翌朝、私を迎えに来てくれたミーちゃんは、酷く体調が悪そうだった。

 田んぼに落ちてしまったと言っていたから、身体が冷えて風邪をひいちゃったんだと思う。

 水の流れる溝に落とされて、凍えながら家に帰った日の記憶がまだ新しい私は、ミーちゃんに同情をした。

 ミーちゃんはフラフラと自転車を漕いでいたけれど、川の辺りで気分が悪くなっちゃって、自転車を止める事になった。

 ミーちゃんは土手に座り込んでしまい、「動けん」と小さな声で言った。

「大丈夫?」

「ん……、ちょっと目眩がするから、環だけ先に行きな。自転車乗っていっていいから」

「でも……家まで引き返すなら付き添うよ?」

 大丈夫だから、と、ミーちゃんが無理に笑って見せる。

 全然暑くなんてないのに、ミーちゃんの額を汗の粒が覆っていた。

「遅刻するから、早く行きな」

 ミーちゃんはそう言った後、ズルズルと河原の土手に寝そべってしまった。

「ミーちゃん、ミーちゃん……」

 私はオロオロして、寝そべったミーちゃんの顔を覗き込む。

 ミーちゃんは汗だくだった。

 水分補給という言葉が頭の中に浮かんだ。

 でも、まだそれほど暑くないし、今日もお昼までの登校だから水筒を持ってきていない。

 せめて汗を拭ってあげようとハンカチを取り出し、冷たい方がいいかもと、思いついた。

 サラサラと流れる浅い川の流れに、ハンカチを浸して絞る。

「よし、ミーちゃ……」

 急いで振り返った私のすぐ目の前に、女の子の顔があった。

「え、キャッ!?」

「なにしてんの?」

 女の子は驚く私に、気軽な調子で聞いてきた。

 もの凄く可愛い女の子で、外国のお人形みたいに大きな目がキラキラ光っている。

 高校の制服を着ているから、私より何歳か年上みたいだ。でも、華奢な身体をふわふわ左右に揺らしてポニーテールを踊らせている様子は、年上のお姉さんっぽくなかった。

「ねー、登校しないの?」

「……」

 思わずボウッと見とれていると、目の前でパンパンッと手を叩かれた。

 ハッと我に返る私に、お姉さんは可愛い顔をグッと近づけて言った。その時、ふわんと良い香りがした。

「オリャオリャ、遅刻すんよ? それともサボり?」

「あ、あの、違うんです。ミーちゃ……一緒に登校してた人が具合悪くなっちゃって……」

「えー、事件じゃん。どこ」

 私はお姉さんを連れて、ミーちゃんの寝ている場所まで行くと、汗でびっしょりになっている額を冷たいハンカチで拭いてあげた。

 ミーちゃんは薄く目を開けて、呻いた。

「環、早く学校行けって」

「でも……ほっとけないよ」

 脱力した表情のミーちゃんに、影がかかった。お姉さんが、ミーちゃんを上から覗き込んで言った。

「なんだ、ミヤビじゃん」

 彼女の声を聞いた途端、ミーちゃんがカッと目を開けた。

「ウグ、マリカ……何故……」

「やほー、おはよ!」

「あ、知り合いですか?」

「うふっ、クラスメイトなのん」

 お姉さんは何故か身体をクネクネさせて、ぶりっ子な声を出す。

 私はホッとした。クラスメイトなら、ミーちゃんの体調不良を先生に連絡してくれるだろうと思った。

「よかった。学校に登校したら、ミーちゃんの事を先生に連絡してくれますか?」

 私が彼女へお願いすると、「やだ!」と即座に断られてしまった。

「え……でも」

 ミーちゃんと仲が悪い人なんだろうか。

 そういえば、ミーちゃんは更に具合が悪そうな顔をして、彼女と目どころか顔すら合わせようとしていない。

 二人を見比べる私に、お姉さんがニッコリと微笑んだ。

「アンタが先生に報告すればいいよ。私がミヤビの面倒を見るからサ!」

「でも、そうしたらお姉さんが学校に遅れちゃう」

「んふーっ! ねぇミヤビ聞いた? 私の事、お姉さんだって!」

「……失せろ」

 ミーちゃんがうつ伏せになって、頭を腕で抱えて言った。やっぱり仲が悪いのかも。

 お姉さんはミーちゃんの態度なんて全く気にせず、私へ胸を張った。

「私は、ここ十年学校に行ってないから、今日登校しなくっても大丈夫! だからアンタは学校へ行きなさい」

 有無を言わせない勢いだったので、私はミーちゃんを見た。

 ミーちゃんは何とも言えない諦めの表情で、「環、行きな」と言った。

 二人に言われて、私は後ろ髪引かれる思いでミーちゃんの自転車にまたがった。

 丸太橋をガタガタ渡っていると、背後で「ほれ、川で冷やしたシュワシュワ飲む?」と、お姉さんの明るい声が言っていた。

 ミーちゃんの返事は、聞こえなかった。

 それにしても、と、自転車を漕ぎながらクスリと笑う。

 あのお姉さんったら、十年学校に通っていないなんて変な嘘!

 きっと、楽しくて優しい人なんだろうな。私はそう思った。



 学校へは、なんとか間に合った。

 私の学年は、全員で八人しかいなくて、女の子は私と北城杏美きたしろ あずみさんという名前の子だけだった。

 北城さんはずっと女子一人だったから、私が転校してきた事が嬉しいみたいで、凄くから、とても煩かった。距離の取り方が勢い余っちゃってる。私も町の中学で上手くやれなかった方だから、人の事をとやかく言えないけれど。

 今週の授業は午前中までだからいいけれど、通常授業になったらと思うと少し気が重かった。

 これから、常に北城さんとペアになる。あぶれる心配をしなくていい反面、息が詰まってしまうかも。

 北城さんの勢いが、最初だけでありますように、と、願わずにはいられなかった。

―――本音を言うと、私は、まだ友達をつくる気になれなかったんだ。 

 だから、下校時間になって「一緒に帰ろう」と言われた時に断ってしまった。

「ごめんね、急いで帰らなきゃいけないから」

 これは本当の事だった。ミーちゃんがどうなったか、早く知りたかった。

 それに、北城さんは歩きだから、自転車に合わせるのは辛いよね。

「そうなんだ。どうしたの?」

「親戚が体調を崩してて……」

「親戚……? ああ、そっか。早乙女さんの……」

「うん、私も早乙女」

 答えながら、接点のない高校生の顔や名前でも、なんとなく分かるんだ、と、驚いた。学生が少ないし、登下校ルートも一緒だから覚えてしまうのかも。

 北城さんは「そっかー」と言って、喋り続けた。

「早乙女さん格好いいよねぇ。いいなぁ親戚でー」

「あはは……うん。優しくて頼もしいんだよ」

「いいな、いいなー。今度、三人で帰ってもいい?」

「あー、うん……聞いてみる……」

 早く帰ってミーちゃんの様子を見に行きたいのに。

 まだ土手に寝転がっていたらどうしよう。あのお姉さんはちゃんとミーちゃんを助けてくれたかな。

 北城さんのお喋りが途切れない。私も上手な切り上げ方を知らない。

 とりあえずジリジリと自転車置き場へ向かっていると、そっちの方からミーちゃんの自転車に乗って、あのお姉さんが現れた。 

 お姉さんは私を見つけると、自転車でシューっと走って来て、私の目の前で止まった。

「みーつけた、はよ帰ろー」

「お姉さん!」

「ん、アンタ自転車こいでね」

 お姉さんはそう言って、私に自転車を固定させると荷台に横座りになった。

 私は、「じゃあ」と、北城さんの顔を見た。

 北城さんは目を見開いて、お姉さんを見ていた。

「北城さん……? また明日ね?」

「あ、ウ、ウン。さよなら、早乙女さん……」

 北城さんは急にしおらしくなっていた。

 それから、上の空で私へ挨拶をした。

 どうして上の空なのかというと、彼女は私の方なんて見ていなくて、お姉さんをキラキラした憧れの目で見ていたんだ。

 気持ちは分かるけれど、そんなぁって気分だった。

 


 ミーちゃんは、無事に家に帰れたみたいだった。

 二人はしばらく土手にいて、通りかかった大人をお姉さんが呼び止め、リヤカーで運んでもらったみたい。

 田舎道を自転車で通り抜けながら、お姉さんはそういう説明と、自己紹介をしてくれた。

「私、マリカ」

 後ろからお腹の辺りに回された、細くて白い腕にちょっとドキドキしながら、私は彼女の名前をオウムみたいに繰り返した。

「マリカさん」

「マリカでいーよー」

「でも、年上だし」

「年上の言う事聞けよー」

 ギュウッと抱きしめられて、心を鷲掴みにされちゃった。

 北城さんと同じ様な距離感なのに、この可愛い人には、この距離を許せた。

「ねー、マリカって呼んでちょうだいよー」

 そんな風に言われて、私は胸を高鳴らせながら、大切にその名前を呼んだ。

「マ……」

「ま?」

「マリカ……」

「んふふ、なーにー」

 背中にネコみたいにすり寄られて、勝手に頬が熱くなる。

 マリカ、マリカ、マリカ……頭の中で、何度か呼んでしまった。

「えへ……あの、どうして私を迎えに来てくれたの?」

「あー、ミヤビに頼まれたんだ」

 私の心の中が、ポッと温かくなる。

「ミーちゃんが……」

「ウン。村に来たばっかだからって。アンタが町から来た子なんだね」

 マリカはそう言って、また後ろから私の胴を抱きしめた。

 それから、とっても元気よく大きな声で言った。

「ようこそ、N村へ!」




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