女嫌いと、謎の少年

「あら? 旬、あんたずいぶん遅かったわね……」

「母さん……今日は学校でボランティア活動があったんだよ、それで」

 夜、へとへとになってジャージ姿のまま帰宅した。さすがにこの時間になると隣の工事現場は静かになっていた。

 そのまま鞄を二階の自室に置きに行こうと階段をあがろうとしたところで、母さんに声をかけられたのだ。

「へえ……あたしはてっきり、彼女とデートでもしてきたのかと思ったわよ」

「はあ!? 彼女……」

 なにを言ってるんだ、この人は。

「ないないない! 絶対、ないっ!」

「はあ……この子はなんでこんなになっちゃったのかしら……はああああっ」

「ずいぶんと深いため息だね。やめたほうがいいよ、嫌味に聞こえるから」

「嫌味なのよ」

 母さんは頬に手を当てて、また深くため息をついた。

「なんだよ、おれが女嫌いなのは母さんだって知ってるだろ?」

「でもそんなんじゃあんた結婚できないじゃない……」

「結婚なんてするか!」

「あたしは心配よ」

「なにがだよ?」

「あんたがいつか彼氏ですって、“男”を連れてこないか」

「やめろやめろ! 息子をなんだと思ってんだ!?」

 この人は落ち込むふりして、おれをおちょくってんじゃないだろうか。

 そんな疑念すら思い浮かんでしまう。

「昔はあんたもマセたガキだなあなんて思ってたもんなのにね……ほら、小学五年生ぐらいのときだったかしら、近くの山で遭難したじゃない、あんた……」

 母さんが遠くを見るような目で語ってくる。

 おれはそんな話をげんなりした表情で聞き流しながら言った。

「あー、あー、聞こえない! もう昔の話はやめてくれー!」

 おれは階段を駆け上がった。

「ああ、もう。ちょっと……晩御飯できてるからね……!」

 階下からそんな声が聞こえてくるが、疲れていたのでいったんベッドで横たわってゆっくりしたかった。


 おれは自室に入るとばたんと扉を閉めて、板が倒れるようにベッドに横たわった。

 ぽふ。

「はあ……疲れた」

 しかし女と半日いっしょにいるとか、どんな罰ゲームなんだ。しかも全然知らない下級生の女と。

 たしか、石原灯梨とか言ったか。

「なんで女の名前なんか覚えてるんだ、おれは……」

 自己防衛のためとは思いつつ、記憶の一部を女に占有されていると思うと腹立たしい。もう学校でも一生絡むつもりなんてないのに。

 はあ、それにしてもあいつ、いったいなんだったんだ。

 最初はあんまりこちらに興味なさそうだったし、緊張して話しかけても来なかった。だから、こちらも無言で無視してても気疲れしなかったし、それはよかったんだが。

 途中から奇行は目立つわ、チラチラ見てくるわ。

「なんだったんだ、本当に……」

 ああ、駄目だ。イライラする。

 どうしておれはたかがひとりの女のことでこんなに悩まないといけないんだ。

 無性に腹が立つ。

「ああ、駄目だ駄目だ! こんなこと考えている間に、宿題でもやろう!」

 そうだ、こういうときは淡々とできる漢字の書き取りや計算ドリルをやるにかぎる。

 ベッドから立ち上がって、毎日のルーティンを終わらせるため勉強机に移動した。


「んっ! んんー……っ!」

 それから数時間。今日の自習を終えて、軽くストレッチしてため息を吐いた。

 毎日のルーティンワークというやつで、その日の宿題と復習・予習は必ず終わらせている。もちろん全教科である。

 別にテスト前でもないし、だれにアピールするということもない。

 ただの習慣だ。

 時間にして毎日二時間くらいだろうか。

 中学にあがるころから毎日やっているので、辛いとも感じない。むしろこのくらいのことで毎回中間・期末テストで学年上位を取れることを思うと、楽なものだ。

 それらが終わって時計を見ると、まだ寝るには中途半端な時間だ。

「しかし、もうランニングって時間でもないな」

 日課には一時間ほどのランニングも入れているが、今日は予定外のボランティアのせいで、そちらは休むことにした。

 近頃朝練と夕方のランニングでオーバーワーク気味だったし、たまには休みも必要だよな。

「しょうがない。マンガでも読むか、新刊出てるかな……」

 ベッドの上にあったタブレットを取りあげようとして机から立ち上がり――。

「…………」

 なぜか、勉強机隣の窓が気になった。

 窓にはカーテンがかけられていて、外の夜景を断絶させている。

 しかし、さっきからそのカーテンの隙間からチカチカとした明りが入ってきていた。

「なんだ……」

 そのまぶたを痙攣させるような明りが、目障りでカーテンをガラっと開けた。

 外を見る。

「なんだ、街灯かよ」

 どうやら、切れかけた街灯が自分の余命を訴えるようにかすかに明滅していたらしい。

 なんだ、可愛いやつめ。

「明日市役所に電話しておいてやろう」

 そう思いつつ、カーテンをピシャリと閉めようとした。

「ん?」 

 開けたカーテンに手をかけて、すぐその手を止めた。

 部屋からは見えるのは、まず車が二台すれ違えるか違えないかという道路。それから、その道路を挟んで向かいに大きな公園が見える。

 自宅の向かい側には市内でも指折りの大きな公園がある。休日の昼間は家族連れの笑い声なんかが聞こえてくることも多い。毎日、おれの夕方のランニングもあそこで行っている。

 それでもいまは夜だ。

 いくつかあるライトが無人のベンチや植え込みを照らして、しんと静まり返っている。

 公園の中は茂みや林の木立のせいでライトがあるとはいえ、奥までは見えない。

 見えて、せいぜい入り口のベンチくらいだ。

「ん~~~?」

 だれかいる。

 その入り口のベンチに座っている人影が見えた。

 ここからじゃ遠くて背格好まではわからない。けれどスーツ姿ではないし、酔っ払いのサラリーマンが夜風に当たっているというわけでもなさそうだ。

 しかしこんな日も落ちた夜に街灯の下、ベンチでひとりなにやってんだろう。

「気味悪いな」

 ベンチに座っている人物はうつむいているのか、顔はわからない。

 だがじっと見ているとその人物がフードつきのパーカーを着ていることくらいはわかった。

 そのフードをかぶっているせいで、髪型などはわからない。

「こんな時間に……」いったい、なにしてんだ。

 さらにじっと目を凝らして見てみると、かすかにその手に本を持っているように見えた。

 夜の公園で薄明りの下、本を読んでいるなんて。変なやつもいたもんだ。

 ここから見た印象、ずいぶん小柄だからきっと中学生。だとすると――。

「ははーん。中学くらいか……」

 ようやく合点がいった。

 人間には、特に男には決まってそういう多感な時期があるものだ。

 雨の日に急に傘をささずに歩いてみたくなったり、授業中に隠れてラノベを読んだり、今日はだれともしゃべらない沈黙の月曜日を作ってみたり。

 おれはどれもやったことないが、友だちから聞いた話そういうやつもいるらしい。あくまでも友だちの話な。おれじゃないぞ?

 つまり他人がやらないことをわざとやるのがカッコイイという、詫びさびにも通ずる、古くは『傾奇』と呼ばれる日本の伝統だ。

 まあそういうことなら、そっとしておいてやるか。

 そのとき、ベンチの人物のフードがこちらをちらりと見た。

 フードの中の暗闇がおれをじっと見ていた。

「……!?」

 そんな気がした。

 背筋が寒くなって、慌ててカーテンを閉めた。

「…………」

 しばらくしてそっとカーテンを開けてみる。

 フードはもうこちらを覗いていない。ベンチの人物は再び手元に目を落とすように、うつむいていた。

 ほっと胸をなでおろすとともに、冷静になって思った。

「いや、べつに隠れる必要ねーじゃん。はは……」

 たまたま部屋から見える位置に公園があって、そこに不審な人物がいたから観察していただけだ。うん、おれはなにも悪くない。

「それにしても……」

 あらためて考える。中学生がこんな時間に人気のない公園でひとりっていう状況は、やっぱり見過ごせないよな。

 ここらへんは閑静な住宅街だけど、最近世間はいろいろと物騒だからな。

 ちょっと声でもかけてみるか。

「……どうやって?」

 相手が男とはいえ、初対面の中学生にどうやって話しかける。

 近所に住んでいる者だからと話しかけて、もし不審者と間違われればどうだ。ひょっとして警察を呼ばれたら。

「ああ、ご近所に人格を疑われてしまう!」

 おれは用心深いのだ。

「うっ……」

 またフードがこちらを向いた気がする。

 きっと気のせいなんだろうけど、怖いので再びカーテンをピシャリと閉めた。

 そうやって誤魔化していたが、よく考えたらカーテンの開け閉めで、だんだんと向こうがこちらを不思議に思っていないか心配になってきた。

「いやいや自意識過剰なだけだ」

 自分にそう言い聞かせるが、どうにも不安はぬぐい切れない。

 もしご近所に、公園にいる中学生の少年を観察している男子高校生がいるなんて噂を流されたら、やはりおれは人格を疑われてしまう。

 やっぱり一度声をかけにいくか。

「だから、どうやって?」

 第一声を失敗すれば、絶対警察に通報されるぞ。

 もう一度公園の少年の姿をじっと見た。

 するとそのフードが揺れ、こちらを振り向いた気がした。慌てて、三度カーテンを閉める。

 いいや、駄目だ。このまま遠目に観察していても、そのうちバレて通報されかねない。

「とりあえず普段着に着替えよう」

 ラフな部屋着から外行きの格好に着替えた。


 家の玄関を出ると、外の道路ではまた切れかけた街灯がチカチカしていた。

 思ったより寿命が近いみたいだな。そう思いながら道路をはさんだ公園へと向かう。

 できるだけ静かに、何気なく何気なく。不審な態度は出さないように。

 抜き足、差し足。

「いやいや、不審すぎだろう……」

 おれは思い直して、服のポケットに手を突っ込み、散歩感覚で夜の公園に入った。

 夜の公園は静かだった。

 静かすぎて、ものすごく違和感がある。なんだかここだけ住宅街の隙間に開かれた異世界みたいだ。昼間の公園とはまったく別の感覚がある。

 ぼうっと光る光量の少ない街灯は公園の夜闇を押し広げるには心もとない。植え込みや木立はそんなわずかな光すらさえぎり、少しも奥を見せない。

 公園の茂みはどこか不気味だ。

(中学二年生が思わず夜に本を読みたくなるのも頷ける)

 なんて内心格好をつけていたが、心臓はどきどきしていた。そのまま心臓だけこの公園から逃げ出してもおかしくない。

 公園に入って数歩も歩かないうちに少年が座っているベンチが見えた。

 ここまで近づいてもフードで頭全体を覆っているので表情どころか、目すらよく見えない。

 少年は、ひとりの男子高校生が近づいてきたことに気づいたのかこちらをちらっと見た。

「…………」

 ぽとり。ぽさ。

 そして少年は驚いたように、思わず手から小さな本を取り落とした。

「それ、落としたよ?」

 おれはそんな見たらわかることを言った。言ってしまった。

 ほかになにを言えばいいのか、わからなかったのだ。

「……!」

 少年は少し慌てた様子で、急いで落とした本を震える手で取りあげた。

 公園の砂で汚れた表紙をパッパッと手で払うと、その本を膝の上に置いて背筋を伸ばした。

 それを見ながら、おれはしばし無言で突っ立っていた。

 無言なのは少年も同じで、一言も話さず真正面を向いてひたすら黙っていた。

「…………」

「…………」

 静かな公園が余計静かになった。

 おれは無言でその少年の隣にどんと腰を下ろした。

「……!?」

 少年はこちらを見ずに、おれを避けるように反射的にバッとベンチの端に寄った。両足をぴたりとそろえて緊張しているようだった。

 なにか言おうとして、なにも言えなかった。

「ふっ……」

 代わりに失笑してみせた。

 なぜかって。そりゃ決まってるだろう。

(なんでおれ隣に座ったあああああ!? なんでええええええええええええええええ?)

 自分でも自分の行動の意図がわからなかったからだよ。

 ただ無言に耐えられずに、なんとなく少年の隣に座っただけだったのだ。

 ああ、やべえ。変に思われたかな。いきなり夜の公園にやってきて、なんだこの人って思われてるかな。ほかにもベンチあるのに、なんでわざわざ隣にって思ってるのかな。

 違うんです、おれはただ近所に住んでる普通の学生なんです、変態じゃないんです。本当なんです、信じてください。

 愚にもつかない臆病な自尊心から、内心虎になってしまいそうだった。

「……っ!」

 少年がちらりとこちらの様子をうかがいつつ、警戒しながらベンチを立ち上がった。

 あ、まずい。これ逃げるつもりだ。

 ずるりと鼻水が出た。

(まずい……逃げて警察に通報するつもりだ、この子……近所の家から監視されていつ襲われるか気が気じゃなかったんです、早く捕まえてくださいこの自意識過剰の妄想癖の変態モンスターを――とか言われるんだ!)

 そんなことになれば、ご近所に人格を疑われるどころではない。普通に逮捕されてしまう。

「ま、待て……!」

 逃げようとする少年のほうを向いて声をかける。

「……っ!」

 当然少年は怯えたようにフードを揺らして――走り出した。

 思わず捕まえようと手を伸ばしたが、少年はその手からするりと抜けて公園をダッシュで逃げ出した。

 慌てて立ち上がって追おうとする。

「速い!?」

 少年は速かった。

 陸上部の短距離エースの目から見ても予想以上に速い。

 その速さにビビりながらもエースという看板を背負っている以上、なによりかなり特殊な変態ゆえに少年の今後の人生にトラウマを植えつけかねない誤解をされたまま逃がすわけにはいかなかった。

 おれは走った。全力で走った。

「待って! 変態じゃないから……変態じゃないんです! ただ近所の家から公園でひとりで本を読んでる少年が心配で、変な輩に絡まれないか監視していただけなんですぅー!」

 完全な変態である。変な輩である。

「少、年…………?」

 しかし必死の説得(?)に、少年は振り返って足を止めた。

「よし、捕まえた!」

「ぴゃっ……!?」

 急いで体を両手で抱きしめて、確保する。その姿もはたから見れば変態のそれである。

「……! ……っっ! ~~~~!」

「え、なんだって?」

 少年は声にならない声で、なにかを訴えようと手をばたばたとさせる。

 ただこちらも暴れないように、かれをがっつりと抱きしめていた。いかん、これでは完全な変質者だ。こちらも自覚があるので早めに解放してやりたい。

 少年のため、なによりも自分のために。

「……! ダメ、こんなの……ダメっ……!」

「わかる! わかってるが……ちょっと落ち着いて聞いてくれ。手を放すぞ?」

「お、落ち着く!? そんなの無理があります! こんな体が当たってる状態でぇ!? ぶはっ……!」

「ええ!?」

 こちらが手を放す前に、少年はなんとフードの中から血を吹きだした。

「そんなに強く締めあげてないぞ!」

 さすがに吐血するほど強く絞めあげてはいない。軽くパーカーごしに体を抱きしめていただけだ。

「ち、違うんでふ……鼻血が……」

「ああ、なんだ……って、鼻血!?」

 おれは考えるよりも早く体が動いた。

「ぴゃ!? なにするんですか!」

 かれをひょいっと両手で抱きあげる。お姫様抱っこみたいにして持ち上げると、少年は見た目どおり小柄で軽かった。

 短パンのせいで素足に手が当たる。少年のふくらはぎは、すべすべしていた。

「あ、あの私……子供じゃないんで、自分で歩けますっ」

「いいから。鼻血出してるんだから無理しちゃダメだ」

 それでも下ろしてくれと抵抗する少年を、そのまま公園のベンチに向かって運んでいく。

 急に抱きかかえられてびっくりしたのか、身を震わせてまたじたばたと暴れる。

「立ってたら貧血で倒れるかもしれない。ベンチまで運んでやるから、暴れないでくれ」

「いえ、そういうことではなくて……放して! 放して!」

 わわ、胸をどんどん叩かないでくれ。

 おれは少年を取り落とす前に、急いでベンチへと運んだ。

 そのときふわっとなにかが鼻をくすぐった。

「……?」

「放して……うう、やめて……。手が当たって……余計、鼻血が……!」

 ニオイ。ラベンダーのようなさわやかさの中に、甘ったるい蜜のようなニオイを感じた。

 けれど、そのかすかに違和感を無視した。気のせいだろうと思ったからだ。

 それよりも早く少年をベンチに寝かせてやらないと。


「鼻血、止まったか?」

「だ、駄目です! ふ、フードは取らないで……」

「ああ、すまん……」

 フードを取られたくないらしく、鼻血を見てやろうとしたら強く拒否された。両手でフードをつかんで、深くかぶる。

 たださっきみたいに暴れる様子もないので、そっとしておいた。

「鼻血止まりました……」

「そうか。落ち着いたか?」

「ええ……大丈夫です」

 ベンチに寝かしてしばらくたった。鼻血ももう出てないみたいだし、大丈夫かな。

「あ……!」

 少年はなにかに気づいたように慌てて起きあがり、ベンチに座りなおした。

「おい、そんな急に起きあがったらまた……」

「おほん。ああ…………あー、あ゛あ゛~~~」

「……?」

 そして何度か発声練習をして、先ほどよりもやや低めの声で言葉少なに返してくる。

「それより……ありがとっす」

「どした? 声……もうちょっと高くなかったか?」

「い、いや元々こんな声っすよ!?」

「そうだったか……」

 もうちょっと高かったような。

「あ、そういうことか」

「え、なんすか……?」

 そこであらためて思い至った。手をぽんとたたく。

 かれが中学二年生であること。そしてその時期の男特有の恥ずかしさを。

 声変わり前の高い声にコンプレックスがあるのだろう。

 おれも周りの友だちがどんどん声変わりしていって、不安だった。それに高校生が話しているのを聞いて、大人っぽいとも思っていた。中学のころはそんなもんだった。

 だからかれも、いま高校生のおれを前に男して背伸びしないと不安だったのだろう。

 少年の肩を軽くたたいて、励ますように言った。

「気にするな少年、そのうち電話口で親戚に『お父さんかと思ったわよ』って言われるようになる……」

 おれは遠い目をして語った。

「は、はあ……急になんの話すか?」

「そんなことより少年、きみはなんでこんなところでわざわざ本を?」

 話題を変えて、手に持った本を見ながらたずねた。

「あ……見てたんすか?」

「見えるんだよ、おれの家から」

 公園から見える自宅を指さす。

 少年もおれの指の先を見て、納得したように話してきた。

「えと……なんか外で読みたい気分だったんすよ……」

「こんな暗いとこで?」

「暗いすけど……静かっすから……」

 少年がソプラノ声を低くして、つぶやいた。

 たしかに少年が言うとおり公園は静かだった。

 おれが今日初めて足を踏み入れたときから、虫の音すら聞こえない。住宅街の家族団らんの音すら遠く、まして繁華街の雑踏や車の走行音も聞こえない。人の気配すら感じられない。

 夜の公園はとても静かだった。

「たしかに静かだ。いいところ、見つけたな」

「…………」

「ん……おれのほうを向いてどうした?」

「い、いや……! なんでもないっす……うす!」

 少年はさっとおれから顔をそらし、ベンチ正面を向いてまたフードをより深く被ってしまった。

「……?」

 緊張しているのか。それとも不安なのか。

 そりゃ年上の男が突然夜の公園で急に話しかけてきたら、緊張もするし、不安にもなるか。

 そうだ、そろそろここに来た理由くらい話さないと。そうすれば多少、かれの緊張も解けるかもしれない。

「ああー、なんだ。たしかにここは静かだけど……」

「はい?」

「人の目がないから危ないと思う……」

「はあ……」

「なんつーか、ほら最近物騒だろ? 人気がないし、公園って意外と死角が多いから……後ろの茂みとか」

「…………」

 駄目だ。おれの言ってることの三分の一も伝わってねえ。

 少年はぽかんとした表情でこちらを見ている。フードでよくわからないが、とにかくそんな気がした。

「え、それってつまりわた……僕のこと心配してくれたってことすか?」

「と、当然だ! きみみたいな少年が、ひとり夜の公園にいたら心配だろう!?」

「そうすか……心配してくれたんすね」

 少年はかみしめるように繰り返してから、変な質問をしてきた。

「あの……例えばなんすけど、僕が女でも心配してくれました?」

「は?」

 変な声が出た。急にどうした。なんでそんな質問が出てくる。

「お、女……」

「いや! 変な質問っすよね、あはは!」

 少年は自嘲気味な笑いで誤魔化そうとする。

「うーん……」けれど少しだけ考えたあと、おれは一応真剣に答えた。「そりゃ女だったとしても、心配してたんじゃないか?」

「心配してくれたんすか……」

「べつにおれは少年が男だから、心配したんじゃなくて……年下っぽいからで……」

「ふーん……」

「少年?」

 少年は意味ありげに息を漏らすと、ふっと笑って決して太くない腕で力こぶを作った。

「大丈夫す。僕、空手習ってるんで……」

「違う! そういうことじゃなくて、おれはきみのことが心配なんだ!」

「……!?」

 少年の肩をつかんで、強く説得した。

「あれ? 少年ちゃんと食ってるか、ずいぶんと華奢だな……」

「ぴゃっ……あ、あの、肩から手を……!」

「ああ、すまんすまん」

 思わずつかんだ肩を放して謝った。少年はそれから溜息をついてから挑戦するように言ってきた。

「じゃあ、お兄さん、明日もここに来てくださいっすよ」

「なに?」

「お兄さんが毎晩ここに来てくれたら、僕が襲われることもないんじゃないすか。変質者が出ても……お兄さんが助けてくれるんでしょ?」

「な、なんだと」

 待て。それはなんだ。

 ひょっとしてそれはおれに、少年のボディガードになれって。そういうことか。

「ふふ……なんすか。お兄さん、ビビってんすか?」

「はあ!? ビビってねーし! ああ、いいぞ! じゃあ少年が夜この公園に読書に来るってんなら、おれがその読書つきあってやるよ!」

 あれ。おれ変な約束してないか。

「ほ、ほほほ、本気すか!?」

「ええ……」

 まさか少年乗り気か、きみぃ。

「くっ……男に二言はねえ」

「や、約束すよ?」

「ああ……」

 なぜこんな約束をしてしまったのか。おれも不思議でしかたない。

 けれど約束してしまったものは仕方ない。

 明日も、おれがこの少年を守ってやろうじゃないか。

「ところで少年……」

「うす」

「名前なんていうんだ? おれは津島旬な。近くの三鷹高校の二年生だ」

「名前すか……」

「ん? 言えないのか」

 だったら、だったでいいが。なんかさっきから訳ありっぽいし。

 しかし少年はうつむいて、ぽつりぽつりとつぶやいた。

「石……神、明っす」

「いしがみ、あきら?」

「……うす」

「いい名前じゃないか」

「へ?」

「恥ずかしがることないと思うけどな」

「うん……そうすね…………」

 そうやって意味もなくふたりして夜空を見あげた。そこには真ん丸な月があって、おれたちを照らしていた。

 翌日からおれのルーティンに明少年のお守りが追加された。

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