第9話
八月二十九日・六日目
ニュー・デリー~ 1
けたたましい音で目が覚めた。窓から顔を出すと、ちょっと下の壁に取り付けられたスピーカーから、大音量でインド音楽が流れている。そのうち止んだが、いったい何なのだ?目覚まし代わりにはなったが、まだ起きる時間ではなかった。もう眠る気もしなかったので、通りを眺めながらタバコをふかしていた。そしてふと、ホテルの住所が分かることに気付いた。
ホテルと同じ通りの十mと離れていない土産物屋で、店番の少年の写真を送るために書いてもらった住所があるのだ。急いで手帳のページをめくる。インド、アグラ、タージ西門、そして土産物屋の名前。それだけである。念のため、リクシャーのオヤジの住所も見てみる。やはり同じ位簡単な物だ。
インド、アグラ、通りの名前と、彼のボスの土産物屋の名前。その住所宛てに手紙が届くのである。土産物屋の名前を、ホテルの名に変えれば確実に届く。国内だから、日数も掛からないだろう。ほっと一安心し、起きてきたノボルにそれを告げる。郵便局から出すよ、と鍵を土産のガネーシャの置物の入っていた古新聞に包み紐で結わえる。事情を書いた手紙をはさんだ。
送り方は郵便局で聞けばいい。とにかく気が楽になった。今日一日、メイン・バザールを歩ける。
ノボルが大きなリュックに荷物を纏めるのを待って、チェックアウトした。私は元々、小さなリュック一つだったが、彼もリュックをフロントに預け、身軽な格好で通りへ出た。
まず銀行である。リクシャーのたまり場へ行って、近場で両替え出来る銀行までいくらで行く?と聞くと、今日はやっていない、と言う。
何で?
祭りだからさ。
祭り!
クリシュナズ・バースデーは今日も続いていたのだ。それで通りに飾り付けがしてあったり、音楽を流したりしていたのだ。非常事態発生である。私の所持金は、数十ルピー、現金で二ドル、あとはトラベラーズ・チェックである。闇で両替えする手もあるが、二ドルごときではしょうがない。トラベラーズ・チェックで替える訳にもいかなかった。非合法な場所に流れたら、発行会社の信用を落とすことになってしまうのだ。変なところで、トラベラーズ・チェックの欠点を発見してしまった。銀行が無ければただの紙。
まず合法的な方法を探さなければならない。どうしたものか考えていると、リクシャーの車夫の一人が、開いている銀行を知っていると言う。ノボルはそれを聞くと、もし闇両替えだったり、その銀行が閉まっていたりしたら金は払わない、と車夫に言う。
場所は高級ホテル内にある銀行だった。値段の交渉をしていると、他のリクシャーたちが寄って来て混ざる。結局最初の車夫がノボルの言い値を受け入れた。ノボルは、行きましょう、と言って車に乗り込んだ。客を取り損ねた車夫の一人が私に、あいつ(車夫)は頭がおかしいんだ、と苦し紛れに言い、人差し指をこめかみのあたりでくるくる回した。
リクシャーで走ると、確かに通りにある銀行は閉まっていた。と言うことは郵便局も閉まっていると言うことだ。明日発つ前に送ることにしよう。
地図で見ると近く思えたので片道しか雇わなかったが、目的のホテルは市街から随分離れていた。とても歩いて帰れる距離ではない。ホテルの入口で待たせ、帰りも乗って行くことにする。
車夫は、私はここでは待てないから、あそこで待っている、と少し離れた所を指さした。どうやらリクシャーはホテルに横付けは出来ないらしい。
自動ドアをくぐり、クーラーの効いたロビーに入る。Ashok Hotel、ノボルのガイドブックによれば、日本円で七千円、ルピーでは二千近い、高級ホテルである。さすがに落ち付いていて、大きなロビーの脇にはブティックなどが並んでいる。
奥まった場所にある銀行に着き、カウンターにトラベラーズ・チェックを出すと、男はそれをちらりと見て、使えない、と言う。私の持っていたのはマスターカードの物、ノボルも同じである。仕方なくノボルはドルで替え、私は成田からの電車賃である日本円で両替えした。
とりあえず野宿は避けられた。ホテルを出る時、ノボルは、七千円かあ、泊まってみようかな、と言って高い天井を見上げていたが、とりあえずメイン・バザールまで戻ることにしたようだ。彼も大学の休みが終わるので明後日三十一日に日本へ帰ると言う。安くあげる旅がうまい旅とは限らないか、、、。見方を変えれば、一流ホテルに、わずか七千円で泊まれるのだ。
車の中で、リクシャーの相場を聞いてみた。例え日本のタクシーのように初乗りとその後の料金が決まっていたとしても、距離が分からなければどうする?と言うと、何台かのリクシャーに目的地までいくらで行くか聞いて、その値段から交渉して下げていけばいいんだ、と教えてくれた。
また、彼は、何かの拍子に、情報は多い程いいんですよ、とも言った。情報を集めて、素早く対応する。今回の両替えの一件でそれを見せつけられた。思わず尊敬の眼差しを送ってしまう。
元の場所へ戻って来た。ここで別れることにした。いろいろありがとう、と言うと、何でも無いですよ、と答えてどこかへ歩いて行った。
私もまた、歩き始めることにした。どちらへ行こうか、とその場に立って考えていたが、目の前にある映画館に人が溜まっていた。看板からすると、陰謀うごめくアクション物らしい。映画を観るのもいいな、と思い人の中へ割って入る。椅子に座って客を仕切っている男に何時から始まるのか聞いてみた。
次の回はすぐ始まるがチケットの販売は終わっている。その次は三時、六時、九時。チケットの販売は三十分前に始まるから、その頃来い、と言う。料金は十五ルピーだった。
溜まっていた人々は館内に入り始めた。通りからそれを眺めていると、男が声を掛けて来た。見ると、さっきのリクシャーの車夫である。てっぺんまで禿げ上がった頭と、前歯が四本程無かったので覚えていた。
俺が券を買って来てやるよ、チケット代七十五ルピーと税金が五十ルピー掛かるのだ。言葉を発するたびに、歯の抜けた間から、舌がちょろちょろ出たり入ったりする。空気が漏れて、聞き取りにくい。男は私の手帳に料金を書いた。正規の十五倍も吹っ掛けている。馬鹿言うな、要らないよ。ノー、と言って男から離れる。チケット売り場のすぐそばでこんなことを言うのである。
賑やかな通りへ入ってみる。ハート形をした揚げ物の菓子を買ってみる。百グラム三ルピー。ぶらぶらしていると、インド人の男が日本語で話し掛けて来る。自分は大学生であると言う。
映画を観るつもりだったけど、次は三時からだそうです、などと話していると、後ろから呼ぶ声がする。振り返るとサングラスを掛けた白人が立っている。サングラスを外したら、覚えている顔。昨日の夜、ニュー・デリー駅で別れたジェームスだった。
これから何か用事でもあるのか?と聞かれたので、ない、と答えると、何か飲まないか、と言う。彼は近くのホテルの一階の食堂に案内した。
客はツーリストだけだった。隅にあるテレビではマイケル・ジャクソンが白黒の画面で踊っている。腹が減っていた。
もう昼過ぎだったが、朝食のフルセット、と言うのを注文する。トースト二枚、目玉焼き二個、パイナップルと牛乳をミキサーに掛けたようなジュース、コーヒーが付いて二十五ルピー。ジェームスはソーダを頼んだ。食べながら話をする。これから、変更したチケットを受け取って、明日、アグラへ戻ると言う。しかも同じホテルへ。
本当?それなら頼みがあるんだけど、、、と鍵のことを話す。
問題ない。届けるよ。
サンキュー、助かった、と言って鍵を託した。
ここに泊まってるの?
ああ。
いくら?
ダブルで百五十ルピー。
シングルはあるのかな、と聞くと、よかったら一緒に部屋を使わないか、、、二人なら、一人七十五ルピーで泊まれる。そうしてくれると僕も助かる、と言う。願っても無い申し出であった。
オーケー、そうするよ。
食後のコーヒーが届く。インスタントの粉が山になって浮かんでいるのをかき混ぜて飲む。インドではチャイよりもインスタントコーヒーの方が高級だとみなされていると聞いたことがある。これがそうなのだろうか。そう言えば、一昨日のパラシュートのホテルでも、チャイと紅茶は同じ二ルピーだが、コーヒーは四ルピー、アイスコーヒーになると、その倍の八ルピーに跳ね上がっていた。ありがたく頂くことにする。
飲み終わってから、チェックインし、部屋に入った。狭い面積の七割位を二つのベッドが占め、木の椅子と小さな机が置かれている。開閉できる小窓が廊下側に二つ、反対の壁には鏡が付いている。シーツもそんなに汚れてはいなかった。室内を見回していると、これからコンノート・プレイスに出るけど、どうする?と聞かれる。本屋に行ってからチケットを受け取ると言う。ヒンズー語の辞書が欲しかったので一緒に出る。
オートリクシャーで行った。金を払う段になって、二人とも大きい札しか持っていなかった。車夫も釣りが無いと言う。五十ルピー札を渡して、崩して来てもらうことにしたが、どこでも断られる。
百ルピーなら替えてくれるかも、、、と言うので札を取り換えると、さっきまで両替えを拒んでいた男の一人が、何故かすんなり崩してくれていた。不思議だ。さんざん駆けずり回った彼に、車代十五ルピーとは別に、二人で五ルピー余計に渡した。
本屋に入る。店の男に、ヒンズー語の辞書が欲しいんだけど、と言うと一冊出して来た。百科事典サイズで、とても持って帰れない。もっと小さいのは?と言うと探してくれた。パラパラとめくってみる。それでいいのか?とジェームスが聞く。う~ん、ヒンズーを英語に、英語をヒンズーにというのが欲しいな、と言うと男に伝えてくれる。私はその辞書、ジェームスはペーパーバックを買って店を出た。
ホット、と彼は言った。クーラーのある所で、何か飲まないか、、、。
高級レストランに入った。ドアマンが扉を開けてくれる。よく冷えていて、店員もビシッと蝶ネクタイをしている。メニューを見ても結構な値段である。ソーダを頼むが、ウェイターは、何か食べ物は?飲み物だけではだめなのだ、と言う。当たり前だが英語の堪能なジェームスが尋ねたところ、ティーを取れば問題ないと言うので、ソーダと、紅茶をポットで頼む。
ジャパニーズフードの項目があったので、メニューを下げるのを待ってもらい手帳に写す。ローマ字だったり、英語とチャンポンだったりする料理名の下に説明書きがしてある。
Okaiyo 、、、ライススープを混ぜた物 オカイヨー?
Yaki Gyoza 、、、鶏肉、豚肉または野菜を詰めた団子を茹でた物
Moyashi 、、、茹でた豆の芽を醤油で調理した物
この他に、Mixed Mizutaki、Ebi Tempura、Sukiyakiがある。写し終わると、ウェイターはメニューを下げた。
ソーダと紅茶を交互に飲みながら、ジェームスは私の辞書をパラパラとめくる。
読めるのか?
読めないけど、テキストを持ってるから、いずれ読めるようになりたい、と言うと、すごいね、と言う。確かにすごいことだ。今は記号にしか見えない道の看板が、意味を持ち始めるのだから。
これからチケットを受け取りに行くけど、どうする?と言うので、付いて行くことにする。他に用事も無いし、二人でリクシャーで帰った方が安上がりだ。店を出て、通りの店を眺めながらぶらぶら歩く。ツーリスト・インフォメーションでチケットを受け取ってから宿に戻った。
五時を過ぎていた。映画は観に行くのかい?と聞かれる。六時の回を観るならチケットを取りに出掛ける時間だ。
ちょっと疲れたから、止める。駅へ行って時刻表を買って来るよ、と言って部屋を出た。
宿を出る時、名刺をもらっておくことにした。道に迷っても、それを見せて、人に聞くかリクシャーに乗るかすれば帰り着ける。ネームカードをくれ、と言うとフロントの男は従業員の少年に、持って来い、と言った。少年は何故かジュースを持って来て私に渡した。
何だろうと思って瓶を見る。リムカと書いてある。ネームカードが欲しいんだけど、と言うとフロントの男は、何だ、そうだったのか、と渡してくれる。栓を抜いてしまっていたので、リムカと言う名のジュースをもらうことにする。
この次はもっとゆっくり話せ、とフロントの男は笑って言った。ネームカード、早口だったので、リムカと聞こえたらしい。そうします、と言って予定外に出現したライムのような味のジュースを飲んだ。
~続く~
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