君を思う、故に我あり

夜泥棒

君を想う故に、

 

 我思う、故に我あり


 そう唱えたのはニーチェだったか、デカルトだったか。

 まあそんなことはどっちだっていい。肝心なのはこの言葉の意味にある。

 『我思う』自分が世の中のあらゆるものを疑ったとしても、『我あり』疑っている自分自身の存在だけは疑うことはできない。つまり、疑っている自分というのは疑いきれないものであり、それは真実だと言える、ということらしい。

 なんとも、回りくどくそして遠回りな真実の証明だと思った。

 だけど。

 僕には、この言葉がひどく残酷な証明のように思えた。


  ◆  ◆  ◆


「ねえ、星を見ない?」

 涼やかな四月の夜に、彼女は僕の家の玄関前にいた。

 いきなりのことで少し驚いたが、彼女ならそんなこともあるか、と案外すんなりと納得できた。長年の付き合いというやつだろう。彼女は何も変わっていない。

 僕は裸足のまま、使い古したサンダルを履き田舎の夜へ向かった。


 かたっかたっと下駄げたを鳴らす彼女は、どこに行くかも告げずに僕の前を歩く。

「なんでいきなり星なの?」

 僕がそう聞くと彼女は、少し笑て空を見上げる。

きみに見てほしくてさ」

 彼女は真剣なときは、決まって僕のことをきみと呼ぶ。

「君はもっと周りに関心を持つべきだと思ってね。君には何かが欠けているから」

 確かに僕は、家族や友人、勉強、趣味などに興味がない。自分で物事を決めた覚えがない。そんな当たり前でない僕は確かに、人として大切な何かが欠けている。

「その通りだね」

「うん。だから今日はまず星を好きになってもらいたいんだ」

 彼女がそう言ってこちらを見るが、僕にはその瞳に宿る煌めきのほうにこそ、よっぽど興味がひかれた。


 周りには明かりはなく、頭上の星々は淡くも確かな灯火ともしびを僕たちに見せてくれている。

 彼女が先ほど言ったことを踏まえ、まずは星を知ることから始めよう。

 だからふと、夜空に手を伸ばす彼女に聞いてみた。

「星は無限にあるのに、どうして夜空には暗闇があるのかな?」

 宇宙は無限に広がっている。当然星だって無限に存在する。であるなら、夜空は星の光で埋め尽くされるはずだ。なのに、今見ている夜空には暗闇があるのだ。

 彼女は僕の質問を受け、困ったような微笑みを浮かべこう言った。

「どれだけ光っていてもね、届かないことだってあるんだよ」


 なるほどな、と思った。


 ◇


 彼女に言われたことを踏まえ、次は友について知ってみよう。

 ふと、露が滴るアジサイにカメラを向ける友に聞いてみた。

「君、彼女できたよね」

「あぁ」

「なんで彼女作ろうと思ったの?」

 いきなりそんなことを聞かれた彼は、少し驚いた顔した後、微笑んだ。

「ずっとさ、憧れてたんだよ」

 彼の目を見て大体分かった気がする。

 その子を見る彼の瞳には、いつからか愛おしさ以上の何かが宿るようになったのだ。

「お前がこんなこと聞くなんて珍しいな。それに、自分から話しかけること自体が珍しい」

「まぁ、そうだね」

 彼は無関心な僕となんだかんだ長年付き合ってくれている。

 そんな彼にさえも関心がなかったことに改めて気づかされた。

 だけどなぜか、彼の答えを聞いた後も、僕は今までと少しも変わっていない気がした。

 

 ◇

 

 リビングから出ると軽やかなピアノの音色が聞こえる。

 この曲は我が家ではよく耳にする「エリーゼのために」だろう。

 卯の花色の積乱雲がモクモクと浮かぶ空と、セミが騒がしいこの季節には少々似合わない気がする。

 我が家でピアノを弾ける人は、二人しかいない。一人は僕で、もう一人は妹だ。

「ただいま」

「おかえり、お兄ちゃん」

 妹は鍵盤から指を離し、俺の目線の先を追う。

「ピアノ、弾く?」

「いや、大丈夫」

 ピアノをやめてから鍵盤に触れた記憶がない。

 ふと、再び鍵盤に指を添えた妹に聞いてみた。

「なんで、ピアノ始めたんだっけ?」

 妹は僕の指をちらっと見てこう言った。

「大切な誰かとお別れするときにね、お兄ちゃんみたいにピアノを弾いてあげたいんだ」

 その言葉を聞き、数年前の記憶がよみがえった。

 病室で最期を迎えた母に、僕は母の好きだった「エリーゼのために」を送った。その影響だろうか。

「そうだったんだ」

「うん。だからたまにはお兄ちゃんも弾いてね」

 僕は返事を濁してそのまま部屋を後にした。

 妹がピアノを始めた理由を聞いた後も、やはり僕は今までと何も変わっていない気がした。


 ◇


 人ごみの中見上げると、夜空には花火が無数の儚い花を咲かせている。きらきらと散っていく様と、たった一度だけ鳴る体にさえ響く音は、より一層美しさを引き上げているように感じる。

 隣にたたずむ彼女の瞳は、打ち上がる花火の光を吸い込むようにきらきらと光っている。

 ふと、屋台で買ったキュウリを片手に持つ彼女に聞いてみた。

「花火はこんなにも早く消えちゃうのに、どうしてきれいだと思うのかな?」

 瞳に僕を映し、花火の儚さを灯した微笑みでこう言った。

「きれいなものはね、きれいなままで終わりたがっているからだよ」


 なるほどな、と思った。


 ◇


 がたっがたっと揺れる電車の窓からは、もうすっかり秋の色に染まった草木がぐるぐると流れているのが見える。

 修学旅行の写真を眺めていると、たった数日前のことなのに、今となっては過去になってしまったのだと、胸の中で何かがざわつく。

 ふと、隣で僕が持っている写真をのぞき込む彼女に聞いてみた。

「どうして写真を見ると、変な気分になるのかな?」 

 彼女は、悲しそうに眉を下げて言った。

「遠近法には青を使うみたいにね、思い出って遠いから」

 最後までは言わなかった。


 だけど、なるほどな、と思った。


 ◇

 

 僕と彼女だけしかいない放課後の教室。

 窓から見えるのは、枯葉が風によって一枚また一枚とパラパラ落ちていく様である。

 そこで、僕は彼女の向かいの席に座る。彼女は黙々と参考書とにらめっこしながら、ノートに計算式をずらずらと書いている。

 彼女は文系教科が得意で、理系教科、特に数学が苦手と言っていたのを思い出す。

 ふと、ノートをめくった彼女に聞いてみた。

「どうして人は不完全なのかな?」

 彼女は顔を上げて、冷たさを含む笑みを浮かべて言った。

「神様がね、人に愛着を抱くためだよ」


 なるほどな、と思った。


 ◇


 ふと、マラソンで息を切らし、汗を滴らせる彼女に。


 ◇


 ふと、缶コーヒーに息を吹きかける彼女に。


 ◇


 ふと、海風に髪を揺らし、鼻歌を歌う彼女に。


 ◇


 ふと、夕日に溶け合い、消えてしまいそうに微笑む彼女に。



 ————聞いてみた。


 そしてその度に、なるほどな、と思った。

 


 ◆  ◆  ◆


 僕は周囲に目を向けた。

 今まで無関心だった友や家族に、とりあえず何か聞いてみた。だけど彼らの答えを聞いても、心は動かなかった。なぜなら自分が決めた行動ではないと気づいていたから。

 

 僕は何度も何度も彼女に聞いた。

 何気ないことを聞くふりをして彼女の本音のありかを探していた。

 彼女は良く言えば完璧な人だ。

 完璧というのはそのスペックのことではない。そのあり方が、人として完璧だと思う。

 だからだろうか。

 だから、僕は彼女に人間味を感じることができなかった。ずっと昔から一緒にいるのに。

 彼女はまるで、デパートのショーケースに入れられたお人形のようだった。

 だから、僕はずっと疑っていた。彼女が人間であるかを。人間らしくない彼女の心に、人間らしい本音を探していた。

 

 だけど、今は少しだけわかった気がする。

 彼女は認められたいと叫んでいる。

 彼女は美しくあり続けたいと願っている。

 彼女は過去を切なく思っている。

 彼女は弱点をも愛している。

 一つ一つの答えにだから彼女はこのように生きれるのだと感心した。心が動かされるのを感じた。

 彼女に対しては、疑問が尽きなかった。

 なぜなら、彼女は周囲とは決定的な部分が違ったからだ。それはたぶん、彼女だけは昔から変わらない点だろう。昔からその在り方が変わっていない。


    ◆  ◆  ◆


 雪が舞っている。

 音を置き去りにして、少しずつ少しずつだが、確かに積もり始めている。

 彼女がはぁっと息を吐くと、白色に染まったそれは天へと昇って行った。

 辺りには見慣れた田舎の風景。小さい頃から彼女と過ごした場所。

 毎日ここを見ると、昔の記憶がきらめきを帯びてよみがえる。

 たぶん、今この瞬間も、いつかは煌めきを帯びるのだろう。


 ふと彼女は振り返り僕を見つめる。

 あぁ、次は僕にどんなものを見せてくれるのだろうか。どんな答えを教えてくれるのだろうか。

「私が君への想いを伝えないのはどうしてだと思う?」

 しかし、今回は少し違った。彼女の方から僕に問いを投げかけてきた。

 不思議と心臓が跳ね上がるのを感じる。彼女の頬もかすかだが薔薇色に染っている。

 だけど、この問いの答えを僕はもう持っている。

「僕のため、かな」

「うん、正解だよ」

 もし、ここで彼女が僕に告白をしたとする。そしたら僕は間違いなくそれを受け入れ、それからは恋人として共に過ごしていくのだろう。そして僕は彼女のことを理解していくはずだ。

 それは、とても魅力的な未来のように思える。

 しかし、もしそうなったら僕はどうなってしまうのだろうか。


 我思う、故に我あり


 僕は彼女を理解したら、彼女に対して疑問を抱かなくなってしまう。それはつまり、もう何に対しても疑問を持つことがなくなるということだ。

 もしそうなってしまったら、僕は今まで以上に能動的で無関心に生きる、色の消えた人生を歩むことになる。

 そんな人生は、真実とはあまりにもかけ離れている。

「ほんの少しだけ、待っててほしい」

「うん」

「僕が興味を持てるようになるまで」

「わかってる」

「そしたら、僕から伝えるから」

「待ってるね」


 再び僕たちは歩み始める。


 一歩前を歩いていた彼女に、僕は一歩踏み出し横に並ぶ。


 僕は彼女に想いを伝える。


 君を思う、故に我あり


 そんな残酷な現状を変えて、真実をつかむときに。

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