⑧
めまぐるしく春が去っていった。
村を囲む山肌は柔らかな緑から濃い緑へと茂り始め、それを雨が磨いてゆく。
僕は相変わらず、マリカとの追いかけっこをしていた。
マリカは僕がすぐに諦めるだろうとタカを括っていたのか、初めは面白がっていたが、なかなか諦めない僕に本気を出し始めた様子だ。
今までの僕の悩みが嘘みたいに、マリカは僕に寄りつかなくなったし、探さないと視界にも入らなくなった。
本来この事態は歓迎すべき事なのだが、彼女を学校へ登校させなければいけない使命を持っている今は、すこぶる具合が悪い。
なんて思い通りにいかない奴なんだろう。
マリカは遠目から僕の姿を発見すると、全力で逃げ出すようになった。
もちろん、僕も全力で追いかけた。
マリカは獣みたいに藪に突っ込んで姿をくらましたり、山の中に逃げ込んで樹齢何百年かの楠から降りて来なかったりと、僕を手こずらせる。
僕だって木登りくらい出来ないワケではないが、マリカは締縄が回されたご神木を選んで登ってしまうので、たちが悪かった。
N村で締縄がされているご神木といえば、登る事はおろか、下手に触れてもいけないので、そこに逃げられてしまうと手も足も出せない。
「アッハハー! ここまでおいで!」
見上げるしかない僕を、マリカは遥か上の方からあかんべーをしてあざ笑う。
「ご神木に登るなよ!」
「ゴシンボクニノボルナヨー」
「真似するな! 降りて来い!」
「マネスルナ! オリテコイ!」
「学校にいけよ!」
「やーだーねー!」
そうこうしていると、マリカを援護するように激しい雨が降ってきてしまい、諦めるしかなくなってしまう。
ご神木から降りてくるまで待ってやろうか、とも考えたが、僕にだって色々とやる事がある。
なにより、梅雨にマリカの深追いは風邪の元だと、雨に打たれながら思った。
風邪などしょっちゅうひいていたら大変だ。
小遣い稼ぎが出来なくなるし、熱が出ている者でもこき使うのが叔父さんというものだからだ。
梅雨が明けるのを待つ事にしよう。
頭上から、雨と共に「キャハハ」と笑い声が降ってきて、腹が立つが仕方が無い。
僕は「覚えてろよ」と、負け犬の遠吠えめいた捨て台詞を吐くしかなかった。
*
雨が降り続いた週の週末、買い出し当番が回ってきた。
町へ降りて、各家庭で必要な食料や日用品などの買い出しをしに行く当番だ。
世帯ごとの必要なものリストを預かって、年期の入った幌付き軽トラ数台で町へ降り、買い物をするのは、楽しい行楽行事にも似ていた。
環がその買い出しを珍しがり、何やら自分の必要な日用品を係の僕に知られたくない様子だったので、見学も兼ねて同行させる事になった。
環は軽トラの荷台に乗り込み手を差し出す僕に目を丸くして、おっかなびっくりといった様子で荷台に乗り込んだ。
「い、いいの……?」
「なにが?」
「だって、荷台って乗っちゃ駄目なんじゃ」
「幌で見えやしないよ。帰りは荷物で狭いからキツいぞー」
僕はそう言って、環に座布団を渡してやった。
環はトラックの荷台が珍しいのかソワソワしながら頷いて、奥の方に座った。
僕は荷下ろし側に座って環を誘う。
「こっちの方が外が見れるぞ」
「いいのかな……」
「山道で誰が見るっていうんだよ」
「うん……」
腰をかがめてソロソロと荷下ろし側へ環がやって来たところで、エンジンがかかって車体が揺れた。
「きゃ、わわわ……」
慌てる環が可愛くて笑っていると、幌の外から僕を呼ぶ声がした。
「ミヤビ~、どれに乗ってんのー」
その声に、僕の耳どころか神経全てが集中した。
「あれ、マリカの声じゃない?」
環が僕が止める間もなく、幌から顔を出して手を振った。
「マリカー、ここだよー!」
「あ、タマキだー!」
環とマリカはやたらと打ち解けた様子で、キャッキャと挨拶をしている。
僕からは風の様に逃げ出すくせに、いつの間に仲良くなったのやら。
環は叔父さんにも他の人より好かれている様子だし、不思議な子だ。
「タマキも買い出し行くの?」
「うん。今後の為の見学とお手伝いに連れて行ってもらうの」
「ふ~ん、いいなぁ」
僕は環とマリカの間に割って入った。
「何か必要な物があるのか? お前の家はいつも自分で行くだろ」
マリカの家は、自家用車で町まで買い物に行くから、村の買い出しに頼った事がない。そういえば、誰が買い物に行っているんだろう。
「何かすぐ必要な物でもあるのか? あるなら買ってくるけど」
「うん。お願いしてもいい?」
「なんだ?」
マリカは頬を艶々させて、ファッション誌を取り出し、ページを開いて見せた。
開かれたページには、色とりどりの爪の写真が、大量に載っていた。
「……え、なんだこれ?」
ゾッとして身を引かせる僕の横で、環が身を乗り出す。
「マリカ、つけ爪が欲しいの?」
「うん!!」
「どれがいいの? 全く同じのはないかもしれないけど……」
「んっとねー、ギラギラのやつがいい! ギラギラならなんでも!」
「ラメのやつ?」
「うん!」
なんか、いつの間にか環の方がお姉さんみたいな関係になっている様子だ。
それよりも、マリカの奴、爪なんか買ってどうするんだ?
まさか僕を呪うつもりじゃないだろうな……?
「ちょっと待て。食料や日用品じゃなきゃ個人の金で買えよ」
「えー、ケッちぃコト言わないでよ頼むよ~!」
僕が爪の代金請求の為に差し出した手のひらを、マリカはギュッと両手で包み込んで媚びを売ってきた。
「駄目だ。神社の金を無駄遣い出来ないし、レシートをリストと照合したら引っかかる。手を揉むな!」
「お願いだよ~、頼めるのはアンタくらいなんだから~」
「文無しかよ」
「そそそ。私幽霊だから、ママにお小遣いもらえないし~」
マリカのその台詞に、僕は声に出さずにウッとなった。
軽い調子で言っているが、彼女の台詞の背景を僕は知っている。
幽霊だから、なのは確かにそうなのだが、幽霊だから認識してもらえなくて小遣いがもらえないのだと。
コンビニの酒井さんは、きっとこの事を知っていて、マリカに立ち読みを許したり、雑誌を無料であげたりしていたのだろう。
マリカの手を振り払った後、僕はコソッと環に聞いた。
「爪なんかどこに売ってるんだ?」
「ドラッグストアとかに売ってるよ」
僕は目を見開いた。ドラックストアに爪が売っているとは。
呪物ではなく、深爪をしてしまったり剥がれてしまったりした時の医療用品なのか?
医療用品なら必需品だから、買い出し品目に含めても問題が無い。
でも、大人達じゃなく僕にしか頼めない、と言っていた事が気になる。
実物の精査が必要だ。
「高いのか?」
再び環へ小声で聞くと、環は怪訝そうな顔をして、
「千円くらいかな……?」
「千円か……分かった、なんとかする」
マリカがパッと顔を輝かせた。しかし、僕は畳み掛けるように交換条件を出した。
それはもちろん、
「その代わり、学校へ行け」
マリカは途端にワサビを大量に口に入れてしまったオッサンの様な顔をしたが、どうしても爪が欲しいみたいで、唇を尖らせながらも答えた。
「わかった。考えとく」
やった! ついに!!
僕はガッツポーズを取りたくなるのを我慢して、「うむ」とだけ答えた。
*
大人達の準備が整って、三台の軽トラがノロノロと発車し始めた。
マリカは僕の乗った軽トラの後ろをしばらく追いかけながら、「よろしくねー!」と、手を振っていた。
彼女の姿が見えなくなって、村の入り口を出て険しい山道に入る頃、環が僕に尋ねた。
「お母さんから説明はされてるけど、本当に神社のお金で買うの?」
「そうだよ。生活必需品や食料は神社もちだよ」
「どうして神社が村の人にお金を出すの?」
また環の「どうして」が始まった。
「どうしてって……村の世話は神社がするものだろ?」
「町の神社は、買い物のお金なんて払わないよ」
「そりゃあ、町の神社では無理だよ」
僕がそう言うと、環は迷子の様な顔をして「……ふぅん」とだけ言った。
環は「どうして?」の後、僕が問いに答えるとこういう顔をする。その顔を見ると、僕まで少し心許なくなるから不思議だった。
何を不安がっているのか、環の気持ちを掴めない。
さっきの僕とマリカのやりとりを聞いて、買っていい物と駄目な物の境目が分からなくて不安なのかもしれない。詳しく説明してやるべきだろうか。
「娯楽用品みたいなやつは駄目なんだ。生きるのに必要ないものだから。買っちゃ駄目って訳じゃないぞ。心の潤いは必要だから自分の金でなら、好きな物買っていいんだ。禁止されてる牛肉や、つげ櫛とかは駄目だけど」
「……う、うん」
何が気になるんだ、環。
何も不安がる事なんてないぞ。
「量も家族構成を考慮して、常識の範囲内なら好きにさせてもらえるし、食いたい物食って大丈夫だぞ。酒類はひと月にワンケースまでいいし……牛肉は駄目だけど」
「牛肉だめなんだね」
牛肉はスマン、駄目なんだ環。
う、まさか桜の下で牛肉食ったりしてないよな……?
折角この買い出しを楽しそうにしていたのに、環の表情が少し曇っていく。
僕は環が喜びそうな事を言ってやりたくて、今日の買い出しで一番の目玉の大型冷凍庫の話をした。
「今日は大型冷凍庫を買いに行くんだぜ」
「大型冷凍庫?」
「ああ。渡来さんとこが、猪をまるごと入れられる様なデカいヤツが欲しいって、前から言ってたんだよ。最近新商品でいいヤツ出たみたいでさ」
村では大人達がその話で大盛り上がりをしていた。
村の大人達は、新入りの家電にワケもなく浮き足立つように出来ている。
もちろん、僕も大型家電にワクワクする。
しかし、環は怪訝そうな顔を止めてくれなかった。一緒に胸を躍らせてくれると思ったのだが……。
「家電も神社が買ってくれるの?」
「生活必需品だからな」
因みに、光熱費や学費や税金も、寺が管理し纏めて支払いをしてくれている。
僕たちはそれが普通だったし、後ろめたさもない。
かといって、個人に資産がないわけじゃない。
ご先祖様が残してくれた財産を引き継いでいるし、各世帯にかつて寺から配分された不動産収入もある。
「不動産収入?」
「地主って分かるか? N村の神社は、山の周りの町一帯の大地主なんだよ。各町の主要な土地の所有権を辿ると、ほとんどあの神社に辿り着くと思うよ」
「ええ……!?」
「神社が土地を運用するのは、普通だと思うぞ」
その土地を僕らに分けてくれて、僕らは収入の何割かを寺に納める形になっている。だから後ろめたくない。手堅い人はそれを元手に更に資産運用したりしているみたいだ。
コンビニの酒井さんは、親の遺産の少しを元手に村で商売を始めたしね。
コンビニは、買い出しで買えない嗜好品が色々売っているから助かる。
買い出しの際に別精算の手間が省ける上に、他人に干渉されずに好きなだけ嗜好品を買えるからな。少なくとも早乙女家は、「煙草と酒をどんだけ買うんだよ」などと言われていないだろうか……という不安が解消されている。
環は目を丸くして僕の話を聞きいていた。
「林業や農業で成り立っているのかと思ってた……」
「村の自給自足分しかやっていないよ」
「そうなんだ……でも、そういう事なら少し納得」
環は金の出所を気にしていたらしかった。
なんだそんな事、中学生が気にする事ないのにな。環は本当に良い子だ。ハトコとして鼻が高い。たかってくるマリカとは大違いだ。
だから僕は町へ降りると、知っている土地に通りかかる度に環に教えてやった。
「あの工場の土地は神社が貸してる。あの倉庫も、あの店も駐車場も。あの大型ショッピングモールの土地は売ったんだったかな……」
「ぐるっと囲ってる駐車場だけ貸してるよ。滅多に売らないんだが、もの凄く粘ってきたらしい」
僕らの会話を運転席と助手席から聞いていた本間さんと
二人共、少し前から、会話に加わりたかったみたいだ。
それから僕以上に土地の所有者に詳しい二人は、あそこは誰々さんのだ、あれはアッチからコッチまでが誰々さんの……などと誇らしげに喋ったり笑ったりしていた。
僕は色々聞けて楽しかったが、環はと言うと……再び表情が引きつってしまっていた。
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