N村とマリカについて

 セーラー服のスカートを抓み、捲って中身を見せようとしてきた時から、僕はマリカが大嫌いだ。

 まだ小学生だった僕に、あんなの見せるなんて立派な犯罪行為だ。

 マリカが幽霊じゃなければ通報してやれたのに。

 真昼の陽光が、真っ白な太股の隙間から光彩陸離に放たれていた。

 目を丸くする僕に、マリカは凄まじく印象的に瞳を輝かせて、嗤らった。

 それから何か言おうとして、真珠の艶が一粒灯った唇の隙間から薔薇色の花弁の様なモノを出すと、噛み千切った。

 それは舌だった。マリカの口から赤い血が噴き出して散った。

 小学生になんてものを見せるんだろう。

 僕は驚愕し、悲鳴を上げて逃げ出した。


「ふへ、ふわわ、ゲホォ、ちょい、ちょっとまってよー!」


 背後でマリカが唾を吐く音と、呼び止めようとする声が聞こえていたけれど、僕は振り向かなかった。

 あの後、泣いて怯える僕に、誰かが笑って教えてくれたっけ。


「マリカは、言ってはいけない事を言おうとすると、舌を噛むんだ」


 それを聞いて、余計に腹がたった。

 言ってはいけない事?

 どうせ僕を蔑もうとしたに決まってる。だから舌なんか噛んだんだ。

 僕は高校生になっても、あの衝撃から逃れられない。

 そのせいで、女の子にときめく事が出来ない。テレビで見る可愛いアイドルや綺麗な女優にもだ。

 誰もマリカみたいに笑えない。

 あの瞳の輝き、あの唇の歪み……あの時の事を思い出すと居たたまれなくて、どうしようもなく穢れてしまった気がして、焼かれて灰になってしまいたくなる。天国へ行く前に穢れを焼く炎を、なんというのだっけ。

 首を傾げる僕の脳裏で、マリカの太股を覆う微細な産毛が輝き、炎の様に揺らめきたつ。


――煉獄。罪を焼く煉獄の炎だ……。


 あんなにも邪な所で揺らめき薫る炎から、答えを導き出して頬の内側を噛む。情けなくて、パチンと弾けて消えてしまいたい。

 クソ、クソ、マリカなんか大嫌いだ。


◆ ◆ ◆


 僕の暮らすN村には十年ほど前から、九条マリカという名の十七歳の幽霊がいる。

 彼女は可憐な姿をしている。しかし、日本人離れした大きな瞳は本性を隠さず、苛烈な程の引力を持っている。軽やかな二本の足取りは、幽霊というよりかは妖精めいていて、ポニーテールを快活に揺らす様には陰気さが微塵もない。

 そんな彼女を、村の人々は誰一人、怖がりも嫌がりもしない。

 何故かというと、その風貌もさることながら、N村には死んだ者を幽霊にする『いまわさん』という風習が昔からごく日常の中にあって、それは異常な事でも恐ろしい事でも無い、と、信じ伝えられてきたからだ。

『いまわさん』は、葬式中に準備さえ整っていれば、誰でも行える。

 作法の詳細はひとまず置いておいて、かく言う僕も両親が揃って亡くなった時、『いまわさん』をした。

 中学入学前の事だった。



 その時、線香の匂いがこもる和室で、僕は茫然としていた。

 両親を失った事が突然過ぎて人形みたいになっていたんだ。

 そんな僕に、村の神主である門守さんが寄り添い、小さな小石を手渡した。村の人達が唯一信仰を寄せている神社から、『いまわさん』用に貰える神聖な小石だ。

 門守さんは低く柔らな声で囁いた。


「いいか、ミヤビ。『いまわさん』は、ほとんど成功しない」


 僕は素直に頷いた。N村に幽霊はマリカしか存在しなかったし、身近で成功したという話を聞いた事がなかったからだ。

 自分の祖父母も、川遊び中流されてしまったナッちゃんも、林業中に事故に遭った三つ隣の家のおじさんも、『いわまさん』で幽霊にならなかった。


「わかってるよ」


 そう短く答えて、それでも『いまわさん』をする為、両親の棺をそれぞれ覗き込む。

 二人は僕の入学祝いを買う為に、町へ降りる山道で事故に遭った。

 一番細くてカーブのキツい道から、崖下へ落ちてしまったのだ。

 二人の遺体は、ありがたいことに五体全てくっついていて、どこかが潰れたりもしていなかったから、綺麗なものだった。勿論、見つかった時は血まみれだったけど、村の大人達が丁寧に血を拭って、死に化粧もしてくれたので眠っているだけの様にも見えた。

 僕は小石をギュッと握った。


 なんでわざわざガッカリする様な事をするのだろう。どうして最後の最後に、期待をしなければいけないんだろう。成功しなかったら、ただただ悲しいだけじゃないか。


――ああ、それでも。


 その時僕は、生き生きとした幽霊のマリカを思い浮かべていた。

 一筋の光の様に。


――お願いします。叶わなくとも。入学祝いのゲームなんていらないから。


 『いまわさん』用の小石を、両親の胸元にそっと置き、それぞれの冷たい両手でそれを覆う。そうすると、自分の胸にも石が落ちてきた様に感じた。


――父さん、母さん、離れたくないよ。


『いまわさん』は、息子の思慕を死者へ、僕には現実を拒む心に、むき出しの哀悼の念を与えた。


 きっと『いまわさん』は、死者を惜しむ儀式……いや、祈りなのだろうと、感じた。だから町のほとんどの人がやるのだろう、と。

 結局、僕の両親は『いまわさん』で幽霊にならなかった。

 しかし、僕にもたらされたのは落胆ではなかった。僕は、『いまわさん』が失敗したお陰で、ようやく本当の諦めがついて、ワンワン声を上げて泣いたのだった。



 今も村では、誰かの葬式で『いまわさん』が行われている。

 彼らもマリカの事を、ふ、と思い浮かべたりするのだろうか。

 そして二度死に殴られて、現実に引き戻された時。

 自分のいる所からは行けない場所を見る様な、そんな憧憬の眼差しでマリカを見る事になるのだろう。

 実際には、マリカを通してマリカを幽霊にした人物を……だろうか。しかし、『いまわさん』でマリカを幽霊にした人物を、この村の誰も知らないのだった。

 

 さて、こんな話をすると、ホラー映画やネット怪談に出て来そうな、変わった風習のある僻地の村や集落を思い浮かべられそうで不本意なんだけど……そのまま過ぎて否定出来ない。

 めちゃくちゃ成績が悪かったりして村の高校へ来た奴なんか、かなりビクビクしている。その内なにもなさ過ぎて慣れるみたいだけど、町へ戻った時にある事ない事面白おかしく喋るから、迷惑極まりない。めちゃくちゃ馬鹿だから、支離滅裂な事を言って広めるし。お化けを見たとかさ。

 まぁ、町の人達もめちゃくちゃ馬鹿の言う事なんか聞きゃしないと思う。


 村では『いまわさん』以外にも、それぞれの家がそれぞれの風習を持っている。

 夜に爪を切ってはいけないとか、よく言うだろ。そういうちょっとしたものだ。

 誰にだって、理由がハッキリ分からないまま「なんとなく駄目なんだろうな」という変な予感で気をつけている事が、一つや二つ身近にあると思う。

 そういうのが家ごとにあって、大切に守っているんだ。

 家に鏡を置いていけないだとか、日が落ちてから文字を書いてはいけないとか、一階では眠らないとか。

 村の人達は、なんでか原因が分からないまま風習を守って生きている。だけど、原因は分からないのに、守らなかったらどうなってしまうかは、ほんのり知っている。

 半世紀ぶりに家が持つ風習の大切さを思い知ったのは、他でもない僕の家だった。

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