私のN村での新生活について

 村に戻る時、お母さんは私へ幾つかの事を言い聞かせた。

 その一つは、ミーちゃんとミーちゃんの叔父さんを、男性だと分かる呼び方で呼んではいけないという注意だった。

 雅弥君、ミー君、お兄ちゃん、みたいには、呼んではいけないみたい。

 私は元々ミーちゃんって呼んでいたけれど、ミーちゃんの叔父さんはどうやって呼べばいいのか、分からなかった。

「ミーちゃんの叔父さん」と呼ぶ以外、どう呼べばいいのだろう。

 首を傾げる私に、お母さんは教えてくれた。

「ミーちゃんと同じで、キヨちゃんとかキヨさんって呼べばいいよ」

「え、でも……馴れ馴れしいって思われない?」

「大丈夫、皆そう呼んでいるから。本人も分かってるしね」

「ふぅん。でもどうしてなの?」

 分からないの。と、お母さんは言った。

 その返事は軽い調子で、「なんか可笑しいよね」って笑ってすらいたけれど、私から逸らされた目は、軽い調子でも笑ってもいなかった。

 村で暮らすと決まってから、お母さんは人格が一つ増えたみたい。

 人格って言うと大袈裟かなぁ。

 優しいお母さん、怖いお母さん、楽しいお母さん、っている中に、もう一人加わった感じ。

 私はそのお母さんがどんなお母さんなのか、まだハッキリ分からずにいる。

 


 ミーちゃんの叔父さんの事は、キヨラさんって呼ぶ事にした。

 だって綺麗な名前だから。

 キヨラさんは、テレビで見る俳優さんよりもずっと素敵だった。

 ミーちゃんと同じ、縦幅のある切れ長の目をしていて、真っ白な白目の中で小さな黒目がグリグリ動く。黒目、忙しそうだなって思うくらい、グリグリ動く。

 カッと開いた目と不満そうに歪んだ眉毛が、浮世絵に描かれた男の人みたい。睨むみたいに人を見る。怒っているんじゃないって分かるのだけれど、ドキリとしてしまう。

 ミーちゃんも、よくこういう顔をする。

 小さな頃、怒られて不満な時とか、虫を捕まえようとしている時とか、次の遊びを考えている時とかにこういう顔をしていた。さっきも、コンロの火で手を温めながら、窓の外を見ている時に浮世絵顔になっていた。

 そういう顔というだけの事なのだけど、きっと、私以外の女の子が見ても、ドキリとしてしまうに違いないんだ。

 だからなのかな、ミーちゃんに似ている叔父さんはとても困った人らしいのに、嫌いになれない。

 親戚内の問題児という感じは、子供の私ですら一緒にご飯を食べているだけで分かるし、好きになれそうな所は一つもないのだけれど。

 今も、キヨラさんは東京で暮らしていた事を自慢げに話して、私の住んでいた町をド田舎だと馬鹿にして一人だけ笑っている。

 ミーちゃんが小さく「キヨさん!」と非難がましく言っても、「なんだよ?」って顔をしてる。とっても愛想笑いするしかない状況。

 愛想笑いは、私の今後の課題。

 もしもうまく愛想笑い出来ていたら、もしもうまく同調出来ていたら……町の学校で楽しく中学二年生になれていたんじゃないかなって、思うから。

 だから私は、キヨラさんに合わせて「ワハハ、ホントだね」って豪快に笑って見せた。

 ミーちゃんとキヨラさんが同じ顔で私を見るから、また笑えちゃって、もう一回「ワハハ」って笑った。

 そうしたら、キヨラさんの気難しそうな綺麗な顔が、パアッて嬉しそうに輝いたの。その嬉しそうな顔を見て、私、なんとも言えない気持ちになってしまった。

「だろ、だろ? 東京に比べたら、この村も町も一緒だぜ」

「うん、うん。東京で、キヨラさんは何をしていたの」

「知りたいか?」

「キヨさん、唐揚げおかわりどう?」

 身体を前のめりにするキヨラさんへ、ミーちゃんが何故か割って入った。

 キヨラさんはミーちゃんの事を視界にも入れずに、箸を舐め、私へ流し目を送りながら言った。

「ヒモ」

 とても誇らしげに言うから、私は一瞬意味が分からなかった。

「キヨさん!」

「ヒモ?」

「そうだ。なんだ、わかんねぇのか、ガキだな」

 キヨラさんは表情たっぷりに私を見下して、笑った。

「キヨちゃん、子供達の前でそんな話……」

 今度はお母さんが割って入った。ミーちゃんはすごく何かに耐えている様にグッと俯いている。

 なんだよ、と、キヨラさんが絞り出すように言った。その途端、部屋の空気がグッと重くなる。なんだよ、と、キヨラさんが今度は震え声を出した。

「俺は追い出されたんじゃないか。追い出されたから、子供に聞かせられない様な境遇になったんだ。それなのに……」

 あんなに誇らしげに言ったのに、今度はそれが悲劇みたいに言い出した。

 お母さんを睨む浮世絵の横顔を、ポカンとして見てしまう。

「ヒカルだって結婚して、男の世話になっていたんじゃないか? 俺とどう違う? 男女差別だ。差別は田舎者がするものだぞ! 」

「キヨさん……!」

 ミーちゃんが、ミーちゃんも、あの顔をして叔父さんを睨み始めた。

 この家はミーちゃんの家なのに、どうしてそんなに小さくなっていなくちゃいけないのか分からない位、キヨラさんにも、お母さんにも気を遣っているミーちゃんが、拳を握っているのを見た私は、咄嗟に声を上げた。

「キヨラさん、すごーい!」

 その場の皆がキョトンとして私を見た。

 私は小さく拍手するフリをして、明るく声を上げる。

「ヒモって、いろ……色男? じゃないと出来ないでしょ? 東京はたくさん格好いい人がいそうなのに、キヨラさんが良いって言う女の人がいたって事だよね? 凄いねぇ。大都会でもモテるんだねぇ! この村からたった一人で大都会へ行ってさ、尊敬しちゃう」

「環……」

 ミーちゃんもお母さんも、ビックリして私を見ていたけれど、私が一番ビックリしてた。

 キヨラさんは、小さな黒目を男の子みたいにキラキラさせて、「おまえ、良い子だな。名前なんだ?」って、私の取り皿にサツマイモの天ぷらを乗せたんだ。

 村に来た初日に、自己紹介したんだけどな。って、ちょっと可笑しかった。



 お祝いのご飯が終わって、ミーちゃんの家を出た。

 ミーちゃんはしきりにお母さんに申し訳なさそうにしていて、私にも謝っていた。

 ミーちゃんがそんなに小さくなる事ないのに。なんだか可哀相で、私は目一杯明るく挨拶をした。

 大きな懐中電灯を持ってミーちゃんの家の門を出ると、お母さんが盛大なため息を吐いた。

「久々だったけど、やっぱりキヨさんは強烈……」

 とっても疲れてしまったらしい。

「子供みたいな人だったね」

「子供の方がまだマシ」

 お母さんはそう言ってから、

「お付き合いは最低限でいいから」

 と言った。

「ミーちゃんとも?」

「ミーちゃんは良い子だから良いけど……」

 キヨラさんは、と、言いかけた所で、ミーちゃんの家の玄関の戸がガラガラ鳴った。

 私もお母さんもハッとして振り返る。

 出て来たのは、キヨラさんだった。

 玄関土間のオレンジ色の光に後ろから照らされて、キヨラさんはこちらへ走って来た。お母さんが表情を固くし、息を飲むのが聞こえたから、私もちょっと緊張した。

 キヨラさんは、私の方へ駆けて来た。そして、彼を追いかけてきたミーちゃんやお母さんが動くより早く私の腕を掴んだ。

「ちょっと、なんですか!?」

 お母さんが声を上げる。

「うるせーな、いいだろ」

 キヨラさんはそう言って、私の手の中に何か固い物を押しつけた。

「やる」

 見れば、それは五百円玉だった。

「え、あの、ありがとうございます」

「ん、お前は良い子だからな。また来い」

 キヨラさんはそう言って、家の中へ戻って行った。

 ミーちゃんもお母さんもポカンとして、私を見ていた。

「信じられない……もう何年も一緒に暮らしているけど一度も小遣いなんてもらった事がないぞ……?」

「叔母さんも『また来い』なんて言うところ、初めて見たわ……」

 二人共、ポカンどころか驚愕しているみたい。

 私は思わず「ふふっ」って笑っちゃった。

「私、なんだかキヨラさんを憎めない」

「安いな環はぁ……今だけだ。付き合いが長くなれば、付き合いきれないからな」

 ミーちゃんはそう言って、なんだかゲッソリして家の中へ帰って行った。

「ああもう、また何か難癖を付けられるのかと思って驚いちゃったわ」

「ふふ。五百円もらった」

 私は大きな懐中電灯で、キヨラさんから貰った五百円玉をピカピカ照らした。

 なんだか汚らしい五百円玉だったけれど、汚れてない部分がキラキラ光った。

「馬が合うのかしらねぇ?」

 たまにあるのよね、もの凄く意外な組み合わせで。

 お母さんはそんな事を言って、足場の悪い田舎道を私を先導して歩き出した。

 私は、まだミーちゃんの家から誰かが見ている様な気がして振り返った。

 ミーちゃんかキヨラさんが、家の中から見送ってくれているのかなと思ったのだけれど、特にそういう事ではなかった。

 台所の曇りガラスの小窓の向こうで、後片付けをするミーちゃんの影が動いているのが、目にとまっただけみたいだ。

 私はミーちゃんの影の後ろの方に、もう一つ影を見つけて微笑んだ。

 キヨラさん、ご飯の準備はしなかったけど、後片付けはちゃんとしてるじゃない、偉いねって、ちょっとお姉さんみたいに思ったんだ。

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