第03章 それはどこでも罪に問われるよ

17 乙女の形象崩壊3秒前


 ここは、シジノードの館。ハルの目の前に転がる男が一人。


「…私、なにかやっちゃった?」


 状況が理解できず、しばらくハルは固まっていた。放心状態というやつである。自称シジノードと名乗る男はいつの間にか頭から血を流して倒れていた。さらに、痙攣けいれんしつつ小刻みに震えていた。ピクピクとたまに体の筋肉が収縮し、ちょっとずつ移動していく男。そして、電気スタンドを倒し、ガシャンと大きな音がした。ハルはそれを聞いて我に返ったのだった。


 ハルは今までのことを思い出す。時は再び、レイのコンテナから連れ出された時まで遡る。蜘蛛の糸で縛り付けられ、シジノードの使いである使途に揺られてかれこれ2時間半くらいである。ハルは自分の体にある異変を感じていた。


(うぅっ、キモチワルイ…)


 ハルは酔っていた。今まで、揺れる乗り物に乗ったことがなかったから酔いは強烈だった。ただでさえ苦しいのに、お腹を縛り付ける糸で圧迫されて中身が口から吹き出しそうだった。


 さらにもっと最悪なことに、シャツ一枚しか身に着けていないためお腹も冷えてきた。


 ぐるぅぅぅ…


(お腹もやばい…)


 結果、ハルは上も下も必死に我慢した。出したいという低位の欲求とは別の高位な感情である乙女の尊厳が唯一それを引き留めた。みっともない姿でレイに合うわけにはいかない。ハルはヒロインとしての自尊心が芽生えたとも言える。


 だから、使途が減速した時は安心した。これでようやく楽になれると思ったから。だがしかし、実際にはここからハルの戦いが始まるのだ。時間としては10分程度だが、彼女にとっては今までの人生で最も長い10分だったかもしれない。


 まず、蜘蛛の糸を取るために謎の冷たい液体をかけられた。体が芯まで冷えた。服まで溶かしてくれるものだから、かすかな風でも肌は敏感に寒さを感じた。こわばる体と、ぐーぐーと鳴るお腹。この状況を形容する最適言は「やばい」、語彙などいらない最悪さだった。


「次はシャワーを浴びてください」


 これで、冷えた体をようやく温められると思った。お尻に力を込めた独特の小走りで駆け込むハル。お湯が出ると思って体のこわばりをちょっと緩めるが、なんとこのシャワーは壊れていて冷水ミストしか出なかった。びっくりして「ぎゃっ」と声を上げる。ちょっとにじみそうだった。ハルの全身が震え、狭いシャワー室内でうずくまるしかなかった。


「服を着てください」


 寒くて仕方ない。だから、服とは言えないような服だろうともありがたかった。紐をぎっちり固く絞めて、何とか体の露出を減らして体を温める。これで10秒は耐えられる…。


「そのまま奥へ進んでください」


 トイレに行きたい一心。希望を胸にハルはふらふらと奥へ進んでいく。この先にトイレがあらんことを祈って前進する。


 しかし、シジノードの邸宅は昇降機で移動する。なんかやたらだだっ広く風の吹きつける空間。天に高くそびえる回廊はハルを絶望の淵に立たせる。あと何秒数えれば着くだろうか? 寒い雲の中、ヒロインであるはずのハルは白目を剥いて耐えた。


 ぐるぐるぐる…、おなかがいよいよ悲鳴を上げ始め、ハルは内股になりながらぺたりと床に座り込む。


「あっ、うぅ…」


 もう、ここでするか? 最低の決断を必死で拒否し、虚無の心で何とか昇降機を登り切った。ここなら、ここならトイレがあるはずである。


(お、おトイレ…)


 今、一番ハルの欲しいもの。これくれたらもうなんだってやります。しかし、声を出すのも厳しい状況。一方で、目の前の謎の男はそんなことに一切頓着せず、鼻息荒く興奮しながらしゃべりかけてくる。いろいろ何かしゃべりかけてくるのだが、おなかの痛みで話は頭に入ってこないし、体を触られたけども、もうハエがたかったくらいの気持ちでしかなかった。今はどうでもいいからトイレに行きたいのだ。


「あぁ、はい。わかりました。全部同意します」


 プルプル小刻みに震えながら、なんだかよくわからない契約に同意するハル。


「じゃぁ、好きにしていいよね!」


 一気に高揚する男。ハァハァと息を上げ、不快な口臭が漂ってきたことはかんじたが。そんなことどうでもいい。その後も男はどんどんハルに近づいてくる。そして、急に髪を引っ張られ、ハルはこの時に初めて身の危険をにわかに感じたが、今にもメルトダウンしそうなお腹のほうがよっぽどやばかった。


 ハルは両腕を拘束され身動きが取れない状態にされる。お腹を抑えることもできず、手足を伸ばされると、お尻に力も入らない。涙目になりながら、この状況を諦めかける。もう、楽になりたい。しかし、男はハルのにおいをかいでいる。ハエだと思っていた男だが、今洩らしたら絶対臭いでバレるという危機感は募った。


 耐えるためには藁にもすがる。なんかよくわからないうちに体を覆っていた布がほつれていく。男に脱がされているなんて感覚はなく、自分のゴールを悟ってしまう。


(もう、ヒロイン失格でもいいよね!)


 しかし、ハルは思い出す。レイの声を。そうだ、彼のために今は我慢しなければならない。絶体絶命の危機を乗り切ってこそヒロインである。ちょっとでも耐えられる時間を、希望をつなぐために体を温めねば! ハルは必至で温もりを追いかける。


(でも漏れる! 助けて、レイ!)


 ハルにとってシジノードとかいう男の存在は飛び交うハエよりどうでもよかったが、ある行動だけは許しようもなくだめだった。目の前の男がハルの尻を揉みしだき始めたのだ。臨界点などとっくに超えているハルだったが、男のその動きは本当にだめだった。力いっぱい尻をもまれ、お尻の穴が押し広げられる。


(やばい、出る!)


 乙女の形象崩壊3秒前! このままではマジでやばかった。


「あぁぁぁぁ!!!!! だめーーーーーー!!!」


 この危機的叫びが神様にでも通じたのかわからないけれど、木で作られた粗雑そざつな拘束台がバキッと外れ、振り下ろした右腕とそれにくっついている角材が男の頭に直撃する。


 白目を剥いて倒れこんだ男をよそに、ハルは血眼ちまなこで拘束台を引きずって。トイレへ駆けていく。


「ふぅ」


 セーフだった。乙女の尊厳そんげんは保たれた。


(これでまた綺麗な姿でレイに会える!)


 そして、ハルが事態のやばさに気づいたのはそれからである。頭から血を流し、泡を吹いて倒れるシジノード。時々ピクピクと痙攣してちょっとずつ移動していた。


 ハルがしゃがみこんでつついてみるも全く反応がなかった。一体なぜこうなったのか真面目に思い出そうとするハルであるが、死闘の中での出来事を思い返せば犯人は自分だった。


「…私、なにかやっちゃった?」


 しかし、誰も答えてくれない。だから、ハルは逃げ出した。鉄の鎖をつけたまま、布と紐だけの服を握りしめ、このディストピランドのどこかに消えて行くのである。

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