第8話

       八月二十八日・五日目

          アグラ~ 2



 ホテルまで戻って来た。時間があったので、チャイ屋で一緒にチャイを飲み、スナック菓子のような、パンのような、サモサを食べる。

 物乞いの老女が立ち止まって、じっとこちらを見ている。チャイにもサモサにも、手が付けられなくなってしまった。飢えている者を目の前にして、食べることに妙な罪悪感を覚えた。怖かったのは、こっちを見ているはずの目が、どこも見ていないことに気付いたことだった。闇のように暗い、全くの虚無だった。


 どうしたらいいのか分からないでいると、オヤジが、一ルピーやってくれ、彼女は、、、食べてないんだ、と言った。トゥデイ(今日)と言ったのかトゥ・デイ(二日)と言ったのか分からなかったが、ポケットから一ルピーのコインを出して、そっと握らせた。

 老女は無言のままどこかへ去って行った。自由な旅に浮かれていた私は、時々こうしてインドの現実を見せつけられ、背中に冷たい汗が走るような思いがした。


 被っていたムスリム帽を返そうとするとオヤジは、それはやる、代わりに何かプレゼントしてくれ、と言った。リュックからTシャツを出して渡した。汗だのほこりだのでかなり汚れていたが、オヤジの帽子も似たような物だ。しかし何よりも嬉しいプレゼントだった。

 

 五時半になったので、オヤジと息子をチャイ屋に残し、ホテルの食堂まで行く。バンティ少年とホテルの人々に、またきっと来るよ、と言って別れを告げた。ジェームスが息子に駅までの料金を聞く。息子は二十ルピー、と答える。ジェームスが、どう?と言う目でこちらを見るので、いいんじゃない?という目で答える。

 

 料金が決まり、私はオヤジのリクシャーで、ジェームスは息子のリクシャーで駅へ向かった。今日のリクシャー代について聞いてみる。

いくらなんだい?


アズ・ユー・ライク(お前の好きに)

それじゃ分からないよ。

答えは同じだった。

お前がハッピーなら、私もハッピーだ。


 何とか本当の値段を知りたかった。

教えてよ、デリーでリクシャーに乗った時困るから、、、と誘導するが、気を付けろ、デリーは何でも高い、とかわされる。リクシャーについて唯一分かったのは、アグラ城からの帰りに漏らした、リクシャー代として一日二十ルピーをボスに払わなければならない、ということだけだった。

 

 百でどう?と聞くと、お前がいいなら私もいい、と言う。昨日十ルピーしか払わなかったから、今日は張りこむつもりでいたのだ。考えてみれば、こんなところでケチることもない。いい仕事には見合った料金を払う。その意味で、オヤジはプロのリクシャー漕ぎだった。それを一番感じたのは、私が土産物屋に降りるのを渋っても、決して「ミルダケ、タダ」と言わなかったことだった。

 コミッションを稼ぐために連れ回ったのかも知れない。しかし私は入った店々で色々な物を見て、色々な話を聞いた。チャイもごちそうになった。それはそれで楽しい時間だった。

 

 お前がハッピーなら、私もハッピーだ。オヤジの言葉がよみがえって来る。

楽しかったよ、ありがとう、とリクシャーを漕ぐ汗のにじんだ背中を見ながら、心の中で呟いた。息子もあなたのようになるといいな、などと勝手に思っていた。


 オヤジは駅に着く手前でリクシャーを止め、タバコを買って来て、持って行け、と言った。オヤジは漕ぎながら、私はうしろに座りながら、それをふかした。これを吸い終わる頃、駅に着くのだ、、、。

 

 ゆっくりと走っていたが、すぐに着いてしまった。車を降りて、市内巡りの百ルピーと、駅までの二十ルピーを払う。息子がジェームスに提示した二十ルピー、本当はもっと安いのかもしれないが、この金額には説得力があった。少なくとも彼は、ボスへの今日の支払いを済ませることが出来るからだ。

 

 オヤジと息子と私とで、写真を撮ってもらう。別れる時が来てしまった。握手をして、きっとまた来るよ、と言った。

最後に、別れがたい出会いがあった時に使おうと覚えてきた言葉を言った。

フィール・ミレンゲ・ジー。

また会いましょう。


 タージ・エクスプレス到着の六時四十五分までまだ時間があった。座ってタバコを吸っていると、物乞いがやって来る。じっと諦めるのを待つ。

 通り掛かった少年が私の前で立ち止まり、こっちを見る。タバコが欲しいのかと思い、吸う?と差し出すと、駅でタバコを吸うのはよくない、と眉をひそめる。注意してくれたのだ。そうだったのか、と慌てて消す。そして辺りを見回すと、確かに吸っている人はいない。吸い殻は結構落ちてはいたが。


 タージ・エクスプレス到着の時間を十分程過ぎて、列車が一台やって来た。日本のローカル線のような車両だ。タージはいつ来るんだ、と思っていたら、その列車がそうだった。タージ・エクスプレスと聞いて、絢爛豪華な物を想像していたのだ。

 

 ジェームスの席とは一車両離れていたので、ニューデリー駅で落ち合うことにした。私の取った席は二等だった。席はボックスタイプ四人掛けである。私の指定された席を見ると、親子連れが座っている。近くにいた案内係に言うと、通路を挟んだ反対の席に座れと言う。ここはだれかの席ではないかと思ったが、腰を下ろした。たぶんノー・プロブレムなのだろう。


 前にはインド人夫婦、隣には白人男性、あとからもう一組インド人夫婦がやって来て六人掛けとなった。

 何とか無事に走り始めた。明るいうちは外を眺めていたが、変わりばえがしない。隣の白人男性は前のインド人と何やら話していたが、混ざる気力が無かったので目を閉じた。

 天井でファンが回ってはいるが、汗が流れる。時々ハエが寄って来て顔にとまる。追い払ってもまたピタッととまる。しばらくやっているうちに、私の方が諦めた。

 

 途中、何駅かに停まった。ホームで物売りの声がする。食い物屋、チャイ屋、、、。腹が減ったので何か食べようとホームへ降りた。屋台を見てまわり、おいしそうなフライドポテトがあったので買う。ノートの切れはしで作った袋に入って、ケチャップソースが掛かっている。車内に戻って食べる。うまいが、塩の効き過ぎでミネラルウォーター無しでは食べられなかった。


 隣の白人青年に聞かれる。

宿は決まっているのか?

イギリス人と一緒に探すことになってる。一緒に来る?


 三時間程で、ニューデリー駅に着いた。ホームに降りたところで待っていると、ジェームスがやって来た。三人で線路を二つ三つ跨いだ向かいのホームにある出口へ向かう。陸橋が掛けられていたが、かなり遠回りになる。近道は、線路を直接またいで渡ることだ。結構やっている人がいるのでそうする。

 

 見えない足元に注意しつつ歩いていると、後ろから日本語で呼ばれる。私がホームから線路へ降りる時、どっこいしょ、と言うのが聞こえたので声を掛けたと言う。同じ位の歳の男だった。大きなリュックに、寝袋も装備している。ソバージュの掛かった髪は肩まであり、鼻の下とあごに髭を生やしている。


 長い旅だな、と思った。これまでに目に留まった長い旅らしい方々は、長髪で無精髭を生やしているか、スキンヘッドだった。そして必ず、サンダル履きだった。

 長い旅だという根拠は無いが確信はあった。長い旅をしている者が一番周りから浮いて見えると言うのも変な物だ。その一方で、そうなってみたいとも思う。

 

 彼は、宿は決まってるんですか?一緒に探しませんか?と言った。とりあえず前にいる二人と合流する。改札には駅員はいなかった。列車に乗る時も切符のチェックは無かったし、何とも大ざっぱである。駅を出ると、オートリクシャーが溜まっているのが見える。

 さて、どうしようか、と思っている所に、もう一人、眼鏡を掛けた日本人の若者がやって来た。私は日本人二人と、ジェームスはさっきの白人男性と宿を探すことになり、別れを告げた。

 

 メイン・バザールへ行って当たることにして、ノボルと名乗った寝袋リュックの男が何台かのリクシャーにいくらか聞いて回る。彼はヒンズー語で交渉し、素早く、安く行くリクシャーを捕まえた。

 

 三人で乗ると座席はぎゅうぎゅう詰めだった。なかなかエンジンが掛からない。ついにだめだということが分かると、ノボルは、他を当たりましょう、と言って降り始める。リクシャーの男はまあ待て、と言い、誰かからリクシャーを借りて来て、ようやく出発出来ることになった。


  荒っぽい運転だった。道が悪いせいもあるが、どこかにつかまっていないと低い天井に頭をぶつけそうになる。

 ノボルはインドを二か月、眼鏡の若者はタイを回ってからインドに来たと言う。ノボルにさっきのヒンズー語のことを聞いてみる。

 

 彼は大学でインドのことを専攻していると言う。うまい訳だ。聞き取れて、気になった言葉を聞いてみる。話がこじれると彼は、キョーン?と言い、まとまると、ティーケーと言った。キョーンはWhy、ティーケーと聞こえたのはティーク・ヘーであった。素早くメモを取る。

 

ティーク・ヘーってのは、メーン・ティーク・フーン(私は気分がいい)と同じこと?

まあ、そうです。オーケーと言うことです。

コピュラ動詞が変化していのか、、、。変なことを知ってますね、と彼は言った。ヒンズー語のテキストを二年も前に買ったのだが第一課で止まったままである。英語と同じようにアルファベットから覚えようとしたのがまずかったようだ。書けなくたって、喋れればいいのだ。現地に来てそう思った。


 メイン・バザールに着くと、宿の明かりがあちこちに見える。眼鏡の若者は、自分は部屋はとってあるから、とここで別れることになった。

 二人で手近な宿を当たってみる。ダブルルームしかなく、二百ルピーであると言う。ちょっと高いな、と言うと、ノボルは、この辺だと相場じゃないですか?と言いつつ交渉を始める。


 宿の二百と、ノボルの百五十が互いに譲らない。じゃあ、だめだ、と通りへ出る。さて、どうしようか、と思っていると、今交渉していた宿の男が一人車に乗って立ち去った。するとすぐ宿からもう一人男が出て来て、泊まれ、百五十でいい、と言う。

 今帰ったのはホテルのオーナーらしかった。ボスの前では値段が下げられないのだろう。この時間になると、部屋を空けときたくないから、ホテルも客を取りたいんですよ、とノボルは言った。相部屋、一人七十五ルピーで今夜の寝床は決まった。


 荷物を置いて、二人で買い物に出掛ける。タバコを買って金を渡すと、店の男はこの札は受け取れない、と言う。インドでは破れた札は使えないと聞いていたが、今までに手にしてきた札は穴の開いていない物の方が少なく、そして使えた。この札のどこがいけないのだろうと見てみると、ヘリの部分が破れていた。

 

 穴はよくても、端が切れているとまずいのだろうか?別の札で支払う。次のミネラルウォーターの支払いにさっきの札を出してみると、店の男は受け取った。ババを引かせたような気分であった。二人で露店でバナナを二本ずつと、彼はオムレツパンを買っていた。


 オムレツパン、、、露店のフライパンでオムレツを作り、トーストに挟む。作り置きはしていないので、出来たてが食べられるし、作る過程で卵の焼ける音や、においが食欲をそそる。今は列車内で食べたフライドポテトで腹は膨れていたので、見ているだけにした。

 

 部屋に戻り、鍵を開けようとしたが、おかしい。鍵が合わないのだ。もしや、と思いポケットを探ると、もう一つ鍵が出て来る。その鍵で戸は開いた。最初の鍵を見てみると、今日チェックアウトしたパラシュートの宿の鍵だった。チェックアウトする時に返し忘れたのだ。向こうも何も言わなかったから、返したと思い込んでいた。やばい。宿は迷惑だろう。

 

 日本人は、世界中のホテルで記念に鍵を持ち帰ってしまって、大ヒンシュクだそうですよ、とノボルは言った。

 まったく、うっかりしていた。突然のトラブル発生である。ベッドの上で考える。解決方法は三つ。

一、 ほっかむりする

二、 返しに行く

三、 郵送する


 一は考えられない。あの素晴らしいホテルに二度と行けなくなってしまうではないか、、、何らかの方法で返さなくてはならない。郵送するか、、、と思って住所を探す。ホテルの名刺には書いてあるはずだ。無い。貰って来なかった。これに似た方法。近くのレストランの名刺は持っている。電話して、ホテルの番号を教えてもらう。これが出来ないとなると、あとは日帰りで行って来るほか無い。


 明後日の昼過ぎには空港へ向かわなくてはならないから、明日の朝行って、夜帰って来ることになる。ノボルに時刻表の見方を教わって調べる。可能ではあった。座ることを考えなければ、乗車券は手に入る。何かアクシデントがあって足止めされることを考えると、危険な方法ではある。東京行の飛行機は待ってくれない。


 住所が分かっていれば、郵送するのがいいと思うんだけど、、、。一週間しか無いのに、鍵を返すためだけに一日潰すのはもったいないと思う、とノボルは言った。

夜も遅くなってきた。整理してみる。まずレストランに電話して、ホテルの番号が分かれば教えてもらう。ダメだったら、行くほか無い。

 

 金が無いから、銀行が先だ。ノボルもルピーが少なくなって来たから、一緒に銀行へ行くと言う。リクシャー代が半分になるから、どちらにとっても助かる。九時半に起きて銀行へ行くことにして、ノボルは目覚まし時計をセットした。


 交代で風呂を使い彼はついでに洗濯をしていた。バッグからロープを出すと、部屋に渡し、シャツやらパンツやらをぶら下げた。

旅の話を聞きたかったが、二時を過ぎていた。明日に備えて眠ることにする。電気を消すと、扇風機のゴーゴーと言う音が際立ってうるさく聞こえた。



                   ~続く~

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