玄関の引き戸を開けると、環とヒカル叔母さんが迎えてくれた。

 叔母さんは割烹着を着て、環はエプロンを着けている。

 土間台所に置かれたテーブルには、酢飯の盛られた飯台や山菜の天ぷら、魚の蒸し焼きなどが並べられていた。土間台所一面に、ふわんとお吸い物の香りが漂っている。昼に片付けなかったホットプレートは、綺麗にされて流しの横に立てかけられていた。

 二人は、僕がずぶ濡れの半裸で帰って来た事に驚いていた。

 田んぼに落ちてしまった事を説明すると、叔母さんはすぐに風呂を沸かしに行ってくれた。

 残された環は下を向いてモジモジしている。

 田んぼに落ちて帰ってくるなど、かっこ悪いと思われたのだろう。頼れる兄さんから、おっちょこちょい兄さんになってはいけないと、僕は焦った。

「すごいご馳走だな。環と叔母さんで用意してくれたの?」

 せめて気さくで優しい兄さんでいたい。

 環はこちらを見なかったものの、表情を緩めて僕に頷いてくれた。

「うん。進級のお祝いをミーちゃんも一緒にしようってお母さんが……」

「あ……そっかー、ありがとう」

 進級のお祝いなど、両親が亡くなってからして貰った事がない。自分の事を祝われるのは、何年ぶりだろうか。自分の成長を祝ってくれる人が(たとえ環のおこぼれだろうと)、まだこの世にいるのだと思うと、鼻の奥がツンとなるのを感じた。そして、環とヒカル叔母さんが戻って来てくれて良かったと思った。

「本当に、ありがとう」

 声に感謝が溢れすぎて、環が「大袈裟だよー」と笑った。

 大袈裟なもんか、と、僕は心の中だけで言って、これを大袈裟だと笑う環を少しだけ羨んだ。

「ちらし寿司は、ほとんど私が作ってるんだよ。あとは錦糸卵とイクラとお刺身を飾るんだ」

「おお、海鮮なんて久しぶりだなぁ。手伝うよ」

「ダメ。ミーちゃんドロドロだもん。お風呂に入ってこなきゃ」

「でもまだ少し時間がかかるんだよなぁ」

 ブルッと震えて、小窓際のガスコンロを空焚きし、暖を取る。

 それから、ふと、目の前の小窓を見て思い出す。

「なぁ、さっきまでキヨさんも手伝っていたりしたか?」

「ううん。キヨさんはキヨさんの部屋にいるよ。執筆中だから邪魔するなって、怒られちゃった」

「は? 環に怒ったのか?」

「お仕事中なら、仕方ないよ」

「……」

 仕事中なもんか、と僕は思った。

 アイツは格好つけたい時に、ぶっきらぼうになったり不機嫌に見せたりする子供みたいなヤツだ。きっと可愛らしい環にワザと怒ったのだろう。

 相手の気持ちなんて、自分の格好つけの為ならちっとも考えない。

「環、あの人に何か言われても気にするなよ」

「うん。大丈夫だよ」

 酢飯を具材で彩りながら、環は軽い返事をした。

 僕はその反応に安心して、小窓へと視線を戻す。

 小窓越しから見える門と前庭には、夕暮れが訪れようとしていた。

 あの影は、見間違いだったみたいだ。

 僕がそう納得するのは、鮎川先生が台所に立ってくれた時にも、度々こういう空見をしたからだ。

 僕がまだ中学生だった頃、畑の手伝いなどの小遣い稼ぎから帰って来ると、鮎川先生が台所でご飯を作ってくれている事がよくあった。その時にも、たまに一人多く影が見える時があったから、門から見る角度や台所に置いてある物の影が原因なんだろう。

 食器棚だろうか、意外とともっと小さな物が大きな影になって見えるのかもしれない。

 そんな事を考えながら火にあたっていると、パラパラと手の甲から砂が零れる感触がした。用水路で洗ったのに、まだ泥がこびり付いているらしい。

 火に当たる僕の手は、爪に泥がたくさん詰まっていた。 

 マリカとヒバリの笑い声が脳裏で木霊する。

 クソ、と思っていると、ヒカル叔母さんが戻ってきた。

「まだぬるいかもしれないけれど、身体を洗っている内にちょうどよくなるからもう入っておいで」

「ありがとうございます」

「水溜める間に、勝手にちょっとだけ掃除しちゃったから、石けんの位置とか違ってたらごめんね」

「とんでもないです! すみません……ありがとうございます」

 僕はヒカル叔母さんに慌ててお礼を言った。先生に家事を仕込んでもらったとはいえ、掃除はいい加減だったから、汚くて驚いただろうな。

「風邪引いちゃうから早く」

 親切な親子に勧められて、僕は風呂場へ向かった。


 風呂桶のお湯は、もう十分温かくなっていた。

 身体をよく洗ってから、湯船に浸かる。

 身体がちゃんと綺麗になると、腕や足に切り傷や打撲の痕が結構ついていて驚いた。

 マリカの家の坂を大急ぎで下った時に、何度も転んでできたヤツだろう。

 僕はマリカの家のインターホンから聞こえて来た絶叫を思い出して、湯船の中で身を縮めた。


 一体アレはなんだったんだろう。

 マリカはあの声の主と一緒に暮らしていて、平気なのだろうか。

 

 今日、屈託なく笑うマリカを思い出して、僕は「あ」と声を上げる。


 マリカは自転車を田んぼから引きずり上げる時に助けてくれたのに、僕はお礼を言っていなかった。

 田んぼへ来る大人達の事も知らせてくれたのに……。

 それなのに僕は、マリカを邪険にしたりしていなかったか?


 僕は乱暴に手で掬ったお湯を、顔に擦りつけた。

 マリカに礼なんかいるものか。そう思った時、自分の中で声がした。

 

――アイツは格好つけたい時に、ぶっきらぼうになったり不機嫌に見せたりする子供みたいなヤツだ。

 

 それはいつも、叔父さんを嫌悪している自分の声だった。



 風呂から上がると、ちゃぶ台の上にご馳走がたくさん並べられていた。

 お膳立ての前に、叔父さんもちゃっかり姿を現している。

 「食べよう食べよう」、と笑顔で僕にちらし寿司をよそってくれるヒカル叔母さんに対し、叔父さんは早速文句を言っている。

「天ぷらにエビがないのは寂しいなぁ」

 頭おかしいんじゃないのか、と、僕は青ざめた。

 どれもご馳走だし、どれもヒカル叔母さんが用意してくれたものなのに。

 そもそも、お前のお祝いじゃないんだぞ。言ってやりたいけど、二人の前で怒鳴ったり暴れたりされたらたまらない。

 僕は恥ずかしさで消えそうになりながら、ヒカル叔母さんから差し出された茶碗を受け取るしかなかった。

 環はギョッとしていたが、お茶を注ぐ事に集中している様子だ。

 ヒカル叔母さんは内心どう思ったか分からないが、すみません、と謝って叔父さんの小皿に唐揚げを取り分けている。

 叔父さんは唐揚げで機嫌をなおした。

 そして、まだ皆に料理が行き渡っておらず、いただきますの合図もなしに頬張った。

 ヒカル叔母さんも環もポカンとしてしまわない様に、何か会話の話題を出したり、追加の皿を取りに行ったりして耐えてくれた。

 僕らの努力を知らずに、叔父さんはドンドン調子に乗って、まるで自分の誕生日か何かの様に振る舞い始めた。

 折角の進級祝いは、始まりからもうほとんどぶち壊されてしまっていた。

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