②
僕の家の場合は男の子が生まれたら、女の子にもありそうな名前とか、間違えそうな名前を付ける。
だけど、僕の親戚の叔母さんは、「今時家の風習なんて」と、生まれてきた男の子に男らしい名前を望んだ。本の好きな人だったから近代的な思想を持ち、根拠のないものや自由意志を抑圧する様な空気を嫌がっていたらしい。
それに、自分と結婚する事になった旦那さんが、親族と縁を切って入婿になった事にも負い目があったんだそうだ。これ以上村の事で振り回したくないってね。
結局周囲に反対されて、親族達との調和の為に諦めたらしいけど、彼女は気に入らない名前を付けられる前に、一回だけ赤ん坊にそっと呼びかけたんだそうだ。
「本当はね、お前の名前はね、こう考えていたの……」
次の日の朝、その子――僕のハトコにあたるんだけど――は忽然と消えてしまったそうだ。
僕たちは、なんでか分からない風習としきたりの向こう側に、リアルに死がある事だけを予感して従順に生きている。
町で言えば「赤信号で進むな」とかそういう当たり前の事と同じだ。
赤信号で進んだら車が突っ込んできて死ぬだろ?
家に鏡を置かなければいいだけ。
日が暮れたら文字を書かなければいいだけ。
一階で寝なければいいだけ。
男の子に女の子の名前をつければいいだけ。
皆の家に、色々な赤信号があるだけ。
こんな風に、ガチガチのガチもんであるこの村なのだが、とても平和だ。
山奥の僻地にある事が第一の理由だけど、村全体がほのぼのとしているし、幽霊のマリカは村の人以外に見えない。見えたとしたって、その辺の野原や土手でビール飲んだり枝豆食べたり、ヘソ出して昼寝しているだけだし。
悪さだってしない。したとしても、「アイスキャンディをベロベロ舐めるところ見せてやるから、奢ってくれ」と中学生相手に下らない誘惑兼恐喝をしたり、他人の畑の果実を勝手に齧ってしまうくらいのものだ。
村に来てみれば分かる。本当、騒ぐのが馬鹿馬鹿しいと思う。
誰も平和に興味なんてないんだ。
長くなってしまったけど、そういう訳でN村はとても平和な上に、村の誰もマリカを怖がったり、嫌がったりしない。しょうがない不良娘だと言う風に、大切に可愛がっている。
けれど、僕はマリカを淫乱な悪霊だと思っているから、接触を極力避けている。
あんな自堕落で破廉恥な幽霊に、健全な男子高校生が自ら関わりに行くなど、あってはならない。僕の好きな言葉は「高潔」なのだ。
しかし狭い世間の山村で、好き放題村をぶらついているマリカを避けるのは、大変な事だった。
特に、最近村の入り口辺りに一軒だけ出来たコンビニでの遭遇率が高くて困っている。
マリカは大抵立ち読みをしているから、外からマリカの姿がないのを確認して店に入る。すると、化粧品コーナーの棚の向こうからポニーテールを揺らし、ヒョイと現れたりするので心臓に悪い。
「お、ミヤビじゃん。来年から私と同じ三年生でちゅね。大きくなりまちたねぇ。結婚ちてあげまちょうか?」
田舎は個人情報が筒抜けだ。だからこそ、マリカは僕の名前を憶えているのだろうけれど。
「……うるさい、万年留年幽霊。いつまで女子高生してるんだよ」
「まだ十年目よぉ。学校なんかクソだもん、行かねー。それよりミヤビたん、大きくなって下の毛は生えまちたか?」
オッサンみたいな汚い絡み方をしてくる。この美少女の唇から「下の毛」とか発せられるなんて、悪夢だ。
「な、なに言ってんだ、あっちいけ」
「アラアラ、その反応じゃまだ産毛かしら?」
「だま……黙れ!!」
「図星ー?」
マリカがゲラゲラ笑って、僕の頬を摘まんだ。
細くて柔らかい指の感触に、僕は素早く身じろぎした。
言い忘れていたけれど、マリカには感触がちゃんとある。体温はない。マリカの嫌な所は数え切れない程あるが、触れられるという事は特に嫌な事だった。
彼女の大きな瞳に、慌てふためく僕の間抜けな顏が映っている。
マリカは僕を、その辺のバッタか何かと同じに思っているに違いない。
僕はオモチャじゃない。悔しくて情けなくて、逃げたい。
――高校卒業を機に、絶対この村を出るんだ。マリカのいない都会へ。
村の外には、僕の胸を健全にときめかせてくれる素敵な女性がいるに違いない。
マリカなんぞに翻弄され、蠱惑的な夢を見て絶望するのは、それまでの我慢だ。
僕は自分に言い聞かせ、高校三年生をむかえた。
◆ ◆ ◆
一クラスしかない三年生の担任は、鮎川希美先生に決まった。
鮎川先生は三十代後半の、優しい先生だ。
大好きな先生だったので、僕は心から喜んだ。
先生は、家が近い事もあって僕が小さい頃から可愛がってくれたし、両親を亡くしてからは、何かと気に掛け、世話をしてくた本当に優しい人だ。
心ない生徒からは「お化け」とあだ名を付けられる様な容姿だけれど、僕は鮎川先生を見ていると母親のぬくもりを思い出すし、「人は見た目じゃない」と思える。
そしてそう思う度、「見た目が良くても中身が駄目なら駄目なんだぞ」と、復讐のようにマリカを思い浮かべていた。
先生が担任になったからには、模範的な生徒になりたいし、一年後には町を出る計画だから、うんと恩返しをしたいと思った。
僕は、校庭に咲き乱れる桜達よりも明るく意気揚々とした気分で、先生に宣言した。
「一年間お世話になります! 先生の頼みなら、力仕事でもなんでもやりますので任せてくださいね!」
先生は油っぽい長い前髪の向こうで、細い目を更に細めた。これは、微笑んでくれたのだ。
「まぁ。早乙女さん、ありがとう。本当に?」
「もちろんです。先生にはたくさんお世話になったので」
僕は胸を張った。先生に少しでも良いところを見せたかった。そして、町を出た後も、僕の事を覚えていて欲しかった。
「じゃあ……九条マリカさんが十年間、出席日数が足らずに留年をしているから、学校に来るように声かけをしてくれないかしら?」
「九条マリカって……あの幽霊のですよね?」
ええ、と先生は頷く。
僕は慌てて首や手を忙しく振って、拒否の意を示した。
「登校拒否の生徒の対応なんて僕にはわかりませんし、そういう事は教員がされた方がいいのでは?」
先生の頼みを断る事は心苦しかったが、こればっかりは相手がたとえマリカでなくても難しい。兄弟や親友ならともかく、深く交流をした事がない者の心を開くなんて、僕にはハードルが高すぎる。しかも相手はマリカときた。無理だ。
全力で断る僕に、先生はため息を吐いて教えてくれた。
「先生、元々余所から来たから、マリカさんの姿が見えないの。だから会いに行く事もお話する事もできないのよ」
それは、以外な告白だった。
「そうだったんですか……小さな頃からお世話になっていたから、てっきりこの村の人かと思っていました」
先生は微かに頷いた。
「時の流れは早いわね。村に馴染めているって事だから嬉しいわ。マリカさんは、私がこの村へ来て初めて受け持ったクラスの生徒だったのよ。だからずっと気にしているの。……卒業させてあげたいなって。頼み込んで転勤なしでこの学校に居させてもらっていたけれど、もう今年いっぱいで移動になりそうなの」
それを聞いて、僕はとても寂しく思った。自分もこの村を出て行く予定でいたけれど、先生もそうだったとは。
村で生まれた僕は、村を出ても帰って来る機会があるだろう。しかし、先生は。外から来る事も外へ行く事も一苦労な村だから、きっともう、この村へ足を踏み入れる機会も理由もなくなる。こっそり母親の様に思っていた人が、あっけなく縁遠くなるという事実に、僕は焦った。
だから思わず、「努力してみます」と、思わせぶりな事を言ってしまった。
先生がゆっくりと僕の目を覗き込み、笑った。先生は、笑うと薄い唇が少しめくれ上がって歯が剥き出しになる。大抵の生徒はこれを見て先生の歯並びと尖った犬歯を悪く言う。でも、僕はこの笑顔を見ると、嬉しくなる。
先生のこの笑顔は、先生がとても嬉しい時に、ごくたまに見せるものだからだ。
「早乙女さん、ありがとう」
「頑張ります」
なんとかしてマリカを卒業させたら、きっと先生は心残りなく安心して村を出る事が出来るだろう。
そうさせてあげたい。
でも、あんな悪霊、どうやって学校へ連れてこればいいんだ?
僕の脳裏で、マリカが薔薇色の舌をベェッと出している。
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