第10話


 曲がり角に差し掛かった。紫苑と英峰は視線を交わし、頷きあうと作戦通り、角を曲がり、物陰に隠れた。

 曲者は紫苑達の行動には気付いていないようだ。先程と同じ、一定の距離を保ちながら近づいてくる。そのまま角を曲がり、行く先に誰もいないことに驚いたのか硬直するのが物陰から見えた。歳は三十手前。兵士の装いだが少し丸みを帯びた体付きをしており、顔立ちも柔らかい。兵士よりも宦官だと言われた方が納得できる容貌をしていた。

 紫苑は息をひそめて、曲者の隙を窺う。自分が撒かれたとは気付いていないのか、曲者は忙しなく周囲を見渡している。視線が背後に向いた、その一瞬を見逃さず、紫苑は小刀を手に曲者に飛びかかろうとした――、


「待て待て。一旦、落ちつこう」


 何を考えたのか英峰が紫苑の腕を掴んだ。いざ、曲者捕りを! という状況なのに声はのんびりとしている。

 急に腕を掴まれた紫苑は転けそうになりながらも、信じられないと背後を振り返った。


「あ、な、た、は……!」


 極力声を抑えて、英峰の頬を摘み捻りあげる。


「捕えると言ったのはあなたでしょ?! なんで止めるの?」

「早計だなっと思ってさ。てか、離せ。摘むな」


 英峰は紫苑の手をはたき落とした。力がないため痛くも痒くもないがパン! と乾いた音が響く。

 これでは声を抑えた意味がない。怒りのまま紫苑が再度、その頬を掴みあげ、宙吊りにしてやろうと手を伸ばす。


「お、おい! あっ! ほら、あいつが逃げた!! 俺じゃなく、あいつを追えよ!」


 紫苑は舌打ちすると英峰が指を指した方向を見た。曲者の後ろ姿が遠く離れてゆく。


「なんで逃げるわけ?」

「さあな」


 これは罠だろうか。紫苑は曲者の背中を睨みつけながら考える。自分達を見張っていたのだから誰かに命じられたはずだ。その主人の命令がどうであれ、対象者にバレて逃げるなんてあり得るだろうか?

 しかも、回廊のど真ん中をどたばたと。まるで追いかけてくださいと言わんばかりの行動である。


「英峰、どうすればいい?」

「どうすればって?」

「追うべきか、追わないべきか」

「追うべきだろ。ほら、行ってこい」


 とんっ、と軽く背中を叩かれ、紫苑は駆け出した。恐らく、自分だけを働かせて楽をする気であろう英峰の襟首を掴み、連れていくのを忘れない。何か文句は言っていたが無視をして、曲者の跡を追った。




 ***




(ん? ここって……)


 英峰がうるさいので引きずるのをやめて、担ぎ上げながら走っていた紫苑は今まで辿った経路と目の前の光景から曲者の目的地を悟り、首を捻った。

 この薔薇の小径こみちを進むにつれ、人の気配がなくなっていく。それはこの先の殿舎の主人が夜間の警備を嫌がり、兵士を配置しないためだ。


「どうやら、慶王んとこ行こうとしているな」

「……それって、曲者は慶王様に雇われたってこと?」

「かもしれないな。知らないけど」

「私への嫌がらせのため、ここまでする?」

「知らないって言ってんじゃん」


 面倒くさそうに英峰が呟く。


「紫苑、あと少ししたら右手、下んとこに穴空いているからそこ通って」

「分かった」


 英峰の言った通り、薔薇の生垣の下には大人が這いずれば通れそうな大きさの穴が空いていた。奥になにがあるのかつるが重なったことで闇が深くなり、目視ができない。恐ろしさは感じるが英峰が言うからには、正しいのだろうと紫苑は迷わず、這いずって移動した。英峰の足を掴むのは忘れず、きちんと引きずっていく。うつ伏せではなく、仰向けなのは優しさだ。

 棘が肌を裂く痛みに耐えながら、また英峰の悲鳴を聞きながら秘密の通路を通ると真っ暗な殿舎が聳え立っていた。慶王が就寝する殿舎――天華宮。その名の通り、天下一の華やかさを誇る殿舎は軒下のきしたに吊るされた提灯には一つも明かりが灯されておらず、朱塗りの柱と黄金に輝く壁は闇に染まっていた。


「あの道、近道なんだよ。ある角度からじゃないと穴の場所もわかんないようにしているから兵士にも見つからないよ」


 英峰は自慢げだ。恐らく、あの抜け道は英峰が作ったのだろう。怖いもの知らずめ、と紫苑は心の内で毒を吐く。


「紫苑、そこで隠れて」


 そこ、と言われた場所は大岩の影にあたる場所だ。この暗闇なら大人二人が身を寄せ合えば十分、隠れることはできるだろう。

 紫苑は英峰を引きずりながら岩陰に隠れた。

 少しして荒い息遣いが聞こえた。曲者だ。迷わずきざはしを走ると門をくぐり、殿舎の中へ入っていこうとする。


「さあ、紫苑。行って来い!」


 英峰の合図に紫苑は岩陰から曲者に飛びかかった。片手で襟首を掴み、足を払い、地面に叩きつける。曲者が暴れる前にその首筋に小刀を押し当てた。


「動くな。動けば切れるぞ」

「ご、ごめんなさい! ……ごめんなさいっ! 違うんです!」

「少し黙って」


 上擦った声で曲者は謝罪の言葉を重ねる。あまりの声量に紫苑は首筋に切っ先をめり込ませた。つん、と鉄臭い臭いが鼻をさす。

 曲者は悲鳴をあげるとぶるぶると震えあがった。


「ち、違うんだ。私は、嫌で、でも逆らえなくて」


 曲者は小さな声で何かを訴えている。


「お前はさ、誰に命じられた?」


 カツカツと大きな沓音をたてながら英峰が近づいてきた。


(慶王様が起きてしまうだろう!)


 紫苑は英峰を睨みつけた。せっかく曲者を大人しくさせたのにこうやって音をたてられたら意味がない。騒ぎに目覚めた天凱はきっと烈火のごとく怒るに違いない。

 紫苑が心配した通り、殿舎の主人は夢から覚めたらしい。重厚な扉の隙間から、先程はなかったはずの微かな明かりが漏れている。近づく足音と共に明かりは強くなり、紫苑は面倒なことになったと顔を歪めた。


 だが、予想に反して天凱は扉を開けることなかった。

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