思った。

――――いや、いや。コイツは杏珠をあんな目に……!

――――違う。コレは私のと違う。

――――いや! ああ、逃げるな!!

 私が腕をピクリとも動かせない間に、早乙女家のお化けが逃げてしまった。

 私は悔しくて、涙が込み上げて来た。

 その時、キヨラさんが唸って寝返りを打ったんだ。

 私はハッとして、慌てて庭へ飛び出した。

 東の空が薄っすら明るくなっていて、星が薄く光ってた。

 夢中で神社へ駆けている内に、だんだん起こった事が怖くなって来て、なんだかそれがすごく悔しくて、嗚咽しながらお山を登って行ったんだ。



――――どこだ、どこにいる。

――――震えて待ってろ。

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