予祝

予祝・救いの手

 かあちゃん、きょお、おさるさんがきたよ。

 幼い我が子がニコニコして言った言葉に、彼女の顔は紙の様に白くなった。

 それでも我が子に悟られぬよう、彼女は無理に微笑む。

「そお、お猿さん、何か言っていた?」

 子供は清らかにニッコリと笑い、母親との会話を楽しむ。

「うん。みいつけたって」

 子供はそう言いながら自分の懐を苦労して探り、柿を取りだした。熟れて艶めく大きな柿だった。

 彼女の背後、こじんまりした玄関土間の外では蝉がワンワン鳴いている。

 真夏の暑さでかいていた汗が、じわりと冷や汗に変わるのを感じながら、彼女は足から震えだした。

「くれたよ」

「……そう。それ、母ちゃんにくれないかしら」

「いいよー」

 子供は相変わらずニコニコして、彼女に柿を差し出した。

 柿は彼女の手の平に収まると、ぐずぐずと溶け、ぷうんと甘く香って纏わり付いた。彼女の手と、とろりと握手するように。

「……どこにいたの?」

「あそこ」

 子供は狭い居間の隅の箪笥を指さす。

「箪笥?」

「うん、かあちゃんのきもの、いれるとこからね、おかおだして『きたよ』って」

 箪笥の引き出しは、きちんとしまっている。

 けれど、彼女の視線が注がれた途端、カタコトと揺れ出した。

「……そう」

――――見つかってしまった。

 この村に来れば、助かると思っていたのに。

 ここには神様がいると思っていたのに。

――――逃げられなかった。いや、まだだ。神社に逃げよう。あそこには、いまわ様がいらっしゃる。まだお日様が出てるから、アレより私の足の方が速いかもしれない。

 逡巡していると、ズーッと引き出しが開き始めた。引き出しの縁に、干からびた指が蜘蛛足の様な嫌らしい動きで一本ずつ現れる。どの指も毛がまばらに生えていて、子供が言うように、それの全貌は猿の様な姿なのだろう。

 彼女は子供を掻き抱いて、村の神社へ駆け出す。

 山の高い所から村を見守るように建てられている神社へ、死に物狂いで駆ける。

 そんな彼女の背後では、笑い声が追いかけてきていた。

 生い茂る木々の影から影へ飛び移って、彼女の背後にぴったりと付いてくる。

「こわいよう」

 子供が泣いて、彼女の肩に顔を埋める。彼女はしっかり小さな身体を抱いて、叫んだ。

「いまわ様! いまわ様! お助けくださいませ!!」

 彼女の目指す神社までは、少し山を登らなければいけない。

 うっそうと生い茂る木々は、ざわざわと風に鳴るだけで、彼女の叫びを吸い込んでしまった。

『ハタ、ハタ、チ、ハタチ、カキシトナルハ』

 声が降ってきて、彼女の背中に何者かが覆い被さった。

 彼女は重みと衝撃で転び、子供を腕の中から離してしまう。子供は彼女よりも先の方に転がって、岩にでもぶつけてしまったのだろう、額を割って血を流して泣いている。

 すぐに抱き起こして、涙も血も拭ってあげたいのに、彼女は背中に覆い被さるモノの重みで起き上がる事も動くことも出来ない。

「―――ぼうや……」

『シトナリテキッスル』

 泣きじゃくる子供の方へ伸ばした腕が、パンと音を立てて九つに弾け割れた。

 彼女は驚愕の中、幼い頃見た『南京玉簾』を思い出す。もっと見せてと、行商人の後をついてまわった楽しい思い出だ。

―――さぁもう帰ろうね、およし。

 行商人を警戒していた母親が、いつもより強く彼女の腕を引いたものだから、泣きべそをかいたっけ。

 だってとても痛かったから。

 彼女は現実に引き戻されて、苦悶の声を上げた。 

「ギ、ああああ……!!」

『ハタハタチ、ミチ、シトナリ』

 彼女の身体から、血が驚くほど早く抜けていくのが分かる。

 子供に「にげて」と唇を動かした。上手く出来たか分からなかった。

―――この村に来たら助かると思っていたのに。

 それは初め、彼女の集落の神様だった。

 けれどその内そうじゃなくなった。

 どうしてそうじゃなくなったのか、理由は分からなかった。誰かがそうしたのかもしれないし、もしかしたら、最初からのかも知れない。

 どうやらソレは、二十歳を喰うのが好きらしかった。

 二十歳を迎えた夫を食い散らかされた後、彼女は自分が二十歳になる前に、赤ん坊を抱いて集落を逃げ出した。

 逃げ惑い救いを求めた先で、この村なら彼女を追うモノを退けてくれるかもしれないと、教えてくれたのはどこの神主だったか。高名だったハズだ。滅多にお会いする事が出来ないような。

 でもそのお方でも、彼女を追ってくるモノから彼女を救えなかった。

 本当は、彼女をこの辺境の村へ追い払うデタラメだったのだろうか。

―――けれどこの村の神主様はおっしゃった。ソレがあなたを殺そうとするならば、倒すことは出来ます。と。

 それを聞いて、彼女は死ぬほど安心したのに。

 それなら、この村で子供と穏やかに暮らし、寿命まで生きられると……。

 彼女は化け物の顔を身を捩って見上げる。眼孔の無い巨大な猿の顔。老人の様に口角の下がった口から、長い舌が垂れて汚臭のする湯気を発していた。

―――こんなケダモノに手を合わせていたなんて。

 意識が遠のく中、彼女は色んなものを呪って心で毒づいた。

―――どうやって倒すの。ねぇ、こんな怪物を。倒せっこない。ハハハ、あの神主にどうやって倒すのか、聞いておけば良かった。あの世で笑ってやったのに。



 家を破滅させた事がある。大きな豪農だった。

 血縁の匂いを辿って、結局七十人ばかりを殺した。

 俺は恨んでいた怒っていた。何でか分からないが、妬みに似た強い激情のまま、追い詰めて追い詰めて悲鳴を聞きたい苦しみ悶えさせたいと腹の中をグツグツ煮立たせていた。殺す瞬間だけが、嬉しくて楽しくて仕方が無かった。

 辿るものが無くなると、最後の一人が己に振るった短刀に潜んで待った。

 そして、ひょんな事から短刀の持ち主となった者の血縁を辿ってまた何十人か殺した。今度は最後の一人の血を浴びた鏡に潜んだ。血は綺麗に舐め取った。

 そしてまた、繰り返した。

 しかし、一向に気は晴れぬ。殺す瞬間にしか、俺は笑えない様だった。

 もっと破滅が必要だ。そう思った。

 憎悪を膨らませて、またある一族に取憑いた。

 老いた主と妻、長男夫婦とその子共を殺した頃に、次男がどこぞの坊主と相談をして引っ越しをした。

 都の大金持ちだったというのに、山奥のへんぴな村でヒッソリと暮らす事にした様子だった。

 しかし、俺は彼らが裕福なのが面白くないのでは無かった。

 生きている事が憎くて怒っているのだった。

 だから場所や生活を改めた所で無駄だ。もちろん主となった次男から殺した。

 村の葬式は質素だった。元の土地に居れば、持っていた財で盛大に行う事が出来ただろうに。

 次は妻だ。じっくりと追い込んで、恐怖のどん底で息の根を止めてやろう。

 そう舌なめずりをしていると、誰かに恐ろしい力で掴まれた。

 ソイツは俺に尋ねた。

―――お前か、お前なんだな?

 俺は咄嗟に首を振った。違う、と、嘘を吐いた。

 ソイツの顔を見ると、笑っていた。

 嬉しくて楽しくて仕方が無いという、恐ろしい顔をしていた。

 


 

 ああ、いまわ様、ありがとうございます。

 残された婚約者の身も、これで守ることが出来る。

 どうか、どうか穢れなき人生をおくっておくれ、どうか、幸せに。

 こんな忌まわしい事はもう、忘れておくれね。

 


 三つ目の夢は、怖すぎて夢の中で目を閉じて耳を塞いじゃった。

 最後にとても安心したみたいに何か言っていたから、良かったって思った。

 けれど、やっぱり全部が怖すぎて、私を心配したお母さんが横の布団で寝てくれていて良かったって思った。

 天井の方で何かピシリと音がしたけれど、古い家だからどこかが傷んでいるんだと思った。

 そう思うしかなかったし、じっとしているしか出来ない。

 知らないふりをしていなくちゃ、きっと駄目だから。

 

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