【閑話】

第1話 鬼家の三兄弟


 空を分厚い雲が途切れなく覆っている。もう朝日が昇っていてもおかしくはない時刻だが雲が邪魔をして陽光はおろか空色すら顔を覗かせない。

 その曇り空の下、房室じしつ前にたたずむ紫苑は困り果てていた。


「「本当に申し訳ございませんでした!!」」


 目下には二人の男が土下座をしていた。そろって指先をそろえ、額を床に擦りつけ、大きな体を縮こませている。成人男性の土下座というのは妙な存在感を放っており、正直、直視したくない光景だ。


(なんで土下座なのかな……)


 それもどこぞの三男坊と同じく綺麗な型だった。鬼家では勉学の他に土下座の仕方も教えるのか、と紫苑は現実逃避を図る。

 しかし、長く現実逃避はできない。土下座をする男達の性格をよく知っているからだ。例の三男坊とは違い、紫苑が声をかけるまで二人は不動の体勢で床に額を擦りつけ続けるのは容易に想像ができた。


「私は大丈夫ですのでお顔をあげてください」


 柔らかく微笑みつつ声をかければ二人はおずおずと顔を持ち上げた。

 大柄な体躯を軍服に身を包む男の名は鬼海峰かいほう。鬼家の長男にして、南衙禁軍がひとつ牙狼がろう軍所属であり、二週間ほど前から後進育成のため霊黄山れいこうざんへと遠征におもむいていた。今しがた戻ったらしくその顔や軍服には無数の傷や汚れが付着していた。

 その隣の男の名は鬼瑞峰ずいほう。鬼家の次男だ。兄と比べると細い体付きをした優男であり、文官として吏部へ所属している。つい昨夜まで徹夜作業に没頭していたためか目尻には未だに隈が色濃く刻まれていた。

 姓が示す通り、二人は鬼英峰の兄君達である。


「この度はうちの愚弟がとんだご迷惑を……」

「本当はもっと早く謝罪にくるべきでした」


 海峰と瑞峰は泣きそうに顔を歪めつつ謝罪を繰り返す。なにが? と聞かなくても二人が指しているのは「女であることを伏せて慶王を騙している」ことだと理解した紫苑は密かに嘆息する。

 彼らと英峰は血を分けた兄弟だが祖父に甘やかされ育った末っ子と違い、上二人は驚くほど常識人だ。弟が幼馴染を利用して慶王を騙していることに兄として引け目を感じているらしい。その証拠に二人の顔は今にも卒倒しそうなほど青白い。まるで死人のようだ。


(別にいいのに)


 ことの重大さを理解し、年下の女である自分に謝罪すべく矜持きょうじを捨ててまで土下座する二人を紫苑も責めるほど鬼ではない。

 それに悪いのは英峰であって、鬼家の面々は微塵も悪くないことは熟知している。


「いつも通りの口調で大丈夫ですから」


 平常は気さくに話しかけてくれる二人の敬語に紫苑はたじろぎつつも笑顔で対応していると限界がきたのか瑞峰が顔を覆ってうずくまってしまった。


「本当に、本当にすみませんでした。あの子の性格を熟知しているはずなのに止めることができず、あなたを危険な目に合わせてしまいました……」


 声は震えている。泣いているのか時折鼻を鳴らしながらも瑞峰は謝罪の言葉をやめなかった。


「家族である私達がいち早く止めるべきでした。すみません……ッ!!」


 わっと泣き出す瑞峰の肩に慰めるように手を置いた海峰は真っ直ぐな目で紫苑を見つめ「紫翠殿」と借り物の名前を呼ぶ。本名を口にしないでくれるのはありがたいがかしこまった言い方はむず痒いものがある。いつものように「紫苑」と呼んで欲しい。


「あなたの優しさに漬け込む我らを憎んでくれてかまいません。殴ってくれてもかまいません」

「憎みませんし殴りませんよ!?」


 不穏な事を言い出すので紫苑は急いで訂正する。自分が暴力に訴えるのは理不尽なことがあった場合のみだ。今のところ英峰の我がままにしか発動されていないのにまるで平常から暴力的であるかのような物言いには黙ってはいられない。


「私は大丈夫です。雨蓉がついてきてくれているし、英峰も一応気にかけてくれていますから」

「しかし、こんな危険な目にあなたを巻き込むのは——」


 瑞峰の言葉は続かなかった。


「俺をお呼びかな?!」


 バンっ! という効果音と共に英峰が現れた。つかつかと早足で三人の元へ来ると腰に手を置き、胸を張り、土下座の体勢の兄達を見下ろした。


「なぜ二人は土下座しているんだ?」


 率直に疑問の言葉を投げかける。

 対して兄二人は英峰の疑問に返答せず、全身をわななかせていた。これが怒りからくるものか、悲しみからくるものか紫苑が判断しかねていると視界の端で黒色が動いた。海峰が立ち上がった——と認識するのも束の間、


「呼んでない!!」


 すぐさま英峰の脳天に海峰の拳が振り落とされた。骨と骨がぶつかる鈍い音と英峰の呻き声が紫苑の耳に届く。あまりの衝撃音に紫苑はぎゅっと目を閉じた。


「酷い! 暴力反対!!」

「うるせぇ! この馬鹿弟が!!」

「馬鹿に馬鹿と言われるとはな。俺の方が海峰より数億倍も頭はいいぞ」


 紫苑がゆっくりまぶたを持ち上げると英峰が肩を持ち上げ、やれやれと首を左右に振るのが視界に映る。英峰が相手を心底馬鹿にしている時にやる癖だ。


「賢い奴は幼馴染を利用して一儲けしようなんてしねぇんだよ!!」


 海峰の怒鳴り声が周囲に響く。あまりの声量に何事かと遠くから宮女や官吏がこちらを伺うのが見えた。慶王の新入り護衛兵、吏部の天才問題児にその兄である南衙所属の大男、吏部の優男とある意味で周囲から注目される顔ぶれが集まり揉めている光景は確かに目を引くものがある。


「英峰くん。いい加減、君の我がままに紫翠さんを巻き込むのをやめなさい」


 瑞峰は優しく窘めつつも今回の件はそうとう怒っているようで言葉を重ねた。


「君はいつも自分の利益ばかり追求しているが彼は君の兄でも弟でもない、幼馴染なんだよ」

「瑞兄は何を今更なことを言っている? 幼馴染なことぐらい知っているさ」

「知っていても理解してないだろ」


 いつもは優しげな面立ちに苛立ちを乗せた瑞峰は英峰に詰め寄るとその頬を思いっきりつねりあげる。

 見た目同様優しさの塊である瑞峰の行動に紫苑は驚き目を瞬かせた。どんなに英峰が我がままを発動させても言葉で嗜めるのみで絶対に手を出さなかった瑞峰が怒って頬をつねっている。


(瑞峰様も怒るのか)


 というよりも怒りという感情を持っていたことに驚いた。


「いだい!! 離してくれ!!」

「君には一度強く言う必要があるね」

「ないっ! 朝議に遅れる!!」

「十分間に合うよ」


 英峰は犬のようにきゃんきゃんと吠えているが瑞峰は冷たくあしらった。

 言い争う二人を止めるべく紫苑が声を通うとするが海峰が「いいのです」と首を左右に振る。


「あれは一度性根を叩き直さねばなりません」

「お、お手柔らかに……」

「今回の件に関しましてあなたに多大なご迷惑をおかけすることになります。今すぐこの危険な環境から開放させたいという気持ちはあるのですが……」

「先程も言った通り、私は大丈夫です。お二人は私のことなど気にせず業務に集中してください」

「本当に申し訳ございません。誠にありがとうございます」


 腰を曲げて深く頭を下げる海峰の隣に瑞峰が並び立つ。その手には英峰の頬がしかと握られている。


「紫翠さん。なにかあれば私達を頼ってください。蒼月様と比べると宮城での立場は低いですがきっとお役に立てることがあります」

「瑞峰様、海峰様、ありがとうございます。困ったことがあればぜひお力添えを願います」

「兄は南衙の軍舎に、私は基本的に吏部にいます」

「英峰には我らからキツく言い聞かせておきます」

「こんな早朝に押しかけてしまい、すみませんでした」


 では、と言い残し去っていく二人と、二人に引きずられながら助けを求める英峰を見送った紫苑は深く息を吐くと壁にもたれかかった。


(疲れた……)


 あの真面目な兄達のことだからいつか謝罪にくるとは思っていたが早朝、出会い頭に土下座されるとは思わなかった。


(まあ、でも二人が味方になってくれたのは心強いな)


 自身の秘密を知る人間が英峰と雨蓉以外に増え、それも頼れる二人だったことに紫苑は昨夜から抱える不安が和らいだ気がした。

 そのまましばらく壁に寄りかかり、曇り空を見上げていると焦燥しょうそうした様子の雨蓉が小走りで駆け寄ってきた。


「……紫翠様!!」


 肩で息をする雨蓉は紫苑の姿を目に映すと安堵したように全身の力を抜く。


「どうかした?」

「あの三男坊があなた様の元へ駆けていったと聞いて急いで参りました」

「英峰なら帰ったし、なにもなかったから安心して」

「ああ、よかったですわ……。もし紫翠様の身に何かあればすり身にしてしまおうかと考えていました」

「すり身」

「それか細切れにして池に撒こうかと」

「細切れ」


 冗談かと問いたいが雨蓉の表情は真剣そのものだ。英峰がこれ以上、なにかしでかすのなら宣言通り実行に移すことは長年の付き合いから分かっている。


「そんなことしなくていいよ。英峰だって分別ある大人なのだからやっていいことと悪いことぐらい分かってるし、大丈夫」


 とりあえずと思い口にした言葉だが言って「いや、違うな」と少し後悔した。分別のある大人がバレれば即処刑という危険極まりない行為をするわけない。

 紫苑の言葉に雨蓉はじとっとした目つきをする。その心中を察してしまい、紫苑は乾いた笑い声をあげた。


「……はあ」

「わざとらしいため息だね」

「つきたくもなりますよ。百回、いえ千回しても事足りません」


 そう言いながら雨蓉は紫苑の手を取ると房室へ戻るように促した。

 夜着から官服に着替えてはいるが髪を整えていないことを思い出した紫苑は促されるまま中に入ると椅子に腰掛けた。背後に立つ雨蓉はくしを手に取ると丁寧に髪をきはじめる。


「どうして紫翠様はあんなぼんくらに付き合うのか私達、使用人は理解できませんわ」

「なんでだろうね」

「またはぐらかすのですか」

「はぐらかす、というより自分でもどうして英峰と仲がいいのか疑問でさ」


 始まりはなんだっただろうか、と紫苑は考え始める。家柄は同等で、祖父同士も親交があるため必然的に関わりを持つことになったのは覚えている。だが、なぜ三つも歳下である自分にことごとくちょっかいをかけて構い尽くすのか紫苑には理解できなかった。


「三男坊にはご友人は一人もいないと聞いております。それで紫翠様に目をつけたのでは?」

「どうだろうね。それで私を選ぶ理由が分からないよ」


 雨蓉の言うとおり、英峰には親しい友はいない。繊細な容姿に惹かれた者が集まっても他者をいいように利用し、自分の感情の赴くままに生活を営んでいる姿を見るとすぐに離れていく。

 まず、普通の感性を持つ者は絶対に英峰と友達になろうなんて考えないだろう。その家柄と本人の官位が魅力的に映る者以外は。


「それでしたら紫翠様はどうして一緒にいるのです?」

「私は……」


 紫苑はまつ毛を伏せて考え込む。

 英峰とは家が隣で、歳が近いただの幼馴染だ。悪友という言葉も当てはまる。


(なんで私は英峰と一緒にいるんだろう)


 決していいとは言えない性格なのに。

 考えがまとまらず無意識のうちの天井を見上げようとすると雨蓉から「髪が結えません!」と叱責が飛んできたため急いで元に戻す。


「できることならあの三男坊との交友関係を断ち切っていただきたいぐらいですわ。今すぐに」

「雨蓉は本当に英峰が嫌いだね」

「使用人一同、心から申し上げますが、絶対に、天と地がひっくり返っても好きになることはありません」

「でも、私は好きだよ」


 カラン、と櫛が床に落ちた。何事かと視線を向ければ雨蓉が顔を真っ青にされながら口をはくつかせている。


「……雨蓉?」


 名前を呼ぶと今度はその目から大粒の涙が溢れ出てきた。紫苑がぎょっとするのも束の間、雨蓉は袖で目元を押さえると膝から崩れ落ち、泣き始める。


「え、なんで泣いているの?」

「ま、まさか、紫翠様がっ……!」

「私が?」

「あの三男坊を好いているだなんて! 蒼月様に顔向けができませんわ!」

「私が英峰を?」


 好いているが絶対に雨蓉が考えている〝好き〟の種類ではない。


「落ち着いて。好きは雨蓉やみんなに対してのものと同じで、特別な意味はないよ。一緒にいるといい意味でも、悪い意味でも楽しいからそう言っただけ」

「本当ですか……?」

「うん、本当。嫌いだったら一緒にいないよ。……あ、そうか」


 雨蓉が訝しむ視線を送るので紫苑はへにゃりと眉尻を下げるとたった今、脳裏を過ぎった言葉をそのまま口にした。


「さっきの質問の答えなんだけど、英峰といると〝自分を偽らず、本当の自分でいられる〟からかな」


 紫苑の言葉に雨蓉は不満げに唇を尖らせるのだった。

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