女嫌いと、ボランティア

「ちっ、この担当地区、家の近くじゃないか……」

 おれはぶつくさ言いながら、下級生とャージ服姿で連れ立って通学路を歩いていた。

「…………」

「…………」

 連れ立ってといっても、仲良く横並びで歩いているわけではない。

 おれが先行して、その後ろをとぼとぼと女がついてくるといった具合だ。

 べつにおれが意地悪してるわけじゃないからな?

 身長差が全然違うんだよ。だから当然、歩幅も違う。普通に歩いてたらこういう位置になるのだ。 

 通学路は一方通行が多く、車通りが少ない。車に気をつける必要はないが、並んで歩くとどうしても、この女とより沿って歩かなくてはならないためこの立ち位置は心底助かる。

 おれは住宅の生垣や塀の間を歩きながら、意味のない声をあげた。

「ああー」

「……?」

「おほん。なんでもない」

 それにしても恥ずかしい。

 すれ違う人、すれ違う人、近所の人々にジロジロ見られてる気がする。

 まあそりゃ学校の外でジャージ姿の男女が歩いていたら、興味が引かれるのもわかる。

「あら、まあ……お似合いねえ!」

「あ、いえお構いなくー」

 だからって、どこかのおばさんなんかは大きな声でそんなことを言ってくるし。 

 やめろ、恥ずかしいんだよ、こっちは。

「あ、あの……ごめん……なさい」

「え、なんできみが謝んの?」

 後ろから消えそうな声で謝られる。

 おれはおっかなびっくり、振り返りながら半笑いでたずね返した。

「…………」

 無言かよ!

 石原灯梨はまたうついて、黙ってついてきた。

 おれも前を振り返って、とぼとぼと歩き出す。

「…………」

 怖えー。てけてけさんくらい怖えー。

 いつ後ろから女に噛みつかれるか気が気ではなかった。

 女は男の隙を見つければ、その喉笛に噛みついてくる生き物だ。

 絶対そうだ。間違いない。

 この女も黙ってじっと後ろから、こちらをにらんでいるのが気配で伝わってくる。

 いつ噛みついてやろうかと、おれの首筋を見ているに違いない。うなじがチリチリと焼けるようだ。

 だから中学時代から体育でもペアを組むときは必ず男子と組んで、女グループから離れてたってのに。

「あの……センパイ?」

「ひゃい!?」

 おれは目に見えて慌てた感じで、垂直に飛び上がってしまった。両手に持っていたがトングやゴミ袋がガチャンとかバサバサと激しい音を立てる。

「…………」

 振り向くと、女がぎょっとしていた。

「あ、あはは……な、なに?」

 いかんいかん。

 女に弱みを見せるな、おれ。

 女に自分より弱いと思われたが最後、人格を疑われて喉笛に噛みつかれるぞ、おれ。

 最大限にこやかに、笑顔で女の顔を極力見ないように接した。

「石原…………灯梨……です」

「は?」

「あの、だから……な、名前っ……!」

「知ってるよ。保健の先生から聞いてるから……」

「でも、自分の口から……言わないと、失礼かなって……」

 自己紹介ってことか。

「あ! すまん。おれの名前は津島旬だ。言わなくてもジャージでわかると思うけど、一応二年な」

 そこで気づいておれも自己紹介した。女に後れを取るとは、一生の不覚。

「はい、知ってます……」

 三鷹高校うちはジャージや制服の襟のカラーが学園ごとに統一されているから、それでわかるんだけどな。

 おれもそのおかげで昨日、この女が一年だってすぐわかったわけだし。

「――いや、そうじゃなくて! なんでおれの名前知ってんの!?」

「ええっと、それは……」

 やや考えたあと、癖っ毛の女はぽつりぽつりつぶやくように絞りだした。

「センパイ……有名ですし……陸上部のエースって……」

「なに、一年の女生徒にもそんな噂流れてんの?」

「噂というか……事実なのでは……?」

 あーあ、こりゃ完全に優等生を演じたことの弊害だな。

 べつに自慢したかったり、目立ちたかったり、ましてや陸上が好きで打ち込んでいるわけじゃないんだけどな。

(女から告白されたとき、スポーツを理由に断ってたら……いつの間にかこうなってただけなんだよな)

 陸上部があるから、いまは恋愛どうこうは考えられない。

 おれの断り文句の常套句だった。

「そだ。石原さん、聞きたいことがあるんだけど」

 おれは再び歩き出しながら話した。

「は、はい……? なんですか……」

「おれ、きみと前にどこかで会ったことあったっけ? 昨日自分でも言ってたよね」

「あ、あれは……忘れてください……!」

 忘れろって言われても、はいそうですかと忘れられないんだが。

「きっと、私の、勘違い……なので……!」

「そうか」強くそう言われたら、これ以上は聞けない。「えっと、とにかく石原さん……よろしくね」

「はい……お願い、します……」

 また消え入りそうな声で、頭を下げてくる。

 こちらを見るのが恥ずかしいのか、おれが見ると顔を伏せてくる。

 だから学校を出てから、いや学校で見たときからその顔をまともに見れてない。

 わかるのはあいかわらず特徴的なそのはねた癖っ毛と、丸い童顔、身長がおれのへそくらいしかないこと。

「あの……」

「ん、どうした……」

 石原は聞きたいことがあるのか、こちらを見つめてきた。

 おれはそっと視線を外しつつ、そのときはじめて真正面から石原の顔を見た。

(うっ……可愛――)

 なぜそんなことを一瞬でも思ってしまったのか。脳、イカレたか。

 その記憶を必死にかき消すように、頭を振って般若心経を唱えた。

「観自在菩薩、行深般若波羅……」

「なぜ急に、お経……?」

 それはおれにもわからない。

「そんなことより昨日……センパイ、どうして……倒れちゃったんです……?」

「それについては訴状が届いていないのでコメントは差し控えさせていただきます」

「……?」

 反射的に答えたら、不思議そうに首をかしげられてしまった。

(いかん……いかんぞ!)

 駄目だ、倒れた理由を説明したらおれが女嫌いであることがこの女にバレてしまう。

 女に女嫌いであることがバレたが最後、翌日には学校中、市内中、ネットを通じて世界中におれが女嫌いであることがバラまかれてしまう。

 そうなったらどうなると思う。

(おれの……人格が疑われてしまう!)

 破滅だ。

 よって絶対に、本当のことは言えない。

「保健の先生は貧血だって言ってた」

「貧血? でも……顔色よかったですよ、センパイ……?」

 余計なことに気がつかなくていいんだよ。

「アハハ、そっか? でもたしかに昨日寝不足だったんだよなあ……」

「それに……あのとき、ひょっとして……私の手を握ったから……?」

「ストーップ!!!」

「ぴゃっ!?」

「ここがおれたちの担当地区だ……掃除しよう」

 しゃべるのに夢中で、気がついたらボランティアの担当地区にやってきていた。

「さっさとゴミを拾って帰ろう! な!? こんな清掃なんてふたりでちゃっちゃっとやればすぐ終わるんだから!」

 早口でまくし立てて、下級生の女――石原にも、ひとつトングを渡した。

 お互い手が触れないように、トングの端を持って渡す。

「はい……」

 石原は納得いってないようだったが、ここは勢いで誤魔化すしかない。

 とにかく、さっさと担当の通学路を清掃して帰ろう。


 その後、おれたちは特にトラブルもなくゴミ袋を順調に重たくしていった。

 石原はとくに手際が悪いところはなかった。むしろ、清掃すべきゴミか、それともただの落ち葉や土なのかを見分けてぱっぱとゴミ袋に入れていった。

「へえ……」

 女だと思って甘く見てたが、手際がいい。クラスの女のように無駄話をしてサボらないし、愚痴をこぼすでもなく黙々と作業をこなしている。

 その姿を見ておれは柄にもなく感動した。

(見てるか、クラスの女! これが掃除だぞ……おまえらがやってるのは、ほうきで床をマッサージしてるだけだ!)

 当然見てないのがわかってて、言っている。

 それでも思わず興奮して声をかけてしまった。

「やるじゃないか、石原さん……おれよりゴミ拾ってないか?」

「……! そんなこと、ない、です……センパイのほうが、葉っぱの裏とか……丁寧で……」

「そうか?」

 おれはそう言いつつ石原のほうを見た。

 石原はひたすらに控え目に、働いていた。

 なぜかおれから遠慮するように、決して同じ場所には手をつけようとしなかった。

「じぃ~~~……」

「どうした、なにかあった?」

「い、いいえ……なんでもないです……!」

 だからといってこっちを無視するということはなく。むしろふと視線を向けると、こちらをじっと見つめていることが多かった。

 サボっているわけではないから、こちらから言うことはなにもない。

 おれたちしばらく無言で作業を続けていた。

 作業を開始して、数十分。なぜか不思議なことに、この女との共同作業を楽しんでいる自分に気づいた。同年代の男子や女のように、相手のサボりをフォローする必要もなければ、むしろ見落としていた箇所を石原がきっちりフォローしてくれる。

 自然と普段は女にかけないような言葉も、口をついて出る。

「しかしペアが石原さんで助かったよ」

「助かった……?」

「石原さんが率先して掃除してくれるから、おれはそのあとついて行くだけでいいもん」

「そ、そんなことは……私はただ、センパイの邪魔を……したくないだけでっ……」

「またまた謙遜を、はは……ハッ」

 そこで、はっとした。

(罠なんじゃないか!?)

 これはひょっとして、この女の罠なんじゃないか。

 こいつはおれがいままで振った上級生の女に頼まれて――または脅されて、弱みを握って来いと言われたんじゃないか。

 おれの心の障壁を解いて懐に入ったところで、この胸にその鋭い牙を立てようと――っ!?

 おれはばっとトングで身構えた。

「……?」

 可愛く首をかしげてもおれは騙せないぞ。

 そうだ、おかしいと思っていた。このおれが自分から女に話しかけたり、ましてやその行動を褒めたり。こんなにも気を許すはずがない。

 そういうことができるのも、すべてはあの執念深く、疑り深い、妄執の権化である女たちの策略に違いない。おれは石原の背後に宿る、大きな女の怨念の気配を感じとっていた。

「あ、センパイ……」

(ぷ、プレッシャーだと……!?)

 トングを持ってこちらに近づいてくる石原に、言い知れぬ恐怖を感じる。

 なんだ。なにをする気だ。

「や、やめろ……な? 話せばわかる、ここ……こっちに来るな!」

 おれはトングを体の前で構えて全力で防御した。

 そして石原はその横をすり抜けた。

「へ?」

「センパイ……タバコの、吸い殻……見落としですよ……?」

 にこっと笑ってトングで道の側溝に落ちていたゴミを拾いあげる石原。

 どうやらおれの勘違いだったようだ。今回は。

 ふっとおれは気と腕の力を抜いて、持っていたトングとゴミ袋を下げた。

 それがいけなかった。

「あ……ごめんなさいっ……!?」

「うおっ!」

 おれと石原の手がぶつかった。

 すでに自分の袋が満杯だったのだろう。石原がトングで持ったゴミをおれの袋に入れようとしたのだ。

 申し訳なさそうに石原がおれ以上に慌てふためく。

「せ、センパイ、手が……」

「だ、大丈夫だ……」

 だがおれは気絶しなかった。

 なぜなら軍手をしていたから。そしてもちろん石原も軍手をしていた。

(軍手がなければ即死だった……)

 だが、勝った。なににかは皆目見当もつかないが、おれは勝った。

 これで石原の前で情けなくまた気絶することもない。

「ん、どうかした、石原さん……石原さん?」

「…………」

 石原のやつがわなわな震えている。瞳を揺らして、悪寒で震えが止まらないように。

 どうしたんだろう。

「スミマセン……センパイ……チョット、シツレイ、シマス……」

「は?」

 カクカクとロボットみたいな動きで石原はおれから離れる。

 同じ側の手と足が同時に出てるぞ。なんなんだ。

 おれがそう思って見ていると、石原は近くの家の塀に両手をついた。

 そして――。

「ぴゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!」

「ひいいいぃっ!?」

 急に狂ったように塀に向かって、頭を打ちつけはじめた。

 なんだなんだ、どういうことだ!?

 急にどうした。狂ったのか、こいつ。

(いやいや、冷静になれ……こういうときこそ、おれの心のバイブル!)

 そのときおれは心の中で、対女汎用決戦防御兵装『男の心理術! ナンパ100選! これで女の心も丸裸!』を開いていた。

 女の心理を網羅したこの本には、100ものありとあらゆる状況に対応した女への対処法が記載されているのだ。そして、なんと、おれはこの本の内容を一字一句違わず記憶している。

 だから目を瞑るだけで、すぐにどんな女の奇行についても対処できてしまうのだ。

(ふふふ……)

 勝ったな。

 あいかわらず、なにに勝ったかはおれ自身よくわからなかったが、安心感が半端じゃないのは間違いない。

 おれは脳内でバイブルの内容を検索した。

≪検索……検索…………現在の状況に該当する項目がありません≫

「げふっ!?」

 ねえじゃん!

 おれの心のバイブルにさえ、いまのこの女の心理を言い当てる項目はなかった。

 いったいどういうことだ、このおれの心のバイブルである『男の心理術! ナンパ100選! これで女の心も丸裸!』すらも通じない女がいるというのか。馬鹿な。

「ううっ、せ、せん……い……手当てちゃった……ば、か……ばっ……!」

 そんなことを超光速タキオンで考えている間も、石原はブツブツなにかつぶやきながら、塀にヘドバンを繰り返していた。

 いやその塀、石造りなんですが。

 つか石じゃなくても壁にそんなに勢いよく頭打ちつけてたら、そのうち額が割れてしまう。

 とにかくこの女がなにを考えているのかはわからんが、止めないと。

 でないと最悪の場合、おれが狂女遺棄罪に問われてしまうかもしれん。

「ちょ、なにやってんだ!? やめろ、馬鹿になるぞ……気が狂うぞ!」

 いやもうすでに狂ってるようにしか見えないが、おれは近くで叫んでとにかく下級生の奇行を止めようとした。

「ハア、ハア……!」

 石原はしばらく塀へのヘドバンを決めたあと、静かにこちらを振り返り、にっこりと笑ってピースサインをしてみせた。

「大丈夫……です、っ、センパイ……」

「怖っ……」素直な感想だった。

 ピュー。

 にっこりと笑う石原の額から、血が一本の太い筋になって噴き出していた。

「大丈夫じゃねえええええええええええええええええええええ!?」

 おれは慌てた。

「と、とにかく病院、病院!」

「あ、あの……大丈夫です……! 心、配……しないで……!」

 救急車を呼ぼうとしてスマホを取り出したおれを、石原は顔を真っ赤にしてやめてやめてと止めてくる。

「だけど、おまえ頭から血が!」

「放っておいたら治りますから……」

 治るか。とにかく軽い治療くらい。せめて絆創膏とか。

 そのとき塀の向こうにが目に入る。

 おれは一瞬躊躇した。

「あの、センパイ……?」石原が額から血をたらしながらこちらを向いている。

 これは躊躇してる場合じゃないよな。

「くそ……仕方ねえ!」

 額からだらだらと血を流している下級生を見て、居ても立っても居られなくなり、結局その塀に向かってダッシュする。

 おれはその塀の中に入って、家の扉を開いた。

「え、センパイ……そこ他人の家!?」

「いや。ここ、おれん家!」

 表札を見るように言うと、石原がびっくりした顔になっていた。

「ち、クラスのやつらも知らないのに……」

 ストーカー女対策にあのセキカンにさえ、バラしてなかったっていうのに。

 おれは自宅にあがって、戸棚から救急箱を持って急いで外に出て石原の前までやってきた。

「はあはあ……コレ、一番でかい絆創膏……!」

 おれは息を切らして、救急箱の中から特大の絆創膏を渡した。

 こいつの小さなおデコならすべてカバーできるくらいある。

 もちろん石原とは指と指が触れ合わないように、端のほうを持って渡した。

「これって……」

「いいから、使え」

「あ、ありがとうござい……ますっ……!」

 石原泣きそうな顔になりながら、受け取った絆創膏を胸に抱いて言った。

「これ、うっ……ううっ! 石原家の……家宝にします……!」

「なんでえええええええええええええええええええええええええええ!?」

 思わず舌を突き出して驚いてしまった。

「いまここで使えって言ってんだろおおおお!」

「ぴゃあっ!?」

 あ、やべ。女に対して、思わず怒鳴ってしまった。

 セクハラされたとか、パワハラされたとかあとあとになって下級生の女どもに噂されなければいいが。

 でも仕方ないだろう。だって、もう全然意味がわからなかったんだから。

 とにかく怖かった。

 いつこの女が狂犬になって、噛みついてくるかわからなかった。

(やっぱり女って怖え……なに考えてんのか、全然わからんねえ……)

 おれの心のバイブルすら通用しないなんて。

 おれはここ数年で築きあげた女への完璧な対策法が、ガラガラと音を立てて崩れた気がした。

 同時にもっと女に対して用心しようと思った。


 その後も引き続き担当地区のゴミを片付けた。

 担当地区が家の近所というのもあって、道路がどんどんきれいになっていくのは気分がよかった。またおれの家の前にはため池まである大きな公園があって、そこまで掃除するとなるとかなりの重労働だったが、幸い担当地区ではなかったのも助かった。

 一方自宅の隣は、数か月前から空き家を取り潰して新築住宅の建て替えをしているらしく、日中は工事の音と砂埃であまりいい環境ではなかった。さっさと清掃を終わらして一刻も早く学校に帰りたいところである。

「…………」

「…………」

 あれからおれたちはそんな工事の音を背景に、できるだけ無言で作業をこなした。

 石原はおれの様子が気になるのか、しきりにこちらを見つめてきた。

 けれどこっちが見つめ返すと、さっと視線をそらす。

(いったい、なんなんだ?)

 横目で見ると、若干そのふっくらとした丸い頬が赤くなっている。この程度の清掃作業で息があがっているのか。

 そんなふうに疑問に思うおれに、ちょうど曲がり角に差しかかったあたりで石原が急に話かけてくる。

「あの……」

「ん? どうした……」

「わたしたちの担当って……」

 言われてポケットからプリントを取り出す。

 確認すると、この曲がり角で担当地区をすべて清掃したことになる。

「じゃあ、学校帰るか」

「…………」石原はコクリと、控えめに頷いた。

 おれたちが無言で通学路を引き返し、学校まで帰ると、グラウンドにゴリラが立っていた。

 いや、間違えた岩谷だ。

「おう、お前たちが最後だぞ!」

 岩谷が怒っているのか、それともいつものようにただ話しかけているつもりなのか。

 ずいぶん遠くのグラウンドから校門まで聞こえる大きな声で呼びかけてくる。

 たしかにもうとっくに日が沈んで、あたりは暗く、空には薄っすら星まで浮かんでいた。ずいぶん長いこと清掃してたんだな、おれたち。

「あの……センパイっ……」

「ん?」

「今日はありがとうございました!」

「いやこちらこそ」

「いえ、絆創膏のことです……」

 両手の指をツンツンさせながら、そう伝えてくる。

 そして恥ずかしそうに、前髪をかきあげて大きな絆創膏の貼られた額を見せてきた。

「えへへ……このお礼はいつか、絶対に!」

「あ、ああ……」

 不意打ち気味のそのはにかんだ笑顔に、胸を強くぎゅっと掴まれたような気がした。

「センパイ、それ貸してください!」

「あ……」

 そう言って石原はおれからトングとゴミ袋を奪って、岩谷のもとに走っていった。

「これは私が渡しておくので、センパイは先に帰っておいてくださいー!」

 結局去っていく石原のその背中に、お礼も言えず立ち尽くしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る