第10話

       八月二十九日・六日目

        ニュー・デリー~ 2



確かこっちの方角だった、と歩き始めるが、だいぶ行ったところで道を尋ねると、丸っきり反対だった。リクシャーを使えば早いことは分かっていたが、歩きたかった。何度も道を間違えて、ポリスにも、徒歩じゃ無理だ、リクシャーを使えと言われた。そんなことをしているうちに、止めることにした。

 

 薄暗くなって来た通りには祭りのライティングがつき始め、人が増えて賑やかになって来ていた。頭上には銀色のモールが飾り付けられていたり、道沿いに吊るされた豆電球が光っていたりする。あちこちに赤と白の布を被せたゲートが立てられていた。露店の物を焼くうまそうなにおいをかいだり、賑わっている小さな路地を通り抜けたりしながら宿に戻った。

 

 ベッドに座ってタバコを吸って一休みしていると、また行きたくなってきた。

通りは凄いんだよ、と言うと、ジェームスは新聞を読むのを止めて、へえ、と答える。あまり興味が無さそうである。もう一度行って来るよ、と言って通りへ出た。


 腹が減っていたので、つい、いいにおいのする方へ近づいてしまう。ホテルの安食堂で夕食を済ますことも出来たが、露店の物を買い食いして歩くことにした。

 鉄板の上でバターで焼かれているジャガイモがうまそうに見える。五ルピーだと言う。半分に切って焼かれていたので、それ一つが?と聞くと、皿に盛った物を差し出す。葉っぱを加工して作られた皿に、食べやすく小さく切ったイモが入っている。付いていた楊枝で刺して食べながら歩いた。

 

 日はすっかり暮れていた。小さな電球の明かりが鮮やかに浮かび上がる。昼間はくすんだような色の街が、今は華やかに見える。

 通りには日本の縁日にあるような安っぽいオモチャや、花の輪っか、神様の絵ハガキやポスター、メンコなどの露店も出ている。


 母親に手を引かれたフリフリのドレスを着た女の子、小さい弟を抱きかかえている少年。楽しそうであった。その鮮やかな色は、同じ年頃でありながら、物乞いの子供のくすんだ色とはひどく対照的だ、とふとそんなことを思った。


 あちこちに取り付けられたスピーカーからは、けたたましく音楽が流れている。ハーレー・クリシュナ~、ハーレー・クリシュナ~と神様ソングを大熱唱している。木の棒に商品を取り付けた物売りが、それを頭上にかざしながら売り歩く。たくさんの赤い風車がゆっくりくるくると回っていた。立ち止まって見ていたら、サイクルリクシャーと、荷車に一回ずつ足を轢かれた。

 

 九時を過ぎたので一度宿に戻ることにした。ジェームスは明日早く発つ、と言っていた。私が帰らなければ、鍵を掛けて眠ることが出来ない。でたらめに歩いているのに、何故か宿の方向が分った。

 

 道の端に小さな露店が並ぶ中、体重計を前にして男が座っている。体重計り屋だった。一度は通り過ぎたが、戻って、体重計に乗った。一ルピーだった。男は、動くな、という仕草をし、針が止まると目盛りを読んだ。五十九キロ。減っているかと思ったが、変わりなしだった。

 

 宿の近くの食い物屋でミネラルウォーターを買って外に出ると、昼間別れたノボルが店の前で日本人ツーリスト二人と立ち話をしていた。もう一度礼を言う。彼と同じ部屋にならなかったら、あんなにスムーズには事が運ばなかっただろう。二言三言、言葉を交わしてから、ノボルは大きなリュックを背負って雑踏に消えて行った。

 

 部屋に戻ると、ジェームスはまだ新聞を読んでいた。昼間コンノート・プレイスで英字新聞をどっさり買っていたのだ。そろそろ寝る?と聞くと、ああ、明日早いからね、と言った。まだ歩きたいから、私が外から鍵を掛けてフロントに預けて出る。それでいいかな、と聞くと、問題ない、そうしてくれ、と言う。そしてまた、通りに飛び出した。

 

 カメラは持たなかった。生活の中に、持って入ることがためらわれた。撮る者と撮られる者、ツーリストと、ここで暮らす人々との間に、はっきりと線が引かれてしまうような気がした。せめて今だけは、この街に溶け込んでいたい。

 いつか懐かしくなったら、思い出せばいい。忘れかけたら、また来ればいいのだ。


 狭い通りの中のちょっとした広場には、布で飾り付けられた小さな舞台があちこちにあった。その上で、体を真っ黒に塗って、顔にもペインティングを施した少年や、金や銀のきらびやかな衣装を身に着けた少女たちが踊っていたり、体をくねらせたりしている。神様を讃えるか、それにまつわる物語を演じているのだろう。舞台の周りには、見物人が溜まっていて、通り抜けるのは骨が折れる。急ぐ必要も無いので、彼らに混じってしばらく見物した。


 人通りのまばらな路地で、店先に貸しビデオが並んでいるのを見つけた。インド映画ばかりで、どれもタイトルの書かれた帯のシールは擦り切れていたり、手垢で汚れたりしていた。たぶん、中のテープも擦り切れそうになっているだろう。

 

 果物の露店が並んでいた。リンゴを買うことにして、見栄えが良くて大きいのを積んである店に近づいて眺める。横で袋一杯買っていた少年のリンゴを指さして、こんなには要らないんだけど、、、と言うと三つ袋に入れてくれて、十ルピーだった。


 ぶら下げて歩いていると、食材ばかりが並ぶ一本の通りがあった。野菜市場だ。二百m程の真っすぐな通りの両脇に小さな店がぎっしりと並び、野菜や果物が無造作に積まれている。トマト、ジャガイモ、タマネギ、ウリ、リンゴ、レモン、、、。香辛料の量り売りもある。肉を必要としないならば、食事の材料はここで足りてしまうだろう。夕飯時なら賑わっていたのだろうが、夜も遅いので客もまばらだった。買うべき物も無かったが、ゆっくりと見て歩いた。


 静かな野菜市場を抜けると、その先は元の騒がしい雑踏だった。方角も決めずに歩いた。熱に浮かされたように、というのはこういうことなのだろうか。気付くともう五時間も歩いていることになるが、少しも疲れは感じなかった。祭りの熱気と、人の発するエネルギーが伝わって来る。もっと見たい。もっと歩きたい。宿に帰って寝る気はしなかった。


 店先に引っ張り出して来たテレビの前に子供たちが座ってじっと画面を見つめている。通りの脇にステージが組まれ、大音量の演奏をバックに女の人が歌っている。パナソニックの大きなビデオカメラでそれを撮影するどこかのテレビ局。観客は通り一杯に立ち止まったまま、じっと聴いている。曲が終わっても拍手は起こらないが、楽しんでいる様子は伝わって来る。

 

 自分たちのホテルの真下でそんな大騒ぎをされている二階の泊り客が、まだ終わらないのか、という風に下を覗いている。そのすぐ近くでは液晶ビジョンによるにわか野外映画上映が行われ、観客は自宅から持って来たような椅子に座って、スクリーンを食い入るように見つめている。コンサートの音でセリフはほとんど聞き取れないが、たぶんそれで十分なのだろう。

 

 賑やかな通りを外れた所で、ジュース売りの露店にいた男が声を掛けてきた。

僕を覚えてる?

じっと顔を見たが、覚えていない、と答えた。

自分はラメーシュの弟だ、と言う。えっ!と驚く。


 バラナシまで運転手として一緒に行くはずだった、アグラで別れたラメーシュ、、、その弟、、、。何故私を知っているのか不思議だったが、ツーリスト・インフォメーションで会っている、と言う。


 元々、人の顔を覚えるのは苦手だし、あの時は初日で全くそんな余裕が無かったのだ。

ソーリー、と言うと、いやいいんだ、、、だけど兄さんは不思議がっていた。何故途中で止めたのかと。

 

 歩きたかったんだ。街の中を、自分の足で。タクシーは、通り過ぎるだけだ。それに気付いたんだ、と言うとそうだったのか、と言う。そうなんだ。今はそれがはっきりと分かる。

 ジュースを飲むか?と言う。そういえば喉がカラカラだった。金を払おうとすると、おごりだ、と言った。今日二本目の、リムカを飲みながら色々聞いてみる。


歳は?

二十三。一つ年下なのに、髭のせいもあるが、妙に大人びて見える。

この祭りは毎年あるの?

そうだ。

決まった日に?

いや、日は決まっていない、だけど、、、。

八月末にあるんだね。

そうだ。


 この祭りは、何時に終わるの?十一時を過ぎているのに、その気配は全く無かった。

十二時に終わる。十二時になると近くの寺で笛を鳴らすんだ。案内するよ。

 飲み終わった瓶を店に返して、付いて行った。小さな建物の中の広間には大勢の人が座っていて、その前に数人の男たちが座り、一人が説教をしている。通りのスピーカーから聞こえた話し声はここから流されているようだ。それを見ていると、十二時までまだ時間がある、この近くにもう一つ寺があるからそっちへ行こう、と歩き出す。

 

 歩きながら聞かれる。

日本にも祭りはあるのか?

あるよ、主に夏のシーズンに。何がいいだろう?派手な物がいい、と思い、竹のスティックと紙で作った巨大な人形を担いで街中を歩き回る祭りがある、とテレビでしか見たことの無いねぶたのことを話す。担ぐ、という英語が出て来なかったので、恰好をして見せる。何とか分かってくれたようだった。


 寺に着く。履物を預け、裸足で観覧客の列に並ぶ。ラメーシュの弟は、じゃあ、これで、と去って行った。

 入り口に置かれた二m程のゲートの上には、ガネーシャの面を付けた男が横たわり、肘に頭を乗せてこちらを向いている。ゲートをくぐると、中庭には、絨毯が敷かれ、人々が座っている。目の前のステージで女の人が歌っているのを見ているのだ。

 

 中庭の壁沿いに二m程の神様の人形の作り物や、扮装した人々が座っていたりする。その壁と、人々の座っている所の間に通路が作られ、ぐるりと回って見ることが出来る。猿の顔をした神様がいた。後ろの男に、ハヌマーン?と聞くと、そうだ、と言った。

ステージの前を横切る。歌う女の人の脇で女の子たちが踊っている。普段着だから飛び入りかもしれない。

 

 ぐるりと一周して、外に出ようとすると、後ろの男が私の肩をつついて、見て行くか?と聞く。頷くと、男は先導して、客席の絨毯に上がり、座っている人に詰めさせて、席を作ってくれた。座ってステージを眺めた。すぐ後ろに座っていた少年二人が、床に落ちていた花びらを私の頭に振りかけた。オレンジ色の花びらはいい匂いがした。二人を振り返ると、ケラケラと笑う。耳を動かして見せるとまたケラケラと笑った。

 

 歌が中断して、寺の男だか、祭りの役員だかがステージに上がり、何やら述べ始める。ヒンズー語で分からなかったが、えー、今日は、めでたくクリシュナズ・バースデーを迎えることが出来、、、えー、幸い天候にも恵まれ、、、という感じの口調だ。緊張しているのか盛んに咳払いをする。大勢を前にして慣れないスピーチをするおやじの姿は、さながら日本の披露宴を見るようだった。

 

 演説が終わると、また歌が始まる。見物客がぞろぞろと前を横切る。じき十二時だったので切り上げ、笛の鳴る寺へ向かうことにした。後ろの子供たちはもういなかった。

表へ出て、靴を受け取り、寺へ向かう。通り一本隔てただけだったはずだが、さっき見たはずの寺は見当たらなかった。


 あたりを探したが、どこにも無い。十二時になったが、笛の音も聞こえなかった。もしかすると、十二時というのは特別な時間ではなく、早めに終わって門を閉めてしまったのかもしれない。笛を吹くと聞いて、ホラ貝か何かをブォ~、とでも吹くのかと思っていたが、もっと小さな音でしめやかに行われたのだろうか?


 いよいよ宿に戻ることにした。十二時を過ぎても、祭りは終わる兆しが無い。人もまだ通りに溢れている。いったい、いつまで続くのだろうか?

宿までもうすぐ、という所で、通りの明かりが一斉に消えた。停電か?とも思ったが、これが祭りの終わりの宣言だった。明かりがついている限り人はい続けるだろう。真っ暗になったら帰るほかない。何とも分かりやすく、手っ取り早い方法だ。インドだな、、、と思いながら宿の明かりを頼りに歩いた。


 部屋の電気は消えていた。廊下でタバコをふかしてから、そっと鍵を開け、部屋に入る。

真っ暗な中でベッドに横たわって、朝からのことを思い出してみる。アクシデントが次々とあった。そして、一度別れた人たち三人とばったり再会した。

溢れるように人のいる通りの中で、思いがけず再会出来た。あそこで違う道を選んでいたら、、、あと何秒かずれていたら、、、。


 全てが偶然だった。旅の日程も、祭りに合わせた訳ではなかった。たまたま、休みと航空券が取れただけのことだった。来てみたら、帰国する前日の夜、一週間の旅のクライマックスに、この祭りが用意されていたのだ。まったく、出来過ぎている、、、。


 昨日、アグラでタージの行列を見て、リクシャーのオヤジに、今日は何かあるの?と聞いたことを思い出す。彼は言った。そうだ、今日は、スペシャル・デイなのだ、と。全ての偶然がすんなりと受け入れられた。そうなのだ、、、今日は特別な日なのだ、、、。



                  ~続く~

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