第3話 インド神話-2
宇宙創世神話というのは汎世界的にすべての神話の基本とみなされますが、ヴェーダには明確な形での「創世神話」は存在しません。部分的・断片的にインドラ賛歌、ヴァルナ賛歌のなかにこの二神が創世を成したのであろうと推察される記述があるのみですが、比較的後期の賛歌のなかで宇宙創造に関する見解が説かれています。
ひとつには祈祷主神ブラフマナスパティを創造神とする説です。ブラーマナ、ブラフマン(梵)はのちのウパニシャッド思想における宇宙の根本原理ですが、ヴェーダ期においてはそんな宇宙を包括する概念でもなく、祈祷の聖句、つのり賛歌そのものを意味したと考えられます。この聖句の神ブラフマナスパティが、鍛冶師のように万物を鍛えて創り出した、とされます。
また他には聖仙ヴィシュヴァカルマンを創造神とする説。ヴィシュヴァカルマンの名は「一切を造った」の意、全方位に目を持ち、前方角に腕を持ち、あらゆる方向に足を持つというバケモノみたいな姿の仙人ですがインド神話には多頭多臂は珍しくないので普通。このヴィシュヴァカルマンが、やはり鍛冶師のように鍛えて天地を創造したとされます。また神々が大工のようにヴィシュヴァカルマンを助けて家を建てるように世界を創造したとされ、当時の祭祀世界の素朴さがうかがえます。ブラーフマナ文献によるとヴィシュヴァカルマンは宇宙の祭式を行い、すべての生類を供儀に捧げたのち、自分自身を備えたと言われます。ここにあるのは定期的な祭儀が宇宙の永劫回帰、帰滅と再生の輪廻で、のちのウパニシャッド思想における創造と維持と破壊という流れにつながるものかと思われます。その時期になるとヴィシュヴァカルマンは創造神ではなく単純な巧芸神ということになってしまいますが。
そしてもう一つ、たぶん一番有名な説は原初の水の中から「黄金の胎児(ヒラニャ・ガルパ)」が生じて、彼から万物が生まれたという説。インド神話の創世神話というより世界全土に遍在する「原初の水と宇宙卵」神話(メソポタミア神話とかエジプト神話が有名)ですが、インドにおけるヒラニャ・ガルパは名前すら知られておらず、賛歌の中において「誰?」と疑問形で表されます。最終節に創造神プラジャーパティと名が挙げられますが、これはどうやら後世の付託である模様。
さらにもうひとつ「原人(プルシャ)賛歌」というものもあります。千の頭・千の瞳・千の足をもつ原人プルシャは万有それ自体であり、空間的には大地より広大な体でそれを覆い、時間的には過去と未来にわたって存在するとされます。しかしながら現世界に存在するプルシャはその全体の4分の1であり、のこり4分の3が「根本原質(プラ・クリティ)」と考えられます。この根本原質からヴィラージュ(遍照者)が生まれ、ヴィラージュからプルシャが生まれ、またプルシャの中からヴィラージュが、という循環が説かれました。プルシャは供儀の獣でもあり、祭祀そのものでもあり、神々によって切り刻まれた後、その口からバラモンが生まれ、両腕はクシャトリヤ(王族)となり、両の腿はヴァイシャ(庶民)となり、両足からシュードラ(奴隷)が生まれたとされます。このあたり北欧の巨人ユミルとか中国の盤古の神話につながっていったのではないかと思われますが。
さらにプルシャの心から月が、目から太陽が、口からインドラとアグニが、、呼気から風が、臍から空界、頭から天界、両足から大地が、耳から方位が生じたとされます。ということはプルシャを殺した神々というのはインドラやヴァルナより古い神ということになりますが、そのあたりヴェーダに記述されることはありません。ともかくも祭主プルシャが自分の子らである神々を祭官として祭祀を行い、これが宇宙最初の規範となったということで、先代の王を殺して時代が王位につく、というルールも世界中にありますね。日本でも諏訪の大屠りがまさしくそのものです。フレイザーの金枝篇も有名。
最後に「神」とか「神話」の概念を拝した賛歌もあります。
「そのとき、無もなく有もなかった。空界も、その上の天もなかった。なにものが活動したのか、どこで、誰の庇護のもとに? 深くて計り知れぬ水(原初の水)は存在したのか?
そのとき、死もなく、不死もなかった。夜と昼との標識もなかった。かの唯一者は自力により風なく呼吸していた。これよりほかに何物も存在しなかった。
太初において、暗黒は暗黒に覆われていた。この一切は光明なき混沌とした水波であった。空虚に覆われて現れつつあったかの唯一者は、熱(タパス。苦行)の力によって出生した。
最初に意欲(カーマ)がかの唯一者の前に現れた。これは意の第一の種子(レータス)であった。聖仙たちは熟慮して有の縁者(起源)を無に見出した」
という、哲学的な「無に非ず有に非ざる者」に捧げられた賛歌ですが、「唯一者」という概念存在のほかに神さまは登場せず、哲学的思索の様相を呈します。こうして宇宙が「無に非ず有に非ざる者」から生じた後に、神々はそれに遅れて現れたということです。この三かの結びはこうなっています。
「誰が正しく知るものであるか、誰がここに宣言しうるものか。この創造はどこから生じ、どこから来たのか。神々はこの創造より後である。さすれば、創造がどこから起こったか知る者はだれか?
この創造はどこから起こったのか、だれが想像したのか。あるいはしなかったのか。至高の天にあって世界を監視するもののみがこれをよく知る。あるいは彼もまたこれを知らない」
神々ですら原初の創造を知らない、だから宇宙のおこりは誰にもわからないという懐疑的思索で終わりますが、これこそが「リヴ・ヴェーダ」の詩人たちが思索の須惠に到達した究極の境地でした。ここから一部の知識人は神話と決別して哲学に向き合うことになります。
リヴ・ヴェーダの創造神話———
参考文献・東京書籍・上村勝彦「インド神話」より
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます