女嫌いと、出会い

 真昼間の女からの告白イベントを神回避して、悠々自適に教室に戻っていた。すがすがしい気分だった。廊下の窓から見える空もおれの心をうつしたように快晴だった。

「んー、なんかいいことありそうな気配……ぐはっ!?」

 浮かれていたのか、思わずそんなことを口に出していると、みぞおち辺りにどんと激しい鈍痛ボディブローが入った。

 意識していなかった痛みに、倒れるように廊下に片手をつき腹部を押さえて生まれたての子牛みたいにぷるぷると震える。

 いったいなんなんだ。

「いったい、なにが……」

 目から涙がじんわり浮かぶが、なんとか痛みをこらえて前を向く。

「あぅぅ……!」

 すぐそこには同じように廊下にうずくまり、額を押さえる生徒がいた。

 それですぐ状況を飲み込んだ。

 どうやら窓の外を見ていたおれは、目の前の生徒とぶつかってしまったのだ。その癖っ毛がはねた頭がモロにおれの鳩尾に入ったのだろう。

 気絶するかと思うほど痛かった。

「ごめんな、よそ見してた」

 先に立ち上がり、その男子に手を差し出した。

「い、いえ……あの、私もよそ見してましたから……。ありがとうございます……」

「ん?」

 相手は、おれの手につかまって立ち上がった。

 しかしなんだかその手はか細すぎて、男の手にしては違和感がある。声もかなり高いし、なによりずいぶんと背が低いような。

「……?」

 おれは左手で涙をぬぐった。ゆがんでいた視界が正常に戻る。

「「え゛っ!?」」

 おれたちはお互いの顔を見て、ふたりして目が点になった。

 相手はスカートをつけていた。

 女装癖があるとかそういうことではない。たぶん恐らく絶対。かといって我が国に男子にスカートを履かせる風習があるわけでもない。

 ならば認めざるを得ない。

 こいつは女である。

 男子ではなく、女だった。

 男子だと思っていた相手は、下級生の女生徒だったのだ。

(通りで、やけに小柄だなとは思ってたけど……)

 癖っ毛の強いセミロングの女だ。目尻から見て普段は垂れ目なのだろうが、その目はいま驚きに真ん丸に見開かれている。

 鼻が小さく、唇も薄く、全体的にか弱そうに見えるのに、頭の癖っ毛のせいで妙にワイルドな印象がある。例えるならハムスターなどの愛玩用の小動物というより、シバイヌなどの気難し気な小型犬を思わせる顔つきだった。

 そんな女がこちらを見て驚いている。

 あれ。でもどうして相手はこっちを見て驚いてるんだろう。

 そしたら癖っ毛の女は不思議なことを言ってきた。

「お兄ちゃん……?」

「は? おにいちゃん……?」

 まさかこんな白昼の校内で運命の再開を?

 そんな馬鹿な。おれに妹なんていないはずだ。

「あのあのっ、い、石原いしはら灯梨あかりって、名前の女の子覚えてますか!?」

 おいおい、唐突に兄呼ばわりした次は謎の女の名前かよ。

(知らねえ……)

 自慢じゃないがおれは人の名前を忘れたことはない。

 それがたとえ女でも――いや、女だからこそだ。

 おれ個人としては女なんて半角英数字で個体識別したいところだが、現実問題そうも言ってられない。もし相手が覚えていて、こちらだけが覚えてないなんてことがあったら女になにを言われるかわからん。

 だからおれの血の涙を飲み、海馬の貴重な一部分を女のために確保しているのだ。

 それはただひたすら保身のために。

「石原灯梨? いや、知らないけど……」

 そんなおれだが、正直その名前には覚えがなかった。

「そう、ですか……」

 相手は目に見えてがっかりしたような表情で肩を落とす。けれどどこかおれの答えを、予想していたような雰囲気もあった。

(石原、灯梨……)

 そんな女の態度を見て、口には出さずにつぶやく。どこか引っかかる名前だ。

 なんだろう、魚の骨が喉に引っかかって取れない。そんなもどかしさだ。

「あ! いまの全部忘れてください! なんでもないんです!」

 そして思い出したように相手はそんなことを言ってきた。

 たずねておいて『なんでもないです』はおかしいだろ。

「いや、さすがに……」

「ほ、本当になんでもないですから、津島センパイっ!」

「ん? おれ自己紹介したっけ……?」

「え……? あ! ちがっ……」

「は?」

 女は今度は泣きそうになって、パニックになって首を左右に振る。

 ころころと表情を変えて忙しいやつだ。

「と、とにかく、私急いでるんで……失礼します!」

 下級生の女は話もそこそこにぺこりとお辞儀して、その場を立ち去ろうとして立ち止まる。

「いや、待ってくれ!」

 べつにこの女に興味はないが、石原灯梨という名前をたずねてきた理由は聞いておきたい。

 するとぴたりと女は立ち止った。

「ずいぶん素直だな?」

 おれはてっきり言葉の勢いから、すぐに相手がこの場から逃げ出すと思っていた。

 けれど女はおれの前から立ち去る気配はなかった。

「ん、どうした?」

「……! …………っ!」

 女はなにをやっているのか。じっと立ち止まったまま、こちらにチラチラと目配せして合図を送ってくる。

 おれはその鬱陶しい視線レーザーを避けるように、素っ気なくひとりあっちむいてほいをしていた。

 そんなことをやっていてもらちが開かないと思ったのか、下級生の女が控え目なおどおどした声で言ってくる。

 子猫の鳴き声のようなその声音がおれの心にさざ波を立てる。

「あ、あの……」

「だからなんだよ?」

「手、放してもらっていいですか……」

「手?」

「その、私行けない、です……」

 ふと自分の右手を見た。

 相手の手を握っていた。

 下級生の女の手をがっつりと握って、固く握手していた。

「なんでええええええええええええええええええええええええええ!?」

「ぴゃああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

「えっ、いつから!? いつから、握ってたのおれ!?」

「あの、つかんで起こしてもらったときから……」

「あのときから……ずっと!?」

 そっか、こいつのこと男子だと思って手をつかんだまま、相手の顔を見たショックで放してなかったんだ。

 馬鹿なんだな、おれ。

「はい……だから、その放してもらえたらと……」

 そりゃこの場を離れたくても離れられないわけだ。

 だっておれが手握って放さないだもん。

「あわわわ……」

「センパイ……?」

「ぐえええええええええええええええっ!」

「センパイっ!?」

 その瞬間、この世すべてを理解してしまいおれは恐怖に震えた。

 握手してしまったのだ。あの邪神と手を握ってしまったのだ。おぞましくも名状しがたい怪異の化身ともいえる、この世の恐怖すべてを漫然と蓄積し、あの『魔女の鉄槌』にも名を列ねるあの邪神と知らず知らずのうちに強く手を結んでしまったのだ。

 その邪神の名を――『女』という。

 宇宙的恐怖を体感した次の瞬間には、全身に発疹が浮き上がってきて、目の前の景色がくるくると回った。

「ちょっと、センパイ大丈夫ですか……」

「あばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばば!!!」

 SAN値をすべて削られたおれはその場に昏倒して、気絶キャラロストした。

「ぴゃあああああ!? センパ…………!」


 その日は結局、運び込まれた保健室で放課後まで過ごしたのである。

 気がつくと窓の外には夕日が沈みかけていた。

「ただの貧血……にしてはずいぶんとうなされていたね。保健室の設備ではなにが原因かはわからない。念のため後日病院で詳しい検査を受けておいたほうがいいよ」

 男性の養護教諭にそう促されたが、あいまいに返事をしておいた。

 まさか女アレルギーが原因とは言えないだろう。

(そんなことを真剣に話したら……人格を疑われてしまう!)

「そうだ。君が廊下で倒れたのを真っ先に知らせてくれた一年の子だけどね、名前は……」

 まあ、そいつが原因でもあるんですけどね。

 学年が違うということもあるが、この後の人生で出会うこともないだろう。

 とりあえず名前だけでもメモリしておくために海馬の空き容量をごそごそと探した。

「――石原灯梨さん」

「えっ!?」

「……? とにかく、ちゃんと彼女にもお礼を言っておくんだよ?」

「石原、灯梨……」

 それってあのとき、あの女がたずねてきた名前じゃないか。

(じゃあなにか……あいつは自分のことを覚えていないか、おれに問いかけてきたってことか?)

 だったら直接、自分を指して覚えてないかどうか聞いてくりゃいいのに。ずいぶん遠回しやつである。どちらにしてもあんな下級生の女に面識はないけれど。

(いや……そういう直接的な質問されたら逆に困ってたな)

 正直に相手を覚えてないって言えば、実際面識があった場合あの女に責められていただろうし。逆に嘘ついて覚えてるなんて答えたら、さらに泥沼だ。

 結果的に遠回しな質問で助かったかもしれない。

「いや! 偶然とはいえ女に助けてもらったなんて事実認めるか!」

「……?」

「あ、いえ……なんでもないですぅ、ハハ」

 保健医がこちらをいぶかしげに、見ていたので適当ににごしておいた。

 話はそれで終わりらしく、その日はそのまま帰宅させられた。

 家に帰るともう今日あったことなんて忘れたように夕飯をたらふく食べて、ゆっくり風呂に浸かって、あとは暖かい布団でぬくぬくと寝た。


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