第5話

   八月二十七日・四日目

      アグラ〜 1


七時頃目が覚めた。テレビを付けてみる。これから公開される映画の情報、どこかで起きた暴動のニュース、どこそこにショッピングセンターが出来た、などに混じって、気になるニュースがあった。ミネラルウォーターからバクテリアが検出されたという。外国人観光客が瓶を持って歩いている姿が映り、白人青年が街頭インタビューされている。メーカーの名はBisleri、ふと自分の飲んでいる物を見ると、同じ物だった。昨日から飲んでいるが何ともないので大丈夫だろう。


 今日の予定を立てる。金が無いのでまず銀行へ行かねばならない。十時に開き、土曜なので十二時に閉まってしまう。列車のチケットを十一時に受け取ってから出たのでは危ない気がする。迷わず着く自信は無かった。


 九時半になったので、フロントへ行ってチケットが手に入る時間を聞くと、遅れて二時になると言うのでチェックアウトして銀行へ行くことに決めた。

ガイドブックの略地図を見せて、ホテルの位置と銀行までの道を聞く。地図で見ると一キロ位ありそうだったが、宿の男はそんなには無い、近道がある、と言った。

フロントのソファで一息ついた。男が尋ねてくる。


インドはどうだ?

グレイト、と答えつつ、貧困なボキャブラリーに我ながら呆れる。

インドの女はどうだ?

きれいだと思う、と言うとオレは外国の女が好きだ、と言った。

ガールフレンドはいるのか?

いない。

何、いないのか?一人もか?

ガールフレンドって、つまり親密な関係って意味?

そうだ。

いないよ。喋ったり、一緒に飯食ったりするのはいるけど、、、ジャスト・フレンドだ。

そうか。今晩の宿はどうする?もう一泊するなら安くするぞ。

宿は探すよ。

八ドルでどうだ?

いえ。

五ドルでは?

いえ。

何か不満でもあるのか?

無いけど、、、色々なホテルに泊まりたいんだ。それに、もっとタージのそばがいい。

そうか。


 二時にチケットを受け取りに来ることを告げ、宿を出た。大通

りへ出る角を曲がると、サイクルリクシャーが溜まって、立ち話しをしている。当然声が掛かる。


どこまで行くんだ?

銀行まで、でも歩く。

乗れ。


 断るつもりで、一ルピーでどうだ?と聞くと、いいと言う。

えっ?一ルピーでいいの?と思いつつ乗る。砂利道をガタガタ跳ねながら、男は言った。

銀行が済んだら、市内観光へ行く、オーケーか?

ノー。タージへ行く。すぐ近くだろ?

いや、遠い。オレが連れってってやる。

などと言っているうちに銀行へ着いた。ホテルから五百m無い距離だった。降りて入ろうとすると、ここで待っている。市内観光してやる。金は後でいい、と言った。とりあえず、両替えを済ませることにした。

 

 正面に窓口があった。両替えしたいんですけど、と言うと、奥へ行けと言う。窓口カウンターの脇を抜けて奥へ入ると、小机が三つ四つあり、係員が座っている。外国人ツーリストが何人か来ている。トラベラーズ・チェックを出し、両替えに必要な記入用紙に氏名、パスポートナンバーなど記入し終わると、係員は私のパスポートを見ながら帳簿に記入していく。トラベラーズ・チェックにサインすると、係員は、パスポートはここに置いてこれを持って窓口へ行け、と番号の入った大きなコインを渡す。


 窓口へ行くが、混んでいてなかなか順番が回って来ない。時々、分厚い札束を持ったインド人が窓口の男に何やら言って渡す。入金だろうか?ふと外を見るとさっきのリクシャーがまだ待っている。当分終わりそうも無かったので、待たせた分五十パサ上乗せして渡し、ここまででいい、タージへは歩いて行くよ、と告げた。

 三十ドル分のルピーを受け取る。九百ルピー以上持っていることになる。二百ルピーを細かくしてもらって財布に入れ、残りは首から吊るしているパスポートケースにしまった。

 

 銀行を出て、タージへの道を歩く。ここからだと一本道で行けるはずだ。歩くだけで玉になった汗が流れ落ちる。自転車に乗った少年が私の横に付け、同じ速度で進む。

学校は終わったの?

うん。

午前中で?

土曜だから、、、。照れながら答える。かわいい。

 タージまでの道を聞くと、やはり真っすぐのようだ。タージのゲートへ続く中道まで送ってくれ、別れた。中道へ入るとゲートまではもうすぐだ。

 

 前から一人男が歩いて来る。今夜の宿は決まっているかと聞くので、決めてないと言うとホテルの名刺をくれた。

よかったらどうぞ。

はあ、どうも。

 

 気が抜ける位あっさりとした勧誘であった。もしかしたら、行くかも、と言うと、はあ、そうですか、と去って行った。名刺を見てみる。JAHANGIR LODGE、タージから歩いて三分、ドミトリー二十五ルピー、シングル四十、ダブル六十、バス付き八十、デラックス百。や、安い。デラックスルームに泊まっても昨日の三分の一、初日の六分の一ではないか、、、。インドの宿は歩いて探せ、というのはこういうことだったのかと、嬉しいやら悔しいやらだった。

 

 タージの西門に着く。中は昨日見たので周りを歩いてみることにする。絵ハガキ売りやリクシャーの勧誘を振り切りつつ歩く。土産物屋の店先にジュースが並んでいる。のどが渇いたな、とそれを見ながら歩いていると、ジャパニ、飲んでけよ、と店番の少年がコーラを指さす。瓶入りコーラ八ルピー、冷えたやつの栓を抜いてくれる。少年は、ここに座んなよ、とベンチを指さす。荷物を脇に置いて腰掛ける。飲みながら人の往来を眺めた。外国人ツーリスト、インド人旅行者が通るたびに、絵ハガキ、リクシャー買ってけ乗ってけ攻撃が行われるが、全く成果は上がらない。

 

 そんなものを見ていると、いつの間にか店番少年の兄だか、店員だかという男が隣に座っていた。どこから来た?学生か?結婚は?、、、おなじみの質問に答えると男は言う。

何か売るものは無いか?時計は?カメラは?他に無いか?

無いよ。

そうか、、、おお、お前の時計はカシオではないか、、、これを見ろ、私の時計もカシオなのだ。弟が日本で働いていて、送ってくれた物だ。

へ〜え、、、本当だろうか?


 土産はどうだ?アグラは大理石細工が有名なのだ、と男は言う。ショーウインドウを見ると、さまざまな物が並んでいる。安っぽい作りのタージ・マハルのミニチュア細工もある。京都で金ぴかメッキの金閣寺を売っているのと同じく、アグラと言えばタージ・マハルなのだ。

 

 フィルムを売っていたので値段を聞いてみた。二十四枚撮りでコダック百二十五ルピー、コニカ百十ルピー、フジ百ルピー、封を切ってしまったむき出しの古そうな物五十ルピー。

高い!どれも三百円以上している。日本からフィルムは四本持って来たが、フジの韓国逆輸入品を二百円で買った物だ。買い足すのはばかばかしい。この四本で収めることにしよう。

 

 もう行くよ、と立ち上がると、店番少年が写真を撮ってくれ、と言う。カメラを構えると、少年はクーラーボックスに腰掛けじ〜っとカメラを見ている。カシャ。オーケー。送ってくれないかと言うので住所を書いてもらい店を出た。

 十mと歩かないうちに今度は食堂から声が掛かる。二つの声が同時だった。一人は少年、もう一人は少し先の別の食堂にいる男。そろそろ昼時だった。腹へった。

 

 少年に付いて食堂へ入る。どうも子供には弱いのだ。部屋もあるよ、と言う。ここはホテルの一階食堂だったのだ。メニューを見ると、飲み物の欄にTea(Indian Tea)というのがあった。これはチャイか?と聞くとそうだと答える。インドの国民的飲料チャイ。まだ飲んだことが無かった。

 

 トースト、ジャム、チャイを頼む。トーストは二枚一ルピー(焼かないと五十パイサ)ジャム三ルピー、チャイ二ルピー。

 少年がトーストを運んでくる。部屋を見る?と言うので、食べたあとで、と答える。チャイを飲んでみる。紅茶の葉っぱと水、牛乳、ショウガなどのスパイスをまとめてぐつぐつ煮た物で、言ってしまえばインド風ミルクティなのだが、ひどくおいしく感じた。

 

 ついにチャイを飲んでしまった。大袈裟なようだがインドでチャイを飲むのは夢だったのだ。地に足のついた旅はここから始まるような気がした。

 

 食べ終わって会計を済ませ、部屋を見せてもらうことにした。少年が先導して二階への階段を上がる。戸の開いた部屋で客がゴロ寝している中を覗いて見る。悪くない。一泊五十ルピーだと言う。少年は先に立ってさらに上がって行く。壁にROOF RESTAURANTと書いてある。三階は、小さな屋上になっていた。床から突き出た三メートル程の木の棒に白いパラシュートが広げられている。その大きなパラシュートの下にテーブルと椅子が置いてある。

 

 所々やぶれた穴から陽が差し、青い空と白い雲が覗く。そしてタージの頭が間近に見える。一発で気に入ってしまったが、もっとタージが近く見えるホテルがあるかも、と欲を出し、もしかしたら来るかも、と言って外に出た。

 タージ西門、Hotel Host、覚えた。ガイドブックに載っているツーリストお勧めのホテルを発見したので、部屋を見せてもらう。四十ルピーと安かったが薄暗く、消毒薬のにおいがした。屋上も低く、タージは見えなさそうだった。あれ以上のホテルは無いな、と思い、宿探しは止めた。

 

 それから方角も決めずに歩き回った。タバコ屋に寄って、ポピュラーなのはどれ?と聞くと、色々銘柄を出してくる。隅に、ビーリーを見つけた。葉っぱに巻いたタバコで、たぶん最も安いタバコだが、ラメーシュにもらって吸ってみると、インドっぽくて結構気に入っていた。パッケージには男の顔が印刷されている。昨日ラメーシュに、俳優?と聞くと、タバコ会社のボスで、オンノルと言う、と教えてくれた。ビーリーにもランクがあるが、おおむね一〜一・五ルピーだった。一つ買った。


 アグラ城へ行ってみようと思った。地図で見ると三キロという所だ。こっちだろうと見当をつけて歩き出すが、道に迷ってしまった。学校帰りの自転車少年に尋ねるが分からない。少年は後からやって来た自転車の男とゴニョゴニョ話していたが、やがて男が私に、どこまで行くんだ?と聞いた。


 とりあえずタージ・マハルまで戻ることにした。そう告げると、ゲートまで案内してくれると言う。自転車から降りて一緒に歩く男の足元を見ると、涼しそうなサンダルを履いてペタペタと音をさせている。私は素足にズック履きだったので暑くて仕方ない。この辺でサンダルを買える所はありますか?と聞くと、連れてってやる、と言った。

 

 見覚えのある場所まで戻って来た。靴屋は道端にあった。男に礼を言って靴屋へ入る。サンダルはある?と聞くと、あるぞ、これはどうだ、とゴム製ビーチサンダルを出してくる。履いてみたがいい感じだ。値段を尋ねると、七十ルピーであると店の男は言った。ガイドブックで、安い物は二十五ルピー位と読んでいたので、高い、二十でどうだ?と言ってみる。男は、ノーノー、これはいい品物なのだ、七十である、と言う。じゃあ要らない、と外に出ようとすると男は、六十!と叫ぶ。こちらも、二十五でどう?と言ってみる。


ノー。

じゃ、要らない。

五十!などと下がっていく。全く教科書通りの進行におかしくなる。四十位まで下がって買ってもいいかな、と思いサンダルを手に取って眺めていて、はっとする。その時私は見てしまった。サンダルのかかとに値段を書いたシールが貼ってあったのだ。三十四ルピーと何十パイサかだった。

 

 男も気付いたのか、さりげなくサンダルを裏返そうとする。ここに値段が書いてあるじゃないか、と言うと、何、これは違うのだ。これは仕入れ値である。この値段で売ったら私は赤字である、と真顔で言う。じゃ、要らないと言って外に出る。男が呼び止めて、三十五ルピーで商談が成立するのであった。

 

 早速サンダルに履き替え、今回は我ながらうまくいった、などとニヤニヤしながら引き上げる。まだ近くでおしゃべりをしていた自転車の男に礼を言い、タージまでペタペタと歩くのだった。そして、道端の屋台でアイスキャンデー二ルピーを買い、座り込んで店の男と話などする。

 

 そんなことをしているうちに、じき二時になろうとしている。ホテルへ戻って列車のチケットを受け取らなければならない。見当を付けて歩いていたが、また迷ってしまった。サイクルリクシャーを捕まえて行くことにしたが、大通りへ続く細道でさっぱり動かなくなる。見ると、何十人もの人々が道一杯に列を作り、ゆっくりと歩いていた。葬式だ、とリクシャーの男は言った。言われて見ると木で出来た棺桶を何人か掛かりで肩に担いでいる。


 イスラムの葬式だ、と男はまた言った。その一群は無言のままゆっくりと進んでいく。私を乗せたリクシャーも、その後についてそろそろと進んだ。棺桶の中には死人がいる。当たり前だが、そんなことを思っていた。


 葬式をやり過ごしたのはいいが、男はホテルの場所を知らないようだった。電話屋に寄って地図を見せて聞いてみる。近くにある目立つホテルの名を言うと、ああ、そこなら、と教えてくれる。

 電話屋、、、公衆電話の代わりなのだろうか。店内に置かれた電話を掛けさせて使用料を取るのだ。国際電話も掛けられる。礼を言ってリクシャーに乗ろうとすると男は言うのだ。ところで君、お母さんに電話を掛けないかね?

 

 何とかホテルに着きチケットを受け取る。リクシャーの男は来た道を引き返す途中で、一軒の土産物屋の前で止める。見たくないよ、タージへ戻れと何度言っても「ミルダケ、タダ」を日本語で連発する。強引さに腹を立てながら、見るだけだからな!とリクシャーを降りる。大方、買い物でもすればコミッション(紹介料)でも入るのだろう。

 

 店に入って、服の生地、カーペット、大理石細工、、、何となく見て回る。すぐに出るつもりだったが、刺繍入りの座布団カバーに、いいな、と思う物があった。積んであるのを一枚一枚めくってみる。きらびやかな刺繍を施された象がパオーンと鼻を持ち上げている。祖母にいいタペストリーがあったら買って来てほしいと頼まれていたのだ。値段を聞くと、百ルピーであると言う。三十、と言ってみる。


それじゃ売れない。

帰る。

待て、八十でどうだ?

もうちょい、などと言っていると五十まで落ちた。

四十では?

ノー。

四十一。

ノー。一ルピーずつ上げてみる。

四十五では?

ノー。


 う〜ん、、、と考える。この辺が限界なのだろうか。しかし相手の言う五十で買うのはしゃくであった。黙っていると男は、ハウマッチ・イズ・ユア・ラストプライス(お前の最終価格はいくらなんだ?)と聞く。交渉もここらでクライマックスを迎えようとしている。

 

 私のラストプライスは、、、四十五ルピー!と言い放ち、足早に立ち去ろうとする。声が掛かるだろうと思っていた。あれ、、、?ない。どうやら本当に四十五では売れないらしかった。ついに外へ出てしまったが、戻ることは出来ない。あんたの勝ちだ、五十で売ってください、とは言えなかった。

 

 インドでは値切ればどんどん下がりますよ、得しちゃったなあなどと本に書いてあったり、人から聞いていた。しかし、吹っ掛けられた値段をまともな値段に戻していくだけのことなのだから、下がって行って当然なのだ。得したような気はしても、最後に笑うのはインド人なのだ。まったく腹立たしいことであるが、しかし、面白いなあ、、、と思ってしまうインドの買い物なのだった。

 

              〜続く〜

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る